残照日記

晩節を孤芳に生きる。

古代スープ雑話

2010-12-15 13:44:10 | 日記
<2400年前のスープ発見──13日付の中国英字紙チャイナ・デーリーなどによると、中国陝西省の西安市郊外でこのほど、2400年以上前のスープとみられる液体が入った青銅製の鼎が見つかった。保存状態はほぼ完全だったという。鼎は高さが約20センチで、戦国時代(紀元前403~前221年)の墓から発見。ふたを開けると濁った緑色の液体が半分程度まで入っており、鶏のような鳥類の骨も10本以上漬かっていた。発掘関係者は、鼎で肉を煮て、死者とともに葬られたとみている。…スープの成分などをさらに調べ、戦国時代の食習慣研究に役立てる考えだ。>12/13 時事通信 )

∇紀元前3世紀といえば、岩波「日本史年表」によれば、日本では<北九州に稲作と金属器をともなう弥生文化が成立>した頃。中国では、晋・宋・斉・楚・秦を治めた「春秋の五覇」と呼ばれる大名が下克上を繰り返して争った時代を「春秋時代」(前770~前403)、晋から分割された韓・魏・趙の三国に、燕・斉・楚・秦を加えた「戦国の七雄」と呼ばれる大名たちが弱肉強食の争奪戦を繰り広げた、前403~前221年を「戦国時代」と称している。市場が築かれ、貨幣経済が進展したのがこの頃で、<春秋・戦国時代は中国全史上の一大過渡期にあたっている>。(貝塚茂樹「古代中国」講談社)思想家としては、春秋時代に孔子(前551~前479)、戦国時代は所謂“諸子百家”の時代で、孟子、荀子、老子、荘子そして兼愛思想家の墨子等々が排出し、多彩な論争がくりひろげられた。青銅器から鉄器の時代への移行期でもあった。

∇上書によれば青銅器は、<殷周時代までは主として祭祀の供物を入れるものであり、宗廟において神前に供えられ、祭祀後の直会において一族の人びとが供物を共に食するためのものであったが、西周(前1100~前770)の末になると、しだいに貴族たちの饗宴のための道具となっていった。>。西安市は当時の魏国の都(=長安)で非常に栄えていた。西安市郊外の戦国時代の墓から発見された青銅製の鼎も、恐らくは政府高官らが主催する饗宴用として利用されたものだったに違いない。標記記事に<鶏のような鳥類の骨も10本以上漬かっていた>とあるが、当時の家畜には馬・牛・羊・豕(豚)、そして「老子」の「小国寡民の章」にもあるように「鶏・犬」がいた。易の卦に雉の名も出る。鶏肉や雉肉のスープを火にかけ椀に盛りながら、戦略戦術を練り、或は戦闘前後に兵士を慰労したりしていたのかもしれない。以下は「史記」「春秋左氏伝」より、スープにまつわる雑話を幾つか拾ってみた。先ずは食べ物の怨みは怖いという話から──。

∇紀元前607年、宋の指揮官である華元が鄭を攻めた。戦いの前日、華元は羊を殺して兵士に食わせたが、彼の戦車の御者である羊斟(ようしん)に与えなかった。羊斟は怒って、華元を載せたまま、敵陣・鄭の陣中に駆け込んだ。鄭はまんまと華元を捕虜にした。指揮官を失った宋は総崩れ、大棘(たいきょく)の戦いに大敗してしまった。後の人はこれを「羊斟の怨み」と呼んだ。たった一杯のスープ(羊湯)を与えなかったために怨みを買ってしまった。(「鄭世家」) 楚の高祖は四人兄弟で、長兄を伯といったが早く亡くなった。高祖がまだ微賎であった頃、度々賓客と共に長兄の嫁のもとを訪れては食事した。嫂は義理の弟を嫌がって、高祖が客と来ると、羹(スープ)がなくなったふりをし、釜を柄杓で叩いてみせた。賓客はそのため立去った。実は釜の中を覗いたらまだスープは残っていた。高祖はそのことから嫂を怨んだ。高祖が皇帝となるや、他の兄弟を侯に封じたが、伯の子だけが封じられなかった。(「楚元王世家」)

