残照日記

晩節を孤芳に生きる。

小学校の閉校

2010-12-24 12:48:38 | 日記

∇報道によれば、実際に使われているものとしては全国で最も古いとされる校舎がある岡山県高梁市の吹屋小学校が、児童数の減少を受けて、再来年の3月末で閉校する見通しとなった。鉱山が稼働していた最盛期には、300人を超える生徒数を誇ったこの小学校も、現在は1年生と4年生、それに5年生の6人が学ぶだけ。説明会に出席したおよそ30人の住民から反対する意見は出されず、教育委員会の提案どおり閉校が決ったとのことだ。吹屋小学校の木造校舎は、明治33年(1900)に建設され、中央本館が2年後に完成した。そしてその2年後の明治37年に日露戦争が勃発した。当時の世相、小学校の普及状況などを岩波日本史年表や、「新聞記事で綴る明治史」(荒木昌保編)「明治東京逸聞史」(森銑三)「日本教育史」(佐藤誠実)「夜明けあと」(星新一)等々から幾つか拾って往時を回顧してみたい。

∇先ず人口規模だが、推計によると、明治5年に日本の総人口は約3500万人、明治33年頃は4500万人、5000万人を超えたのが明治45年だという。当時世界人口は約10億6500万人、米国は7600万人。平均寿命は40歳~45歳だった。小学校開設の布告は明治2年(1869)。<諸道府県ニ於イテ小学校ヲ設ケ、人民教育ヲ普ク施行>すべしと通達されたが、実際設置に着手したのは京都府が第一号だった。その後度々教育令の改正があったが、軌道に乗り始めたのが明治19年の「小学令」から。義務教育として年齢6歳から4年間を修業年限とした尋常小学校、更に4年就学する高等小学校が設置された。学科は、尋常小学校が修身、読書、作文、習字、算術、体操とし、高等小学校はそれに地理、歴史、理科、図画、唱歌が加わった。そして明治33年に再び「小学校令」が改正され、明治児童教育の骨格が固まった。

∇上述の吹屋小学校が建設されたのも丁度その時期に当る。当時全国小学校の総数は26,856校、生徒数は418万人余だったという。(「日本教育史」) 因みに政府の2008年統計では、小学校総数が22,476校、生徒数は約712万人である。学校総数が変わらない処から鑑み、明治33年頃にはほゞ全国に小学校が行き渡っていたことが知れる。尚、別統計で小学校の就学率は、明治33年時点で男子が90.4%、女史70.7%、即ち国民の約8割が初等教育を受けていたことになる。明治維新以来、日本の近代化が短期間で成就された背景には、こうした児童教育の徹底が寄与していると断言してよい。全くの余談になるが、岡山県高梁市といえば、我が崇拝する陽明学の泰斗で財政家の山田方谷の出身地だ。幕末に松山藩財政を建て直し、借金10万両を返済、かつ余財10万両を蓄財した。地元住民の嘆願により、昭和3年「山田方谷駅」ができた。方谷談はいずれ又──。

∇さて、明治33年といえば、中国での「義和団」騒動で喧しかったり、国内では伊藤博文が立憲政友会を土台として第四次伊藤内閣を発足させたりと政治的に話題の多い年だったようだが、教育面では「鉄道唱歌」が作曲されて大流行した。「鉄道唱歌」は、第一集「東海道編1」(新橋~岐阜)が5月、9月に第二集「東海道編2」(大垣~神戸)、10月に第三集「山陽・九州編」(神戸~長崎)、第四集「奥州・盤城線編」(上野~青森~上野)……と、第六集まで矢継ぎ早に刊行された。歌詞は膨大量の節からなるが、関東で流行ったのが「東海道編1」の一、二番。<1.汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として><2.右は高輪泉岳寺 四十七士の墓どころ 雪は消えても消えのこる 名は千載の後までも>。「奥州・盤城線編」に<7.次に来るは古河間々田 両手ひろげて我汽車を 万歳と呼ぶ子供あり おもへば今日は日曜か>などがあって面白い。

∇滝廉太郎が「花」を作曲したのもこの年だ。作詞は武島羽衣、廉太郎21歳の時の作品である。彼は東京音楽学校在学中からピアニスト、作曲家として評判が高かった。「花」は組歌「四季」として出版され、日本初の芸術歌曲と呼ばれた。滝は、既存の唱歌集を<程度の高きものは極めて少なし>と批判、自ら日本の詩に合せた曲を発表し<以て此道に資すあらんとす>と述べた。この言葉を裏付けるように、「荒城の月」「箱根八里」などの傑作を次々発表している。(岩波「唱歌・童謡ものがたり」) 「荒城の月」は「中学唱歌」に収められた。廉太郎23歳の時の作品だが、作詞は明治詩壇の雄で30歳の土井晩翠。かくして当時一流の詩人、文人、作曲家、科学者が総動員されて児童教育に参画した。それは、当然ながら教科書作りにおいても然り、だった。明治33年の「小学校令」改正に伴い「国語読本」が続々発刊された。就中富山房版の坪内逍遥編の読本は秀逸である。二宮金次郎、徳川光圀、菅原道真らが語られ、「正直の徳」が推奨されている。活発発地な躍動とえもいわれぬ風韻に満ち、真摯に生きる国民を醸成した日本の良き時代「明治」は、最後の小学校の校舎と共に消えてゆくのだろうか。

<第七課 皇后陛下の御歌>(尋常小学校「国語読本」巻五)

金剛石も磨かずば、玉の光は添はざらん。人も学びて後にこそ、誠の徳はあらはるれ。時計の針の絶え間なく、めぐるが如く時の間の、日かげ惜しみて励みなば、如何なる事か成らざらん。──此の御歌は、皇后陛下(昭憲皇后)が、我々どもに、勉強をすすめたまふ御歌なり。

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