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履歴稿 香川県編  第二の新居

2024-10-04 11:28:02 | 履歴稿
IMGR056-17
 
履 歴 稿  紫 影子
 
香川県編
 第二の新居
 
 私が父母に連れられて教理の加茂村から引越した第一の新居は、明治の維新前には武家屋敷であったのだが、維新後は清水と言う農家の所有になったと言う家であって、私たち親子はその清水さんの家に借家住居をして居た者であった。
 
 その日が何時であったかと言うことは、父の履歴稿にも残って居ないので判然として居ないのだが、家主の長男が結婚をして別居をするのだからと言う理由で、私たちが住んで居た借家を返してほしいと言って来た。
 
 その時の私は、尋常科の二年生になったばかりの頃ではなかったかと思っているのだが、私達の家族は、その清水さんの借家から約三百米程北方に当たる第二の新居へ引越すことになったのであった。
 
 
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 新に引越した新居は、第一の家から右へ二百米程行った所に在る銭湯の前から西方へT字路になって居る道を百米程行った所の右側に在った。
 
 この第二の新居も嘗ては武家屋敷であったらしく、表は門構えの家であったが、屋内の間数は六畳が三間に台所と言う一棟二戸建の手狭な家であった。
 
 そしてこの家の構造は、門をくぐると約五米程を敷石伝いに玄関へ行くようになって居たが、玄関を這入った所の土間は、第一の家と同じように家の裏側へ筒抜けて居て、その突き当った所に井戸があった。
 
 また、玄関を這入った左側には六畳間が在って、その奥とその右隣りに二つ並んで六畳間があった。
 
 台所は、玄関からあがった六畳間の右隣に在って、裏に筒抜けて居る土間との間には第一の家と同じように仕切りと言う物は無かった。
 
 そしてこの家の井戸水も第一の家と同じように飲料不適の水であったので、一桶いくらと言う有料の水を炊事と飲料に使って居た。
 
 
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 表の門は向かって右端に在った。
 
 そして左側は、隣家の門までが白壁の土塀になって居た。
 
 併し門内の隣家との境は板の塀で仕切られて居た。
 
 また、玄関の土間からあがった六畳間とその奥の六畳間の表側には縁側があって、外壁との間に2、3の庭木が植って居た。
 
 この第二の家には、5カ月程しか住わなかったのでこれと言った追憶は無いのだが、第二の家が狭かった関係か、私が姉さんと呼んで居た叔母が、再び法勲寺村の生家から通学をするようになって、私達と一緒に引越さなかったのが私にはとても淋しかった。
 
 その事があったあとで、父からひどく叱られたのだが、その時の私にはとても面白かった事件が、この第二の新居時代に一度あった。
 
 
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 それは、私が兄と二人で銭湯に行った帰り道でのことであったが、私達の第二の家から銭湯へ行く途中に、昔は亀山城の重役が住んで居たと言う。
 
 可成広い屋敷が在って、その門前にとても大きい枝垂れ柳が一本あった。
 
 その日が何時であったかと言うことは記憶にないのだが、風も薫ると言う初夏6月の或る日暮時に何時ものように私は兄と二人で銭湯に行った。
 
 私達兄弟が脱衣場から浴槽へ這入て行くと、斉藤という兄の同級生の顔が、ポッカリと湯船の中に浮いて居た。
 
 兄は、その同級生と話に夢中になって、私が丹念に流し終っても、兄達二人の長話は終わりそうになかった。
 
 途方にくれた私は、幾度も湯船へ無駄につかって兄達の話が終るのを待ったのだが、何時果てるとも判らないと言う状態であったので、「兄さん、俺は先に帰るわ。」と言って、私は浴槽を出た。
 
 
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 私が銭湯の暖簾を潜って表へ出るまでには、兄はまだ脱衣場へその姿をあらわして居なかった。
 
 銭湯の暖簾を潜った私が表に出ると、其処に初夏の薫風が待って居たかのように、思わぬ長湯にのぼせた私の頬を心地よく撫でてくれた。
 
 銭湯を出た私は、速い足どりで枝垂れ柳のある所まで帰った時に、兄は未だかと振返って見たものであった。
 
 そうした私が振返った時には、既に夜のとばりが四辺を包んで居て、外燈の無かった路上の視界を狭めていたので、私の目の届く限りの路上には人の影すらも見えなかった。
 
 併しその時の私は、誰か人の近寄って来て居るような気配を感じたので、じいっと今自分が銭湯から歩いて来た路上を見据えた者であった。
 
 そうした私の耳には、カッ、コッと言う下駄の音が、徐々に近寄って来て居た。
 
 その足音を耳にした私は、その足音の主を、てっきり兄の足音だな、と思ってしまったものであった。
 
 
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 よし、それならば一つ兄貴を吃驚させてやれと、悪戯気を起した私は、地上すれすれに枝垂れて居る柳の枝をかいくぐって、太い幹の後に隠れてその足音の近づくのを待って居た。
 
