食と世界

食と世界についての雑記 菜食・断食の勧め

皇帝コンスタンティヌス

2012-06-05 16:47:06 | 焚書/解体


ローマ帝国が抑圧に困ったキリスト教を統治機構の内に取り込むまでの経緯を最後に確認しておこう。ローマ帝国の東端で生まれた新宗教は4世紀の為政者にその高い組織力が着目される頃までには、無知な一般レベルへの適合に長けた
西洋人キリスト教への奇怪な変形を遂げていた。
 

 
    ディオクレティアヌス     (在位AD284~305)

ローマの伝統を守る事が帝国再建への道と信じたディオクレティアヌス帝は激しいキリスト教迫害を断行した。303~305年にかけてキリスト教一掃を図り集会所の破壊、キリスト教文書の没収・焼却、信者の処刑などの徹底弾圧を行うが、根絶する事はできなかった。


    コンスタンティヌス1世     (在位AD306~337)

ガレリウス寛容令 (311年)で迫害終結が宣言された後、リキニウスと連名でキリスト教を公認するミラノ勅令(313年)を公布。この人物こそ新約聖書の編纂を命じ、イエスの誕生日を定め、聖日を日曜日に統一した現キリスト教の「父」である。コンスタンティヌス以後雑多なキリスト教集団は急速に整備が進められた。

ミラノ勅令後、キリスト教徒を多く抱える東方には出来ない
教会優遇策を打ち出したのも既に政治的戦略であったと言われる。キリスト教の制御と領土の一元的支配を兼ねた国教化事業も政治利用の枠の内に勘案されていた。コンスタンティヌス時代のキリスト教徒は帝国内の1割台の勢力に過ぎず、より数が多いミトラス教徒ら異教徒の風習をキリスト教に適用(改変)させる政治的必要もあった。


    コンスタンティウス2世     (在位AD337~361)

父コンスタンティヌスの路線を継ぎキリスト教を優遇。ニケア公会議(325年)の決定で異端とされたアリウス派を逆に支持した。


       ユリアヌス        (在位AD361~363)

コンスタンティヌスの甥。幼児洗礼を受け聖書にも親しむが、後に棄教。キリスト教優遇に疑問を持ち始める。古典文芸やローマ古来の異教信仰再興の実現に取り組んだ。

ローマ世界最後の光を発しつつ、31歳の若さでペルシャの砂漠に戦没。晩年のユリアヌスは洞穴に入り槍で裂いた牛の血を全身に浴びる祭儀を行ったという。これはミトラスの密儀にキュベレ信仰を混ぜ合わせた儀式と言われる。


      テオドシウス       (在位AD379~395)

380年にキリスト教の国教化を宣言。元老院の反対を押し切り異教禁止令(392年)を発布、翌年には1100年以上続いたオリンピアの祭典競技が幕を閉じた。テオドシウスは380年以降キリスト教徒の頑迷な憤慨からくる異教への破壊活動を教会の公式路線として追認した。

孫のテオドシウス2世はテオドシウス法典の中で計36の異教を非合法とし、ローマの伝統である『宗教的寛容』の時代が完全に終焉した。






コンスタンティヌスの過失は、キリスト教の美しい"人道主義"の覆いに隠された偏狭さ、凶猛性を見抜けなかった点にあろう。異質なものとの共生ができない未熟で不名誉な装置を後世に残す事になるとは、考えもしなかったのではないか(母はキリスト教徒だった)。哲人皇帝ユリアヌスはそのコストを見抜き、ローマの美術品を破壊するキリスト教徒に怒りの目を向けた。

「私は正義とはあらゆる強制を含まぬものと思っている。正義とは自由に他ならぬ。少なくともただ自由のなかだけに存在するのだ。…  しかし人間が人間を自由な存在としたこと自体が、すでに正義の観念を実現したことなのだ。あと千年か、二千年か、あくまでこの観念をまもりぬくほかない」 引用元: 『背教者ユリアヌス』


コンスタンティヌスの生涯の信仰が不敗の太陽神ソルと共にあった事は念頭に置く必要がある。彼は2体の像を造り1体は母神キュベレ、もう1体は自身に似せたソルだとした。彼のコインにも“不敗の太陽神(
SOLI INVICTO)”の文字が刻まれている。

死に際してコンスタンティヌスはキリスト教の洗礼を受ける。彼は崩壊して行こうとする落日のローマ帝国の再建をキリスト教に託すのである。

画像借用元: Ancient Coins Chronicles





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