残照日記

晩節を孤芳に生きる。

薬缶の下の寒さ

2010-12-17 07:30:36 | 日記

○うづくまる薬缶の下の寒さかな 丈草

∇寒い、寒い。愈々冬将軍到来だ。こんな寒い日は、内藤丈草を思う。──丈草は蕉門十哲の一人で、正風俳諧の真髄を伝承した。<うづくまる>の句は、<うづくまる薬の下の寒さ哉>とも。元禄七年(1694)旧暦十月十一日(11月27日)の夕刻、芭蕉は大阪御堂前南久太郎町、花屋仁左衛門方の裏座敷で瀕死の床にあった。その夜、芭蕉のもとに集まった弟子たちは其角、去来、支考、丈草、乙州、正秀、惟然、そして医師の木節らだった。この古今に倫を絶した俳諧の大宗匠・松尾芭蕉の臨終場面を芥川龍之介は「枯野抄」という短編に纏めた。彼はその題材を肥後の僧・文暁の創作になる「花屋日記」から取った。

∇「花屋日記」(岩波文庫所収)は、其角の「芭蕉翁臨終記」、路通の「芭蕉翁行状記」、支考の「前後日記」そして「去来抄」を土台として芭蕉臨終前後の様子をドキュメンタリー風に組み立てゝある。正岡子規がこれを読んで感涙し、宣伝して以来広く流布したといわれている。芥川は専ら十月十一日申の中刻(午後10時頃)から十二日の臨終時迄を主に書いているが、何といっても面白いのは、十一日の「枯野抄」直前の記事である。

∇十月十一日朝、時雨が降り続いている。思いがけなく江戸から大和・紀州・大阪を巡っていた其角が、道中で師の病を聞きつけて駆けつけた。病床の芭蕉は既に骨と皮の状態で死相が漂っていた。去来、丈草、支考等から病状の顛末を聞き夜伽をしていると、九時ごろに芭蕉が夢から覚めたように粥を所望した。皆は喜び即刻粥を炊いてすゝめた。芭蕉は中椀で快く食べほした。昨日以来の食事であった。土鍋に残った粥を去来も掬(すく)って食べ、<病中のあまりすゝりて冬ごもり>と詠んだ。

∇去来が言うには、「趣向を弄さず、ただ思ったまゝ句作しあって、師を慰めようじゃないか」と。皆異議あろうはずもなくそれぞれが即興にかかった。早速、惟然は前夜正秀と二人で一つの布団を引っ張りあって眠れなかったことを、<ひっぱりて布団に寒きわらひ哉>、正秀は皆で思い思いの夜伽をしながら師を偲ぼうとて、<おもひよる夜伽もしたし冬籠り>と詠んで、座を沸かせた。聞いていた芭蕉も微笑を漏らして聞き入った。

∇十日以来の興に銘々笑顔を取り戻し、とりもちで蠅を取ったり暫くは盛り上がったが、そのうち芭蕉が疲れて寝入ったので座を閉じた。支考が突然去来に言うには、「師の発句集を死後纏めて刊行したいと日頃望んでいたが、病に苦しんでおられる最中とて言い出せなかった。今日はご機嫌宜しいようなので、それに乗じて申し出てはどうか」と。すると去来は、「何と小ざかしいことを言われるかな。師は平生名聞らしきことを好まれない。今日漸く快き様子が見られ、皆が喜んでいる中、お気に障ることを聞かせては、お心を痛められるだけ。早くその座を立ち去りなされ」と声を荒げて叱った。

∇支考、はからずもものいい出して、諸子の聞前面目を失ったが、隣室に去る間際に惟然に、一句できたので書いてくれと、<しかられて次の間にたつ寒さかな>と詠んだ。後ほど目を覚ました芭蕉がそれを聞いて、さすがは支考なりとおかしがった。芭蕉の勧めで、先刻に続いて惟然が他の弟子たちの句をひとつずつ詠みあげた。

○うづくまる薬缶の下の寒さかな  丈草
○籤とりて菜飯たかする夜伽かな  木節
○皆子なりみのむし寒く鳴き尽くす 乙州

∇芭蕉が、「丈草の句を今一度」と所望したので惟然が再び詠みあげると、「丈草でかしたり。いつ聞いてもさびしをり調いたり。面白い、面白い」としわがれ声で褒めた。いつになくご機嫌麗しく喜こばれたのであった。云々──「去来抄」にこの場面を「先師評・場を知ること」という節を設けて、正風俳諧の真髄を悟った逸話として次のように解説してある。

<先師、難波の病床に、人々に夜伽の句をすすめて、「今日より我が死期(しご)の句なり。一字の相談を加ふべからず」となり。さまざまの吟ども多く侍りけれど、ただこの一句のみ、「丈草出来たり」とのたまふ。かかる時は、かかる(真)情こそ動かめ、(特別な感)興を催し景をさぐるいとまあらじ(景趣を探る余裕などまい)とあるは、この時こそ思ひしり侍りける。>

∇去来の「病中のあまりすゝりて」も、支考の「しかられて」もいい。惟然・正秀・木節・乙州、皆然りだ。が、師の死を前にして、しん/\と底冷えがして薬缶の沸々という音のみ聞こえる厳寒の部屋で、じっとうずくまって夜伽する丈草の姿が彷彿する「薬缶の下の寒さ」の句には及ばない。この場に最も相応しい絶品だというわけである。まさにこゝに正風俳諧の真髄が見事に語られている。──尚、丈草については堀切実著「芭蕉の門人」(岩波新書)に詳しい。