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備 忘 録"

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履歴稿 北海道似湾編 真夏の太陽と天狗の太鼓 7の5

2025-04-04 16:52:01 | 履歴稿
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履 歴 稿   紫 影 子
 
北海道似湾編
 真夏の太陽と天狗の太鼓 7の5
 
 これは後日談ではあるが、私は大正四年の十二月に似湾村と言う所を離れてから、幌別、室蘭、幌別鉱山、東京、神戸と、家庭の事情、学問、鋳造技術の錬磨等と言った理由によって、転々とその住居を変えた者ではあったが、大正十一年に徴兵をされて、神戸から遥々札幌連隊区内の、月寒歩兵第二十五連隊と言う札幌の近郊(現在は市内)の兵営に入隊したものであったが、当時の連隊編成は、小銃部隊の三個大隊に、重機関銃の教練をする者と、歩兵砲の教練をする者と言う、二種類の兵隊を収容して居た機関銃隊と言うものから成って居た。そして私が所属をして居た兵舎は、この機関銃隊であった。
 
 それは古兵と呼ばれて居た私達二年兵には、最後の機動演習が身近に迫って居た九月中旬のことであったが、それは或日曜日のことであった。
 
 当時の軍隊では、日曜、祭日と言った日には、朝食後から夕食時限までを、週番、衛兵、諸当番(炊事、厩舎、連帯、大隊、中隊と言ったもの)と言った勤務以外の者は、札幌市内への外出が許されて居たので、いつもの私は、札幌の町へ出て制限をされた時間までを遊んで来たものであった。
 
 その日も一旦は週番下士から外出証を受け取ったものではあったが、あまり気が進まないので、その外出証を週番下士に、「綾井は今日外出を中止します。」と言って返して、私は班内に残った。
 
 
 
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 班内の戦友達が皆外出をしたので、独りボッチになった私は、しばらく、寝台の上に寝そべって居たのだが、「そうだ、連体サンデーに投稿をするつもりで書いた原稿を投稿してやろう。」と思ったので、早速整頓棚の手箱(兵営時代の稿に翔記してある)から、その原稿用紙を取り出して、そうした原稿を投函する設備のあった酒保(酒、莨、アンパン、歯磨粉、石鹼、燐寸、便箋、塵紙と言った物を兵隊が買う所)へ出かけた。
 
 私が投稿しようとした原稿の表題は”消燈喇叭”と言う小品文であったが、その内容はその入営前に馬と言う動物を扱い慣れて居ない一古兵が、機関銃隊の駄馬を曳いて馭歩教練
をする時の光景をテーマにしたものであったが、その原稿を持った私は、正面の入口から這入らずに、横の狭い入口から這入ったのであったが、日曜日の午前中の酒保は、勤務以外の兵隊が皆外出をして居るので至極閑散であって、卓子はがらんと空いて居た。
 
 連帯の酒保と言う所には、下士官の曹長が一人次に上等兵と当番率の一等卒(その後一等兵と呼ぶようになった)が一人づつと言う軍人の配置であって、その他はパンやウドンと言った物を売る地方人の商人が、五人程居るだけの所であった。
 その当時の酒保の上等兵は、私とは同室の中村と言う男であったので、原稿を投函した私が、カウンタに居た上等兵の側に寄って何かと雑談を交わして居た所へ、正面の入口から古兵が一人這入って来て、上等兵に煙草を一個くれと言って注文をした。
 
 
 
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 その古兵が這入って来たことによって、上等兵との話が途切れた私が、見るとはなしにその古兵の顔を見たのだが、その瞬間には思い出せなかったが、何処かで見覚えのある顔であった。
 
 私はその古兵が何処の誰かと言うことを思い出そうと首を捻ったのであったが、その古兵も私の顔をじいっと見詰めて首を捻っていた。
 
 お互いが首を捻って居るところへ、「そら、煙草(軍隊のみに発売されて居た誉と言う煙草であった)。」と言って中村上等兵が、一個の煙草をその古兵に手渡した。
 
 その当時の軍隊では、営内居住の下士官以下の兵隊に、儀式用、外出用、演習用と区別をした編上靴を三足貸与をして居たが、その外に営内靴と言って、その履くことが営内だけに限られて居たズック製の短靴が貸与されて居た。
 
 中村上等兵が差出した煙草を受取ってからも、しきりと首を捻りながら歩き出そうとする古兵の顔から目を離した私が、不図彼の足許を見た途端に私は、「オイッ、お前は似湾の学校へキキンニから通って居た坂尻と違うか。」と、思わず大きく叫んだのだが、それはその古兵の顔から私が思い出したのではなくて、必ずその姓を明記する規定になって居た彼の営内靴から読み取ったものであった。
 
 
 
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 「ウム、そうするとお前は矢張り綾井だったのか。」と言って私の営内靴へ目をやって「何んだ、はっきり書いてあるじゃないか。」と言って、彼は呵呵と笑って居た。
 
 似湾の小学校時代には、私より一級下の彼坂尻ではあったのだが、私は早生彼が遅生と言った関係から同じ年齢であったので、同じ徴兵年度となって、図ずも酒保の奇遇となったものであった。
 
