残照日記

晩節を孤芳に生きる。

ぽっくり死

2010-12-03 07:52:44 | 日記
○朽葉落つ1/fのゆらぎかも  楽翁

<しかしもう去るべき時が来た──私は死ぬために、諸君は生きながらえるために。もっとも我ら両者のうちいずれがいっそう良き運命に出会うか、それは神より外に誰も知る者がない。>(「ソクラテスの弁明」岩波文庫)

∇風もないおだやかな日和の過日、公園を散歩していたら、突然枯葉がひらりと舞い落ちてきた。暫くすると又ひら/\と。そういえばこういう現象を一時流行した“1/fのゆらぎ”というんだっけ、と思い出した。<ゆらぎとは、ものの空間的、時間的変化や動きが、部分的に不規則な様子。例えば、風は突然吹いて、そして突然止まることもある。風は不規則な動き、いわばゆらぎの代表格の1つである。>(東工大名誉教授 武者利光氏)“1/fのゆらぎ”は「パワースペクトルが周波数fに反比例するゆらぎ」のことと定義される。自然界でよく見られる現象で、そよ風の他、せせらぎや潮騒の音、人の心拍の間隔や、ろうそくの炎の揺れ方、電車の揺れ等々連続的だけれど一定でない現象をいう。発生メカニズムは分っていない。

∇人間の死なども、大自然からみたら案外とゆらぎ現象なのかもしれない。毎日人が死に続けているが、死ぬ数は一定せずゆらいでいる。どこかで何かの理由で大量の人々が死ぬ日もあれば、病人が静かに息を引き取るだけの日もある。そして何事もなかったかの如く淡々と月日は流れていく。「老子」に曰く、<天地は不仁なり。万物を以て芻狗と為す。(自然は冷淡だ。万物を祭事が終われば捨て去られる藁人形のように扱うのだから)>と。 人生八十年といっても、分っているのはたゞ「人はいつか必ず死ぬ」ということだけである。どうせ死ぬなら可能な限りはらりと朽ちていきたい。突然1/fのゆらぎが起きて、公園の朽葉の如く「ぽっくり」世を去っていきたい。そんなことを考えていた。

∇どんな最期を理想と思うか──。第一生命経済研究所が40~70代の男女735人を対象にした調査結果(07年)が朝日新聞の12月1日付夕刊に載っていた。それによれば、約76%の人が「ある日、心臓病などで突然死ぬ」と答えていた。理由は「家族にあまり迷惑をかけたくない」(80%強)、「苦しみたくない」(68%)、「寝たきりなら生きていても仕方がない」(50%)だった。「ぽっくり死」願望は年々増加し、全国にある「ぽっくり寺」は観光ツアーに組み込まれる人気だとか。分る、分る。幕末陽明学の泰斗・春日潜庵曰く、<仮に人生百年としても、およそ二十歳までは濛々焉(ぼんやりとした様)たるのみ。二十歳より六十歳に至る四十年間がまあ人生だといえよう。六十歳以降は、たとえ衰えてはいなくても、結局役用には立たない。>と。老生は六十六歳まで生きながらえたので、そろそろお暇の準備に入らねば……。

∇「ぽっくり死」の恩寵を神から授かるかどうかは分らない。せめて人生の達人水戸光圀公の御教えに倣って、心静かに余生を送りたいものである。老公曰く、<この世は客に来たりたるなれば義理あるべし。心に適ひたる食事に向かひては、善き御馳走に逢ふと思ひ、心に適はぬとても、客なれば誉めて食はねばならず。夏の暑さにも、客なればたしなまねばならず。冬の寒さにも、客なれば堪えねばならず。腹立つことも、客なれば堪忍せねばならず。小さき家なれども、客なれば不自由して居らねばならず。衣服きたなしとも、客なれば堪忍せねばならず。親子兄弟召し使ふ小者に至るまでも、客なれば挨拶よく暮らし、跡に心をのこさず御暇申すがよし。──父母によばれてかりに客に来て こころ残さず帰るふるさと 光圀>(「娑婆の掟」)