 私の着衣は、南国香川県の初夏なるが故に、当然白地のものであった。
 
 枝垂れ柳の幹に隠れた私は、兄貴を吃驚させるのには、こうした恰好か、それともこうかと、平常大人の人達から聞かされて居た幽霊と言うもののポーズを工夫して居た者であったのだが、その足音の主が、やがて柳の前にさしかかったので、私は垂れ下がって枝垂れて居た幾条かの枝を掻分て、其処から顔を出すと、「うらめしやぁ。」と言って出て行ったのであったが、と、その途端であった。
 
 「キヤァ。」と、女性の悲鳴がしたかと思うと石鹸その他の銭湯用の道具を容れた洗面器を私に投げつけて、転がるように逃げて行った。
 
 
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 その瞬間「しまった。」と、私は一応思ったのだが、何と言っても尋常科の二年生と言う私であったから、その慌てて逃げて行った恰好が、とても滑稽に思えたので腹を抱えて笑ったものであった。
 
 そうした私に、「オイ、何をそんなにゲラゲラ笑って居るんじゃ。」と声をかけて宵闇の中から兄の顔が出て来た。
 
 私は、肩を並べて歩く道すがら、事の顛末を兄に話をしたのだが、性格的に無口であった兄は、「ウン、ウン」と頷くのみであって、別段興味を持った様子は無かった。
 
 さぞかし面白がるだろうと思って話したものを、只無表情に兄が聞き流したことが不満であった私は、家に帰ってから、手振見振にも工夫を凝らして、得意然として父母に話したのであったが、そうした私の話が終るや否や、「馬鹿者」と父に一噶されて鉄拳の制裁を受けたことを覚えて居る。
 
 
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履歴稿 香川県編  亀山城と歩兵12連隊 その2

2024-10-04 11:12:42 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影子
 
香川県編
 亀山城と歩兵12連隊 その2
 
 当時善通寺第11師団の歩兵部隊として丸亀に在った歩兵台12連隊の兵舎は、亀山城の直前の内堀から五米程の所に建ち並んで居て、その営門前が丁度城の外堀になって居た。
 したがって兵舎の営門は、亀山城の門と同じ方向の北側に在った。
 そして外堀の架橋を渡った所には衛兵所が在った。
 
 亀山城から兵舎の営門へは、兵舎東端の塀外の縁を外堀へ向かった直線の道があって、その外堀には立派な架橋がされて在った。
 
 土居町に在った私の家から亀山所へ行く道の途中にある外堀の橋を土井の門の橋と呼んで居たのだから、その端も、城を中心として何々の門の橋と言う名称が必ずあったろうと思うのだが、私はそれを知って居なかった。
 
 外堀の橋がある所を門と言ったのは、城を中心にした外堀からの出入口を意味したものと思うが、とにかく兵舎の横を通ってその端を渡った対岸が丸亀市の市街であって、其処には市民の住宅が軒を並べて居た。
 
 外堀の岸と、そうした市民住宅の間に直線の道があって、その道と弊社の横を通ってきた道とはT字路になって居た、そして城からの道を橋を渡って左へ曲がった所から約二百米程行った所に営門があった。
 
 
 
IMGR056-01
 
 営門前の外堀には、内堀のそれと同じような状態で水蓮が植って居て堀端には、アカシヤに似た木が植って在った。
 そして水蓮のある所には必ずヤンマ蜻蛉が沢山飛んで居るので、子供達はその蜻蛉を釣って遊ぶことを楽しみにして居た。
 
 内堀の水蓮にも、ヤンマ蜻蛉は沢山飛んで来たのだが、練兵場と言うことでャンマ釣りを禁じられて居たので、土居町に住んで居た私達も、土居の門から西練兵場を斜めに横切って営門前の外堀まで行かなければ、ヤンマ蜻蛉を釣ることは出来なかった。
 
 ヤンマ蜻蛉を釣る方法は、長さ一米程の黒色の木綿糸に囮のヤンマを縛って、その糸尻を、これも長さ一米程の細い竹竿の先端に結びつけて「ヤンマういしごう」と言う声を、それが何を意味したものかと言うことは今に判って居ないのだが、連続的に繰り返しながら、頭上で囮のヤンマが円形を描くようにゆっくりと振り廻すのであったが、そうした企のある児戯とは知らない雄のヤンマが、その囮のヤンマに襲いかかって縺れようとする瞬間サッと囮を地上へ速い速度でおろすと、その雄のヤンマはなおも夢中になって囮と縺れようと襲いかかる処を素早く捕えるのであった。
 
 この時の囮は、雌雄いづれでも使えるのだが、雄の場合には、それを雌と見せかけるために頭上で振廻す速度を、適当に早めなければならなかった。
 
 また、囮は死んだヤンマでも使えた。
 
 
 
