残照日記

晩節を孤芳に生きる。

自分の顔作り

2010-12-16 07:54:11 | 日記

○ 曾国藩の 手紙身にしむ 年の末  楽翁

<冬夜読書>   山田方谷

頽壁雪五尺  崩れた壁のあばら家に雪三尺
寒空月一輪  寒空には(皓々たる)月一輪
堅凝天地気  堅く凝る(凝縮)天地の気が
鍾在読書人  鍾(集)りて読書の人に在り

<予、平生雑誌を手にすることを好まざれば、毎月郵送し来る「中央公論」「解放」「女性」「新小説」「文芸春秋」等、幾多の寄贈雑誌は受け取るや否や、押入れの中に投げ込むなり。予、時人の為すところを見るに、新聞雑誌の閲覧には時間を空費して悔ゆるところなきものの如し。されど雑誌より得るところの知識果たして何ぞや。予は、雑誌閲読の時間を以て、古今を問わず学者のまとまりたる著書を熟読することとなせり。「中央公論」の増大号の如きものを通読する時間を以てせば、「史記」「(資治)通鑑」の如き浩瀚なる史籍を読むこともまた容易なるべし。>(永井荷風「断腸亭日乗」)

∇「最近漸く肩書きを外して他人と接触できるようになりました。つくづく感じたことは、名刺無しで“己自身の顔にどれだけ自信が持てるか”ということでした。結局の処、謙虚に己を練磨するしかない、ということに尽きそうです。云々」 有名企業関連会社の社長を2社経験して、先年退職した知人からの消息中の言葉である。ふと、曾国藩の「家書(家人への手紙)」(「中国散文選」筑摩書房)を思い出した。──清朝末期の1850年代初め、洪秀全を指導者として清朝打倒・土地私有反対・経済的平等を標榜した「太平天国の乱」が勃発した。これを鎮圧して「中興の功臣」と仰がれたのが曾国藩である。中国革命の先駆としてこの乱を「造反有理」とする近代史家等からは必ずしも彼の評価は高くない。だが、生涯人格修養に励んだ文人政治家としての曾国藩に比肩すべき人物は少ない。

∇<現在私は北京にいて身体平安で、最近は体気が日増しに良好ですので、毎日発奮して勉強し、早起きして儒教の経典を温習し、朝飯を済ますと「二十三史」(「史記」「漢書」「後漢書」「三国志」……「明史」)を読みます。午後には詩と古文を閲覧します。毎日合計八十頁を読むことができます。いずれも読みながら文章の要所・要点に○や「,」などの圏点をほどこします。もし用事があるときは半分だけ読みます。弟は健康に別状ありませんが、余り読書しません。…が、昨日父上の「境遇は得難く光陰は再びせず」というお手紙の言葉をみて、やっと後悔して読書をはじめました。……>

∇別日の息子あて──<私は軍中にあっても、学問を続けている。本を読み、字を書くことを中断したことはない>。弟あて──<私はこれまでも自分に日課を課すことが極めて多かった。ただ、「茶余偶談」(随筆)を記すこと、史書を十頁読むこと、日記をつけること、この三つだけは生涯中断することなく続けていく決意である。>──曾国藩がよく読んだ書籍は「論語」「孟子」、朱子、顧炎武。歴史は「史記」「漢書」。文章は韓愈、欧陽脩、蘇軾、詩は杜甫・李白だった。何れも古典の粋を再読・三読している。生活はいたって質素。文字通り一汁一菜で、来客あれば一皿、二皿追加されるのが習わしだった。

∇「謙虚に己を練磨する」方法は「反省」によってなされた。陳舜臣が曾国藩を「一種の反省マニア」と称したように、彼は書斎を「求闕斎」(己の欠点を求めるの意)と名付けてやたらに反省した。それだけに晩年の処世は見事で、「功成り名立つるに至って、汲々として人材を選挙するを以て己が任となす」を信条としかつ実践した。左宗棠・李鴻章等を抜擢して育て、彼らに全てを任せ、譲った。「才を原(尋)ぬ」に曰く、<現在、権勢の地位にある者は、「天下に人材はいない」と嘆くが、十人の中にはそれなりの、百人の中にはそれなりのすぐれものがいる。それを抜擢して育てる努力が足りないのだ>と。

∇閑話休題。曾国藩が子息・紀沢に与うる書簡に曰く、<汝の容止(容姿)甚だ軽し。是れ一大弊病なり。以後宜しく時々(機会あるごとに)留心すべし。行座に論なく重厚なるべし。早起・有恒・重厚の三者は、皆、汝最も之を務むるを要す>。即ち我が知人の言う処の「己自身の顔にどれだけ自信が持てるか」を成就せよと。人それぞれの方法によって老後の顔作りが始まっている。老生は曾国藩の読書と作文による勤勉に倣っていこう。そういえばこんな名言もあった。<士太夫三日書を読まざれば則ち理義胸中に交わらず。便(則)ち覚ゆ、面目・憎むべく、語言・味なきを>(黄山谷)。──老生にとって今年は、晩年最大のエポックの年周りだった。やがて静かに今年も暮れていく。来年から、又、新しい「顔作り」を心掛けていかねばなるまい。