残照日記

晩節を孤芳に生きる。

断捨離

2010-12-18 07:50:18 | 日記

○事足れば足るにまかせて事足らず
     足らで事足る身こそ安けれ (古歌 読人不知)
(十分足りているのに、もっと/\と欲張るのが人間一般だが、
 足りてないのに十分足りていると満足する人こそ安寧を得る)

<良寛詩>         
ひとたび家を出てより 幾箇の春なるかを知らず  
一衲(のう)と一鉢と 騰々この身を送る     
(出家してから 幾春が流れ過ぎただろう
 衣一着にお鉢一つだけだが ゆったり生きている)

∇<今、「断捨離」という考え方が注目されている。ヨガの「断業」、「捨行」、「離行」という考え方を応用、不要なモノを断ち、捨てることで、モノへの執着から離れ、身軽で快適な生活を手に入れようというものだ。10年ほど前、金沢市に住む主婦が提唱し、ブログを通して広がった。断捨離は、単なる整理術ではない。身の回りをスッキリさせることで、心の混乱も整理し、前向きな自分に生まれ変わりたいと、子育てに追われる専業主婦や働き過ぎの若者、親の遺品の整理に疲れ果てた50代女性など、年代を問わず断捨離にはまっている。>(12/16NHKクローズアップ現代)

∇提唱者はクラター・コンサルタントのやましたひでこさん。「やましたひでこ公式サイト」によれば、<英語でClutterはガラクタのこと。住まいのガラクタ、頭や心の中のガラクタを、取り除くお手伝いをするのが、私の仕事(^^♪> > <断・捨・離とは、自分とモノとの関係を問い直し、暮らし・自分・人生を調えていくプロセス。不要・不適・不快なモノとの関係を、文字通り、断ち・捨て・離れ引き算の解決方法によって停滞を取り除き住まいの、暮らしの、身体の、気持ちの、人生の、新陳代謝を促す・・・住まいが、片づかないという悩みはもとより身体の不調、煩わしい人間関係、忙しすぎる状況をも解決していきます。>

∇かつて一時期、辰巳渚著「『捨てる!』技術 」(宝島社新書) や野口悠紀雄著「『超』整理法 」(中公新書) など、情報氾濫時代の整理術が大流行したことがあるが、「断捨離」はヨガの行法がもとになった、もっと広い意味での“シンプルライフ”を提案しているようだ。失礼だが一ページも読んでいない。もともと老生は書物を除いて断捨離の実践者であった。家内を亡くしてからは書物も含め、一層ピッチをあげてそれに取り組んでいる。良寛和尚が死んだ時に庵にあったのは、書物として「荘子」くらいなものだった。城山三郎著「辛酸」の主人公で、終生足尾銅山の鉱毒問題に奮迅した田中正造が亡くなった時、手提袋には「聖書」と石ころひとつが入っていただけだった。老生もそうありたい、と常に思っている。

∇<汝等比丘、当に知るべし、多欲の人は利を求むること多きが故に、苦悩も亦た多し。──少欲の人は求めないし欲がないので、この患(わずらい)がない。少欲で暮らすことを学べ。いつも少欲でいられるということは、色々な功徳を招来するものだ。少欲の人は、諂曲(へつらいやおべっか)を使って他人の機嫌取りをしなくていい。又、諸根(六根=眼耳鼻舌身意)に惑わされない。即ち見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったりという感官で感じた諸々の物事に心を煩わすことがない。少欲の者は、心がいつも淡々として落ち着いて、心中に畏れ・憂いを抱くことがない。されば生活のどこかに余裕が生じ、常に満たされた生活を送ることができる。究極のところ「少欲ある者は、則ち涅槃(静寂な悟りの境地)あり」。>(「遺教経」) 

∇“思い立ったが吉日”、早速「モノ」の断捨離を敢行せねば。順序は捨→断→離だろう。居間、部屋/\、台所、戸棚、食器棚、冷蔵庫、玄関、クローゼット等々を総点検しよう。周りには過去には必要であったが、「現在・未来は不要」なモノばかり。先ず捨てよう! 次は「断」=断ち切る、やめる、ことわること。今後再び不用な事物がはびこらぬようにするには、入り口で仕訳作業を行なうことだ。欲しいものでも一晩は自問自答してみよう、「本当に必要かい?」「現在あるものでダメかい?」「他に入用なモノがあるんじゃない?」「あと何年生きるのだい?」等々と。断・捨を繰り返している内に、自然と「離」の時がやってくる。「離」=離れる、遠ざかる、抜け出る。かくして「モノ」の断捨離が成就したら、次は「コト」「ココロ」にメスを入れていけばいゝ。

∇余談になるが、武道などでは、「守・破・離」という三段階を以て修行における順序を表す。大雑把にいえば「守」は、師について徹底的にその流派を習い、奥義を極める段階。「破」は、師の教えを極めた後に他流をも含めて更に自己研鑽する段階。「離」は、千鍛万練の修行を経る内に、最早「師」を超えた独自の境地に達した段階をいう。学問修得の道には「蔵・修・息・遊」がある。中国の古典「礼記(らいき)」中の「学記」に出る言葉である。「蔵」=師を手本として無心に真似、学ぶ。「修」=反復繰り返して学習し、完全マスターする。「息」=憩う。自家薬籠中のものとして自在に使いこなす。「遊」=最早学問するというより、“道”を楽しむ心境に達する。「離」や「息・遊」の段階にまで達すると、何事にもこだわりが無くなる。モノやコトに関心を持たず、あるがまゝに悠々然と生きていける。そうありたい。さあ、愈々新しい年がやってくる!

○うつるとも月は思はず 
     うつすとも水も思はぬ 広沢の池 (古歌 読人不知)