IMGR056-04
 
 歩兵十二連隊に関する記憶は、兵営の内部については何も知らないのだが、今にその日が面白かったと、私に少年の日を追憶させるのは軍旗祭の日であった。
 
 郡記載の日の1日は、営内を一般人に開放するので英門を自由に出入りすることが出来たのだが、私は一度もその営内に這入ったことが無かった。
 
 私が今に面白かったなと思って居るのは、その日1日だけのことではあったが、城から兵舎の横を通って市街へ抜ける外堀の橋の袂から、東方へ直線に築かれてあって、五百米程行った所から直角に南方の土居の門へ向かって曲る外堀の土手の下に、いろいろな見世物小屋が一列に並んで居て、その前に玩具や駄菓子を売る子供相手の、露天屋が出たので、母から小遣の十銭銀貨を貰うと、それを帯にくるんで家を飛び出して、終日私は其処で遊んだものであった。
 
 当時の見世物小屋へは何処の小屋へ行っても子供の私は一銭で這入れた。
 
 そして菓子類は一度に五厘単位で買えば満足することが出来た。
 
 
 
IMGR056-08
 
 また、小遣銭を全部使い果しても、素人相撲と、素人演芸の「ニワカ」と言う喜劇が無料であったので、決して退屈もしなければ飽きもしなかった。
 
 連隊のそれが野戦演習場であったか、或は射撃場であったかと言うことは判って居ないが、4粁程南方の丘稜地帯に一箇所在った。
 したがって、東西の練兵場では教練が主たるもの出会ったように見えた。
 
 しかし、私の家に近い東練兵場では、時折攻防演習が行われて居た。
 東練兵場は、西部の端が外堀、そして東部の端が土器川の堤防を境にして居た。
 
 攻防演習をする陣地は、その堤防から西に二百米程北端を背にして構築されて居て、其処には機関銃や砲座が設けてあった。
 そして私達少年の間では、この陣地を旅順港と呼んで居たが、陣地の前には更に幅三米程の堀と鉄条網があると言う、いかめしい築城がされて居た。
 
 
 
IMGR056-10
 
 この陣地を使って攻防演習をする日は、一般人の立入が禁止されるので、私達は街角に立って遠くからその演習を見て居たのであったが、其の演習は、その攻防が共に壮烈なものであった。
 
 先づ演習開始の喇叭が鳴ると、練兵場の南端に攻撃軍が散開をして散発ではあったが、パン、バン、パンと小銃射撃をやりながら北端の陣地へ徐々に接近をしてくるのだが、その攻撃軍が略練兵場の中央部附近へ進撃して来ると、攻防両軍の熾烈な射撃戦が始まった。
 そして、ジリ、ジリ、ジリと接近して来る攻撃軍が鉄条網を張った陣地まで進撃して来ると防御陣地からの射撃が一段と激しくなったかと思うと、喨々と鳴り渡る勇壮な突撃喇叭に「ワァー」と喚声があがると、いよいよ陣地攻防の白兵戦となるのであったが、その演習の最後までが、とても壮烈果敢なものに感じられて、観戦をして居た私達少年の血を湧し肉を躍らせたものであった。
 演習の無い日の東練兵場は、私達少年の恰好の遊び場になって、野球・相撲・凧揚げと言ったことをして、思う存分に遊べた。
 
 
 
IMGR056-12
 
 また、この二つあった東西の練兵場に関する想い出に石合戦と言うものがあったが、その石合戦が始まる動機が一寸変って居た。
 と言うことは、登校後の校内で同じ町内の誰かが不当な理由によって他町内の者に虐められるか泣かされた場合、同町内の誰かが自分達の餓鬼大将へそのことを告げる。
 するとその餓鬼大将は相手方の餓鬼大将へ敢然として石合戦を申し込むのであったが、合戦の開始時刻は勿論放課後であって、その戦場は西練兵場であった。
 
 いよいよ開戦の時刻ともなると、土居町の私達は土居の門の橋を渡って、そして相手方は兵舎の横から市街へ抜ける外堀の橋を渡ってそれぞれ練兵場へ這入って来て、適当な所まで接近するとお互いに石を相手側に投付け合って雌雄を決するのであったが、相方共に第一線の闘士は四、五、六年と言った上級生であって、三年以下の者は附近の石を懐へ拾って第一戦へ運ぶのが役目であった。
 
 私もこの石合戦に三度程参戦をしたが、その何時の場合も石運びの一員であった。
 また、この石合戦には次のような規制があったのだが、双方が共にその規制を厳に守って居た。
 
 
 
“IMGR056-16"
 
 その規制と言うのは、合戦に参加する資格者は尋常科の六年生以下の生徒であること。
 棒その他の相手を撲る物は持たないこと。
 相手が自分の町内へ逃げ込んだ時には、お互石を投げないこと。
 また関係のない人が通って居る時には、どちらからも石を投げないこと。
 合戦が終ったあとは、お互に遺恨を残さないこと等であったように記憶をして居る。
 
 この石合戦の勝敗は、いつも白黒がつかなかった。
 そして合戦は、いつも一時間程で終戦になって居たが、戦いが終わるともうわだかまりと言うものは微塵も無かった。
 私は、数ある少年の日の想い出の中で、この石合戦がとても印象に残って居る。
それを集団暴力と言えば言えるとは思うのだが、合戦を終わった後の態度は、双方が共に立派なものであったと思って居る。
 
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