∇紀元前606年、鄭の穆公が没し、息子が即位した。(=霊公)。翌605年、楚の国から大亀が霊公に献ぜられた。丁度、鄭の公卿であった子家と子公が霊公の朝見に伺うところであったが、子公の人差し指がぴくぴく動いた。子公が子家に言うには、「不思議なもので、この人差し指が動く時は、きまって珍味にありつくんだよ」と。参内して霊公に謁見すると、まさに大亀のスープが出るところであった。子公はニヤニヤしながら「やっぱりそうか」と言った。霊公が「なぜ笑ったのか」と尋ねたので、子家が先ほど聞いたすべてを話した。食事の時がきた。が、子家は呼ばれたが、子公にはスープが与えられなかった。子公は頭にきて、鼎に指を浸し、それを嘗めながら退出した。無礼な振る舞いに霊公は立腹して子公を殺そうとしたが、子公は先を越して、子家と共謀して霊公を殺害した。(「鄭世家」)嗚呼、食べ物の怨みや怖し!

∇食い物の怨みはやはり高級料理が多い。「孟子」に、<魚は我が欲する所なり。熊掌(ゆうしょう=熊の手のひら)も亦我が欲する所なり。二者兼ねることを得べからざれば、魚を捨てて熊掌を取らん者なり>(告子上篇)とあるように、古来、熊掌(特にそのスープ物)は珍味中の珍味とされた。それにまつわるいくつかの逸話がある。紀元前626年、楚の成王は、太子商臣を跡継ぎにしようと思い、総理大臣の子上に相談した。子上は、成王はまだ若くて寵愛も多くいる、急いで決める必要は無い。しかも商臣は蜂の目にして狼の如き声の持ち主で心が冷たい、と反対した。だが、聞き入れず商臣を太子に立てた。暫くすると今度は職という子を立て、商臣を廃しようとした。商臣はその噂を確かめるや噂通りだと知り、謀反を起して宮殿を包囲した。<成王は、熊掌料理を食べてから死にたいと懇願したが聞き入られず、首を縊って死んだ。>(「楚世家」)もっともこの話は、食い意地というよりも、熊掌は珍味中の珍味だが、入手にも調理にも時間がかかる。成王は、熊掌料理で時間を稼いで、その間に援軍が来るのに一縷の望みを賭けたのだという説がある。

∇BC607年頃のこと。晋の霊公は驕慢な暴君で、重税を課し、宮殿の壁を彫刻で飾ったり、眺望台から眼下の民衆めがけてパチンコで狙い、人が逃げ惑うのを見て楽しんだりした。ある日、料理官が熊掌を煮たが、柔らかく煮えていなかったという理由で彼を殺し、もっこに詰め、婦人の頭に載せて宮中から外に運びださせた。霊公の悪行の数々を群臣が責めたが改めず、遂に秋9月、桃園で殺害された。逆に食い物のお蔭で救われたのが霊公に疎まれた大臣の趙盾(ちょうとん)。かつて霊公が趙盾を亡き者にせんと企て、酒宴を催した。伏兵が趙盾を急襲した時、男Aが脱出を手助けした。趙盾が脱出の際に何故ワシを助けたのか、と訊いたら男A曰く、<我は桑下の餓人なり(私があの翳桑で餓えていて救われた者です)>、と。男Aは名も告げず去った。──これには前日譚がある。かつて趙盾が翳桑という土地で狩猟をしていた際に、餓えた男Aに出会った。聞けば3日間食べていないという。食べさせると半分を残した。わけを尋ねると故郷に帰る途中で、暫く会っていない母親の手土産にしたい、と言う。そこで全部食べさせ、飯と肉を弁当箱に詰めて持たせた。やがてこの男Aは趙盾の護衛兵士に加えられていたのだった。(「晋世家」)嗚呼、食べ物の怨みと恩返しと! 

(写真は昨晩の「ごった煮」鍋の残り)