残照日記

晩節を孤芳に生きる。

忠臣蔵雑話

2010-12-26 10:39:25 | 日記
<大石良雄辞世の歌>
○あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし

∇テレビ朝日のドラマスペシャル「忠臣蔵~その男、大石内蔵助」を見た。内蔵助を田村正和、吉良上野介を西田敏行が演じた。年末になると、必ずといってよいくらい「忠臣蔵」が放映されるので、もう何回見たか分らない。それでも朝日新聞「試写室」に、<単なる復讐の物語にせずに、田村はじめ豪華俳優陣が、内蔵助や周囲の人々の心情、とくに苦悩を正面から丁寧に演じたのが奏功した>などと持ち上げていたのにつられて、二時間半も見てしまった。残念ながら全くと言っていいくらい不出来で面白くなかった。ストーリー展開に新鮮味がなく、よく知られた“山場”の数々が、周知の事実をたゞ羅列的に追っていくだけ。殊に田村の内蔵助は、無表情過ぎて全体にメリハリがなかった。──そんな訳で、物語を楽しむというより、大石内蔵助の逸話だとか、当時の儒学者たちが喧々諤々やりあった「赤穂事件の賛否論」を思い出していた。思いつくまゝ書き出しておくことにする。

∇先ず、後にこそ、その名を知らぬ者無き「大石内蔵助」だが、赤穂事件までは殆ど無名に近く存在感の無い人物だった。こんな話が残っている。<大石良雄が播州に居る時、ある人から掛物を借りたのだが、過ってそれを破いてしまった。大石は重々詫び言を言って返却した。当時の人は、皆、大石が家老であることは知っていたが、一身をかえりみず国家に尽くす程の優れた人物(国士)だとも知らず、貸した人も快く思わなかった。だが、討ち入りの功名があってからは、「これは大石の手の痕跡だ」と言って珍重し、誇って人々に見せびらかすようになった。──世人の眼なくして軽薄なること概ね此の如し。>(「想古録」) まぁ世の中大抵そんなもんだが、眼力ある人もいる。「論語古義」「孟子古義」「大学定本」「中庸発揮」「童子問」等で、日本のみならず本家の中国にまで名を残す大儒学者・伊藤仁斎である。

∇江戸時代は儒学にとって一大エポックがあった時代である。それまでは朱子学・陽明学等中国の学者による経書の解釈が専らであった。それに抗して、独創的見解を展開したのが伊藤仁斎であり荻生徂徠である。二人の学説の詳細は夫々異なるが「四書五経」を古来の原点に立ち戻り、直接読み解く立場を同じくし、「古学派」と総称される。山鹿素行を祖とする。この三者は皆、赤穂事件に関係する。討入り時の陣太鼓は山鹿流、大石が学んだ塾が仁斎の京都堀川塾(古義堂)、義士批判論の先峰が荻生徂徠だった。さて、<かつて大石蔵之助が堀川塾に入門して、聴講にきたことがあった。しかるに時々眠っていて聴いていなかった。聴講の者は笑いを押さえていた。講義が終わると皆は罵って言った。「怠惰な奴よ。あれじゃ、学びに来ない方がいい」、と。仁斎曰く、「皆の衆よ、みだりに謗るものではない。わしが見るに、彼は凡庸の人物とは思えぬ。後日必ず大事を為すだろう」と>。(「先哲叢談」)

∇大石の渾名(あだな)は“昼行灯”。<形容を以て人を取捨すれば人を誤ること少なからず。大石良雄は稀世の傑士なれども、その容貌動作は遅鈍にして愚人の如くなりし。然ればもし報仇のこと無かりせば、一愚人と見做され果てたるやも知るべからずと云へり。知るべし、人を見ることの難きことを>。“昼行灯”は敵の目を欺くための所作。<播州山崎領に医師がいて、その家に大石夫妻の書簡が多く残っている。その内容たるや皆、貧窮を訴えるものばかり。あるいは味噌が無いとか、僅か二百疋の金にも困っているとか、他人には見せられぬ程の困窮の条々だ。だが、大石は国許を離れる際に、莫大な貨財を持って江戸入りした筈なので、俄に困窮する筈が無い。なのにわざわざこんな醜状を書き送ったには、復讐心を隠蔽せんがための一策で、後日この医師に禍が及ばぬようにとの深意だろう、とそれを読んだ識者は言っている。──用心かくの如し。彼が本意を遂げたるも怪しむに足らず。>(以上「想古録」)

∇吉良邸討入りの「口上書」にも大石の細心なる配慮と遠謀が秘められている。現代語に要約すればこうだ。<(前略)高家歴々に対し、浅野の家来共が刃傷事件の鬱憤を晴らす、などということには憚りがありますが、”君父の讐は共に天を戴くべからず”と申しますように、黙止し難く、今日上野介殿宅へ推参致しました。ひとえに亡主の意趣を継ぐ志のみでございます。私どもの死後、もし、お検分の方がおられましたら、お上にお見せ頂くようお願い致します。以上>。この「君父之讐共不可戴天之儀」の文章については、前日譚がある。<或る夜良雄は儒者・細井広沢に向かって、父の仇とは共に天を戴かずという語はあるが、君主の仇云々と書いていいのだろうかと相談した。広沢は一瞬躊躇一考したが、君父は畢竟同じもの、少しも差支えあるまいと解釈したので、大石は安心してその語を使った。>(「想古録」)彼の深謀とは何か。当ブログ読者の推論にお任せしたい。

∇さて、語れば尽きぬ「忠臣蔵」ではあるが、最後に赤穂事件の賛否論を。<泰平の世の中を震撼させた赤穂事件については、当時から儒学者の間で賛否両論があった。室鳩巣は浪士の行為を称賛して「赤穂義人録」を著し、大学頭をつとめる林信篤も「復讐論」で、主人の讐をうった浪士を義士として賛美している。大方の意見はこれに近かったが、これに対し荻生徂徠は、「擬律書」にみるように、主君の復讐というのも結局は、「私の論」であって、幕府の立場からすればその罪は許されないとしている。>(「笠原一男「資料日本史」) 結局この荻生徂徠の主張が採用され、浪士には切腹が命じられた。その後、義士否定論に対して再反論したのが浅見絅斎(あさみけいさい)である。<大法を以て云へば、自分同士の喧嘩両成敗の法なり。内匠頭大礼に科ありとせば、上野介の私意によってこのようになったのだから、上野介も成敗されるべきだ>(「絅斎先生四十六士論」他)。それに対して荻生徂徠の高弟・太宰春台が又反論……と続く。尚、赤穂浪士が葬られた泉岳寺では現在も毎年討入りの日(新暦で12月14日)に義士祭が催されている。

【荻生徂徠の「擬律書」】
 
<義は己を潔くするの道にして法は天下の規矩也。礼を以て心を制し義を以て事を制す、今四十六士、其の主の為に讐を報ずるは、是侍たる者の恥を知る也。己を潔くする道にして其の事は義なりと雖も、其の党に限る事なれば畢竟は私の論也。其の所以のものは、元是長矩、殿中を憚らず其の罪に処せられしを、またぞろ吉良氏を以て仇と為し、公儀の免許もなきに騒動を企てる事、法に於いて許さざる所也。今四十六士の罪を決せしめ、侍の礼を以て切腹に処せらるるものならば、上杉家の願も空しからずして、彼等が忠義を軽せざるの道理、尤も公論と云ふべし。若し私論を以て公論を害せば、此れ以後天下の法は立つべからず。>


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