残照日記

晩節を孤芳に生きる。

敬天愛民

2010-12-23 08:53:25 | 日記
○うけつぎて 国の司の身となれば 忘るまじくは 民の父母  
(上杉鷹山公が藩主就任時に詠んだ歌。時に公は17歳)

>雲洞庵にて、通天存達和尚から「敬天愛民」の教えを賜った、と現地では伝わる。(「国を成すには人を成すを以てす」の教えも)、又、上杉家には、謙信公の頃からお抱えの儒学者がいた。(元領民氏コメントより)

∇先ずは「元領民」殿の嬉しい情報提供に深謝申上げます。有難うございました。以下はそれをヒントに駄文を……。NHKドラマで加藤武が演じた通天存達禅師は、下野(栃木県)にある日本最古の最高学府・「足利学校」に学んだ俊僧だったそうである。ここでのカリキュラムの中心は儒学であった。「四書五経」は勿論のこと、兵学、医学も教授されたので、全国の英才がこぞって学び、それぞれの国許へ質の高い文化を持ち帰り、自らも戦国大名らに取り立てられて活躍した。「敬天愛民」「国の成り立つは民の成り立つを以てす」等は、特定される典故は見当たらないが、禅師自身が儒学の根幹をなす思想を自得・敷衍したものであろう。いずれにせよ「詩経」・「大学」に、<楽只の君子は民の父母=君子たるものは、「民の父母」たるべく民を愛すべし>、とあるように、「下民への愛」が為政者たる者の使命。直江兼続が少時にその教えを禅師から受けたことは想像に難くない。

∇又、「元領民」氏ご指摘のように、上杉謙信公にはお抱えの儒者がいた。名を山崎秀仙、号を専柳斎と称した。元は佐竹義重に仕えていたのを謙信公に認められ、奉行職も務めたようだ。「四書五経」は勿論、老荘思想も講じたという。岡谷繁実著「名将言行録」に、「上杉謙信公家訓十六ヶ条」が載っているが、始めの三箇条はまさに儒経の教えそのものである。<一、心に物なき時は心広く体泰(ゆたか)なり><一、心に我儘なき時は愛敬失わず><一、心に欲なき時は義理を行う>。「心広く体胖(ゆたか)なり」は「大学」、「愛敬」は「孟子」、「義理(義)」は仁・義・礼・知・信の「義」だ。尚、「愛敬」は「愛と敬」の意で、<孟子曰く、人君が賢者を招致するには、高禄を与えるだけではいけません。賢者を愛しかつ敬しなければ、獣を養うのと一緒ですから、と。> 「人を愛す」は、「人を敬す」が伴ってこそだ。

∇幕末、会津戦争・東北戦争を指揮したのが西郷隆盛。彼の思想に有名な「敬天愛人」がある。「西郷南洲遺訓」に曰く、<道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり>と。「敬天」は「愛民」「愛人」のバックボーンを支える儒学思想の根幹である、と言っていい。「元領民」氏の故郷には、南洲翁より先に「敬天愛民」を実践した直江兼続がおり、その没後150年、上杉家第十代藩主に上杉鷹山という名君を高鍋藩より迎えて、「領民」は再びその慈愛を受けることになる。──蛇足に蛇足を加えるが、直江兼続の逸話が載る言行録を幾つか紹介しておくことにする。先ずは新井白石著「藩翰譜」・上杉家に挿話が載る。入手しやすい歴史読物は、湯浅常山著「常山紀談」(岩波文庫)、岡谷繁実著「名将言行録」(教育社)、山田三川著「想古録」(東洋文庫)などである。

∇<越後の侍大将直江山城守兼続は、朝日将軍義仲の乳子、樋口次郎兼光の末孫である。謙信に仕えて景勝に至る。景勝が奥州にて百万石を賜りし時、米沢三十万石を直江に与えられ、陪臣の中では第一の大録であった。長(たけ)高く容儀骨並びなく、弁舌明らかに、殊更大胆なる人なり。且つ文芸にも暗からず、五臣注の「文選」はこの人版行させたるなり。>(注:「直江版文選」と呼ばれる貴重本。呂延済、子良、張銑、呂向、李周翰の5人が注をつけた「五臣注文選」が原本。兼続は大変な蔵書家であり、宋版「史記」「漢書」「後漢書」は、いずれも国宝に指定されている。) 又、漢詩も能くし、春雁似吾吾似雁 洛陽城裏背花帰(春雁吾れに似て、吾れ雁に似たり。洛陽城裏、花に背(そむ)きて帰る)などという句も世に聞こえたり。>

∇<伏見の城で諸大名が並びいる中、伊達政宗が懐中から金銭を取り出して皆にみせていた。当時は貨幣が出始めたばかりで、珍しいものとしてもてはやされていた。兼続にも、「これみられよ」と言葉をかけた時、兼続は扇の上にその金銭を置いて、打ち返し打ち返し女子供らが羽根突きでもするようにして見ていた。伊達政宗が「気にせず手にとってみられるがよい」と言いも終わらぬうちに、兼続は「我が主謙信の時から、先陣を承り、采配を振るったこの手に、金銭如き賎しい物に直接手に触れては、汚れます故、このように扇に載せたのです」と言って、金を政宗の方にぽいと投げて戻した。>(以上「常山紀談」)→<政宗は非常に赤面した、ということである。>(「名将言行録」)→<家康は満面に怒気を含んで、舌鋒鋭く問責したので、終身人に屈することのなかった兼続も流石に答弁に窮し、その場で平伏したそうな。>(「想古録」) 嗚呼、今、世紀末、「敬天愛民」の為政者の出んことを!


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