残照日記

晩節を孤芳に生きる。

「竜馬伝」余話

2010-12-25 08:13:34 | 日記
○丸くとも一かどあれや人心 
    あまりまろきはころびやすきぞ  (坂本竜馬)

<年間ドラマ視聴率1位「龍馬伝」──今年1年、単発ドラマを含む年間のドラマ視聴率(年間平均視聴率ではなく単発の最高視聴率)が出揃った。1位は歌手で俳優の福山雅治が主演を務めた大河ドラマ「龍馬伝」(NHK)が24.4%で堂々のトップ。維新の立役者・龍馬の新たな魅力を引き出し、今年の日本を席巻した。そして2位は女優・松下奈緒と向井理主演の「ゲゲゲの女房」(NHK)。初回視聴率は朝ドラ史上ワーストを記録したが、回を重ねるごとに右肩上がり。最終話で最高視聴率23.6%をたたき出し、有終の美を飾った。尚、ランキングは、ビデオリサーチ社(関東地区)による12月23日までのデータ。>(12/24 オリコン) 

∇NHK大河ドラマは1963年の「花の生涯」をスタートに今年で47回目。ビデオリサーチの調査によれば、年間平均視聴率で最高を記録したのは、1987年放映の渡辺謙「独眼竜政宗」(39.7%)であり、翌年の中井貴一「武田信玄」(39.2%)がこれに続いている。逆に平均視聴率が最低だったのは、1994年の三田佳子「花の乱」(14.1%)、そして意外にも、1968年の司馬遼太郎作北大路欣也「竜馬がゆく」(14.5%)だった。この10年で20%以上の視聴率を稼いだのは、「篤姫」(宮崎あおい)「利家とまつ」(唐沢寿明、松島菜々子)「天地人」(妻夫木聡)「功名ケ辻」(仲間由紀恵/川上隆也))の4本で、「龍馬伝」は18.7%と年間平均視聴率では振るわなかった。従来の龍馬像を打ち破る“福山龍馬”として若者には人気を博したようであるが、老生にとっては直江兼続役の妻夫木聡と共に主役が今風過ぎて迫力不足の感がした。……

∇既に大方が承知の通り、竜馬は「刺客」だった。大老・井伊直弼が桜田門外で、老中・安藤信正が坂下門外で暗殺された当時、佐幕派、開国主義者は刺客に毎日のように付け狙われた。参議・海軍卿の勝海舟も同様であった。千葉周作の甥・重太郎に誘われ、坂本竜馬も勝の刺客となった。二人が赤坂元氷川の勝邸を訪れ、腰元に案内された部屋はまさに穴倉。<せまい八畳ほどの日当たりのわるい間で、和漢洋の書籍がぎっしり積み上げられ、なげしに「海舟書屋」という、妹婿の佐久間象山の筆になる扁額がかかっている。>(司馬遼太郎「竜馬がいく」)。その「穴倉」で、深い見識に満ちた勝の話と彼の溢れ出る機知とで煙に巻かれた竜馬は、すっかり“ミイラ取りがミイラ”になった。その場で勝の門人になってしまったのである。母親とも慕う姉・乙女への手紙にこう書いた。(以下「龍馬の手紙」講談社学術文庫)

∇<此の頃は、天下無二の軍学者、勝林太郎という大先生に門人となり、ことの外かわいがられて候て、先ず客分のようなものになり申候。近きうちには大坂より十里あまりの地にて、兵庫という所にて、海軍を教え候所をこしらえ、又四十間、五十間もある船をこしらえ、弟子どもにも四五百人も諸方より集まり候。……少しエヘン顔してひそかにをり候。……エヘン、エヘン>。この変わり身はどうだ。勝海舟も又、竜馬を可愛がった。曰く、<坂本竜馬が、かつておれに、「先生はしばしば西郷の人物を賞せられるから、拙者もいって会ってくるにより添え書きをくれ」といったから、さっそく書いてやったが、その後、坂本が薩摩から帰ってきていうには、「なるほど西郷というやつは、わからぬやつだ。少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば大きく響く。もしばかなら大きなばかで、利口なら大きな利口だろう」といったが、坂本もなかなか鑑識のあるやつだよ。>(「氷川清話」) 

∇竜馬は素っ頓狂な部分も併せ持っていた。ある時、政友と稲荷町に遊んで対酌談論、興に任せて外泊して帰ったことがある。妻のお龍は頗るご機嫌ななめで口をきかない。龍馬がほと/\困りはてゝていた時、偶々長府の一青年が尋ねて来た。龍馬はお龍に酒を出させ、咄嗟に都々逸を賦した。即座に床の間の三弦を執って弾き、且つ歌った。お龍もやっと破顔一笑、一件落着の由。その都々逸は次の如し。<恋は思案のほかとやら/長門のせとの稲荷町/猫も杓子も面白ふ/遊ぶ廓の春景色/ここに一人の猿回し/狸一匹ふり捨てゝ/義理も情けもなき涙/ほかに心はあるまいと/かけて誓いし山の神/うちにいるのに心の闇路/さぐりさぐりて/出でていく>。 「猿回し」は竜馬自身、「狸一匹」「山の神」は妻・お龍のこと。こう歌われてはお龍も苦笑いで許すしかなかったろう。自在闊達に発想し、しかも、<丸くとも一かどあれや人心>を持ったフェミニストでもあった竜馬。

∇竜馬は時勢の変化に機敏に捉え、それに即応した。長刀が流行っていた高知で、あるとき龍馬の旧友が龍馬と会ったら、龍馬は短めの刀を差していた。理由を質すと、「闘うなら短い刀のほうが実践的だ」と言った。納得した友人は短い刀を差すようにした。次に会うと、龍馬は懐から拳銃を出し「銃の前には刀なんて役にたたない」と言った。納得した友人はさっそく拳銃を買い求めた。再び会った時、彼が購入した拳銃を見せたところ、龍馬は洋書の「万国公法」(国際法)を取り出し「これからは世界を知らなければならない」と言った。まさに進取気鋭の若者だった。世界を知った竜馬はやがて土佐の後藤象二郎を相手に、将来あるべき日本の国家構想を熱く語ることになる。それが有名な「船中八策」である。

∇明治元年(1868)3月14日、明治天皇は紫宸殿に於いて、政治の基本方針を示す五箇条を誓った。曰く、<一、広く会議を興し万機公論に決すべし。 一、上下心を一にして盛に経綸を行ふべし。 一、官武一途庶民に至る迄、各其の志を遂げ人心をして倦まざらしめんことを要す。 一、旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし。 一、智識を世界に求め大に皇道を振起すべし。 我国未曾有の変革を為んとし、朕躬を以て衆に先んじ天地神明に誓ひ、大に斯国是を定め万民の保全の道を立んとす、衆亦此旨趣に基き協力努力せよ>と。「万機公論に決すべし」「旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし」「智識を世界に求め」などという文言は、幕府治世下で言動を統制されていた人々には仰天の言葉だったに違いない。竜馬の「八策」思想が活かされていたことは言うまでもない。