Nyancoin Bakery / 江都屋

当ブログは引っ越しました。→ http://blog.livedoor.jp/edoyakogane/

光の感染

2007年02月10日 00時24分55秒 | ヨタ話/写真
 
 いつも不思議に思うのだが、何故光は写真に写ってもなお光っているのだろう。

 PCに写真を取り込んでその画面で見る時ならば(つまり、今のこの状態)ならばわかる。画面そのものが光っているのだからね。しかし、印画紙にプリントされた写真の光が眩しいというのはどういう訳だ。紙自体はそれほど強烈な光を自ら放つことはないというのに。

 さてそれで思い出したのが「釣りキチ三平」。俺は釣りというものに全く興味を持たない種類の人間なのだが、数年前にコンビニで昔の釣りキチ三平の復刊された、えーっと、あれは何というのか、雑誌サイズの特集本のアレ。あれを何気なくぱらぱらと立ち読みしていて驚いた。あの漫画の絵の中で、水が光っていたのだ。雑誌スタイルの本だから、紙質はそれほど良くはないはずで、もちろんカラーではなく白黒の絵。それなのにキラキラと光っている。その恐ろしいまでの画力にしばし見とれる。

 思うに、光というのはその光源が消えても残るものではないかしら。照らされたものの表面から入り込んで、内部に浸透するのではないか。あるいはカメラや眼球のようなレンズ状のものを通る場合はもちろん非常に高い密度でもってそのものの中に残り、必要に応じて放射されるのではないか。あるいは漫画の場合は、目から入った光が漫画家の手を通してペンに移り紙に宿る、ということか。

 というわけで、今あなたが見ているこの写真の光のうちのいくらかはあなたのPCが発しているものだが、その多くはこの写真を撮った時にカメラのレンズを通してこの写真に感染した光の粒子なのだよ。

 ほんまかいな。


最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
丘の上の光 (ボージー)
2007-02-10 08:11:37
まさにそうです。全くの同感です。
私もいつも新聞やら自分の写真やら、またおっしゃるように何かそういう写実的なものでなく絵などを観るときに、何故にここから発光されているのだろうと思っておりました。無論それらを暗闇でみたところで発光しているわけではないので、物理的に光っているわけではないのでしょうけれども、それでも確かに光っているのはほぼ間違いないと確信しています。

江都屋黄金丸さんがおっしゃるような理論では、まだ考えたことがないので今日は出かける途中の電車でこのことを考えてみようかなと思っています。

そうしうてまた常々思うのが、音楽にもこれがあてはまるということです。松任谷というかこれは荒井の頃だと思うのですがまだ彼女が天才であった時分に沢山の本当に宝石のような曲を残しています(そうして現在は耳を覆いたくなるような駄作ばかりですが…まあ天才の泉とはそうやっていつか枯れてしまうものなのかもしれません)その中の「丘の上の光」というのはまさにこれです。
なにせ出だしがこうですよ「すみれ色のまま夕暮れをとめて 新しい自転車で高原んをすべる」。この後完璧な音と詩がつづくわけですが、頭の中では彼女が表現している風景がまったくもってぼうぼうと発光しているのです。
これはただ単に音と詩に喚起された想像というものではないのは明らかで、そこに彼女が感じた何かが再現されているのだと思うのです。天才とはこういうものでもあるのでしょう。
台無しです (ボージー2)
2007-02-10 08:14:38
ミスタッチで天才の光が台無しですが。
Unknown (江都屋黄金丸)
2007-02-10 22:23:14
なるほど、歌の場合も歌詞に光が混ざり込むわけね。
ある本によると、荒井由実独特のコード進行というものがあって、それゆえにああいう雰囲気の曲ができあがっているのだそうです(詳細は割愛)。歌詞とコード進行の相乗効果でとんでもなく光ったり輝いたり感じさせるのだそうな。