残照日記

晩節を孤芳に生きる。

皇女の墓

2010-12-10 07:26:12 | 日記
○葦辺行く鴨の羽交ひに霜降りて寒き夕は大和し思ほゆ

(「万葉集」(巻3)にある志貴皇子の歌。皇子は「続日本記」に天智天皇の第7皇子とされ、後に春日宮天皇と追尊された。万葉時代有数の歌人として知られる。)

<牛子塚(けんごしづか)古墳は斉明天皇陵か、実証の小古墳発見──女帝・斉明天皇(594~661年)の墓と確実視されている奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳(7世紀後半)の隣接地から、孫の大田皇女(おおたのひめみこ)の墓とみられる古墳が見つかったと、村教委が9日発表した。斉明天皇陵の前に大田皇女を葬ったとする「日本書紀」の記述と合致し、牽牛子塚古墳が真の斉明陵であることが決定的となった。(後略)>(12/9 読売新聞)

∇又もや「日本書紀」の記述を裏付ける歴史的な大発見となった。大田皇女は「大化の改新」の立役者・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=後の天智天皇)の第一皇女だった。夫は中大兄皇子の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ=後の天武天皇)だが、夫の即位前に、2人の子ども(大津皇子と大伯内親王)を残して他界したとされている。天武天皇は後添えに大田皇女の妹(天智天皇の第二皇女)を入れた。これが後の持統天皇である。この時期、天皇の継承は、孝徳天皇─斉明天皇─天智天皇─弘文天皇(大友皇子)─天武天皇(大海人皇子)─持統天皇と続く。当時の歴史をざっと振り返ってみることにしよう。

∇聖徳太子が蘇我馬子と協力して、君臣の道を垂示した「十七条憲法」を定めたのが604年。それが太子没後、蘇我氏一族が政権を握り国内は政治の混乱に陥った。その豪族の頭目蘇我蝦夷・入鹿を倒し、天皇を中心に中央集権政治を取り戻したのが中大兄皇子(後の天智天皇)と、中臣鎌足(藤原鎌足)である。645年、彼らは孝徳天皇を擁立し、日本最初の年号を「大化」と定め、聖徳太子以来の理想の実現を目指した。世に謂う「大化の改新」である。孝徳天皇は大化元年、都を難波に移した。「大化の改新」後、中大兄皇子の独裁体制は完全に固まりつゝあった。彼は母親を斉明天皇として即位させ、自らは大兄として執政の立場で改革を進めた。

∇友好国・百済が唐の新羅に滅ぼされた仇討ちに、朝鮮半島への出兵を自ら指揮した斉明天皇が、九州遠征の途上で急死した(661年)。天皇不在のまゝ中大兄皇子は667年、近江の大津宮に遷都した。やがて近江の大津宮で皇子が即位して天智天皇となった。天智天皇は息子の大友皇子を後継者に定め、体制強化に努めた。だが、天智天皇の弟・大海人皇子との間で皇位継承問題が起り、天智天皇死後「壬申の乱」(672年)が勃発する。中小・地方豪族を味方につけた大海人皇子が勝利。飛鳥浄御原宮に遷り天武天皇として即位した。こゝに天皇中心の国家体制が固まった。だが、華やかな表舞台の裏側では、天智天皇に血縁の濃い皇子・皇女たちの間で、皇位争奪は厳しさを増していた。……

∇大田皇女にまつわる逸話に話を戻そう。「日本書紀」「続日本紀」によれば天智天皇の皇女は10人いた。先述したように長女が夭逝した大田皇女で、次女が後の女帝・持統天皇。悲劇的なのが山辺皇女である。天武天皇と大田皇女の間に生まれた息子・大津皇子の妃となった。大津皇子は将来を嘱望された俊才であったが、野心家で密かに天武天皇の後釜を狙っていた。だが、天皇崩御するや、親友川島皇子の密告により、謀反の意有りとされて捕えられ、自邸で死を賜った。時に年二十四。<妃の山辺皇女は、被髪徒跣して(髪を乱して、裸足で)、奔り赴きて皇子に殉じた。見るものはすゝり泣いた>と「日本書記」は記している。

∇大田皇女の娘が大伯(来)内親王(おおくのないしんのう)。斉明天皇が九州遠征の際に大田皇女が夫と共に随伴した。一行が大伯(来)海に来た時に内親王を産んだのでそう名付けた、とされる。又、上述の大津皇子は、大伯内親王の同母(大田皇女)の弟に当る。内親王が伊勢から京師に上る途中、大津皇子が誅されたことを聞き、歌を作りこれを悲しんだ。「万葉集」に6首採られている。歌の上手な皇女だったに違いない。以下は有名な<大津皇子の密かに伊勢神宮に下りて上ぼり来ます時二首>より。斉明天皇陵の前に葬られた大田皇女の墓は、薄幸の皇女を思いやる人々の手によって築かれたような気がする。

○吾が背子をやまとへやると小夜ふけて暁露に吾が立ち濡れし
○二人ゆけど行き過ぎがたき秋山をいかでか君がひとり越えなむ