 そうした二人は、十年振の邂逅であったと言うことで、酒保の卓子を挟んであれこれと少年時代の懐旧談に花を咲かせて居たのであったが、その時不図、次郎のことを思い出したので、「オイ、布施の次郎はどうした、彼は体の良い奴であったから、徴兵検査には俺達と同じように合格したろう。」と尋ねたのに対して、彼坂尻の答えは、「次郎の奴はなあ、可哀想な奴だったぞ、死んでしまったんだよ、それがまるで自殺行為よ、頭も相当に良かったし、温厚な男であったのになあ、彼が死んだ日にはなあ、焼酎をよ、鱈腹呑んで酔っぱらってから、全然泳げない癖に、今はなあ橋があるんだけどよ、お前も覚えて居るべ、似湾沢へ行く渡船場があった付近の深みへよ、『俺は泳ぐんだ』と言って、一緒に呑んだ友達が『お前は泳げないんだから止めろ。』と止めるのを振り切って、無理矢理飛込んだのだそうだが、飛込んだ途端に死んでしまったんだ、何んでも心臓麻痺を起こしたらしいんだ。」と彼坂尻が説明してくれたのだが、私はそれは只一日のことではあったのだが、次郎が死んだと言う渡船場の川で、次弟の義憲と三人が愉快に遊んだ少年時代のその日を回想して、「次郎よ、お前は何故死んだ。」と言う哀惜の情が、私をしばし咽ばしたものであった。
 

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履歴稿 北海道似湾篇 真夏の太陽と天狗の太鼓 7の4

2025-03-29 13:35:25 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾篇
 真夏の太陽と天狗の太鼓 7の4
 
 当時三十を超えたばかりの校長先生は河原で、水泳の要領を懇切に説明をした、そして川へ這入てからは平泳ぎはこう、背泳はこう、抜手はこのように、と実演をして見せてから、深みを横断して、対岸へ往復をした。
 
 併し、生徒達は水泳に興味を持たないのか、浅瀬で四つん逼になって、ジャブジャブして居る者、水をかけ合って燥いで居る者、河原で日向ぼっこをして居る者と言った状態で、誰一人として泳ぎを知ろうとする者は居なかった。
 
 私はそうした学友達を見て、「何んだ、誰も泳げないのか、俺が一人で泳いでもつまらないなあ。」と乳のあたりまでの深みで、両手を使って水を搔廻したり、一寸浮いて見たりして一人で遊んで居ると、上流から下流へ、下流から上流へと、遊泳して居た校長先生が、私の傍へ近寄って来て、「綾井、お前は丸亀育ちの瀬戸っ子だから泳げるだろう。どうだ、向岸まで先生と競泳して見ないか。」と言ったので、私は「ハイ」と答えて、先生からの挑戦に応じた。
 
 
 
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 すると校長先生が右手を頭上で振って「オーイ、皆今先生と綾井が、向岸まで競泳をするからお前達は応援すれよ。」と叫ぶと、皆は一斉に拍手をして「ワーッ」と歓声をあげた。
 
 先生の「用意・ドン」でスタートをしたのだが、私は往く時を抜手、帰りは片抜手と泳を変えて我武者羅に泳いだ。
 
 この競泳は先生が加減をしたのかも知れなかったが、私が勝って観戦の皆から「ヤンヤ」と喝采をされたことがあった。
 
 そうした環境に育った次郎は、泳と言うものを全然知らない少年であった。その次郎が緊張した表情で、次弟の手を引いて熱心に泳がせて居るので、何故か私には不審に思えた。
 
 私は上流へ行ったり、下流へ行ったりして、彼の近くを泳ぎ抜けて居たのであったが、それは私が下流の方から登って来た時のことであった。
次郎が両手を頭上で万歳をして、「義章さん、これ見れよ、義憲さんが独りで泳げるようになったぞ、矢張りお前に似たんだなあ、今に屹度上手に泳ぐようになるぞ、俺もなあ、これ位の歳からやって居れば、少しは泳げるようになって居ただろうになあ。」と嘆息を洩らしたのであったが、「さあ、義憲さんよ今のように独りで浮いて泳いで見れよ。」と言って、また次弟の手を軽く引いてやって居た。
 
 
 
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 「何っ、義憲が独りで泳げるようになったって、そりゃあ不思議なことだ。」と思った私は、自分の泳ぎを止めて、しばらく彼と次弟の様子を見守って居ると、「ソレッ」と声をかけて、ひいて居る手を放すと、次弟の義憲はそれは無茶苦茶と言った行動ではあったが、一応は水に浮いて泳いで居た。
そして次弟が疲れると次郎が手を差しのべて、次弟の手を引いてくれて居た。
 
 そうした状景を見た私は、「次郎って奴はとても良い奴だなあ」と思った途端に、胸がせき込んで、私の目頭をボーッとさした。
 
 それはその時のことであった。「そうだ、よしっ、俺が次郎に泳ぎを教えてやろう。」と思いついたので、私は次弟の義憲を浅瀬へ誘って、其の浅瀬で蟹泳ぎの独り遊びをさせておいて、彼に私の知って居る限りの泳方を教えたものであったが、その日の次郎は遂に泳ぎ得なかった。
 
 
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履歴稿 北海道似湾編 真夏の太陽と天狗の太鼓7の3

2025-03-27 12:41:08 | 履歴稿
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履 歴 稿   紫 影 子
 
北海道似湾編
 真夏の太陽と天狗の太鼓7の3
 
 やがて北海道にも真夏の八月が訪れた。
 小出さんの畑の手入れを上旬中に全部一応終ったので、あとは収穫をするだけと言うように一段落ついた或日、例によって遊びに来て居た次郎が、「オイ、これから川へ遊びに行かないか。」と私を誘うので、それまで次郎に雑誌を読ませておいて、一心に講義録を読んで居た私は、「お母さん、これから次郎と川へ遊びに行って良いかい。」と、その頃とても元気になって、なにか私達のお盆の晴着らしい物を縫って居た母に許しを乞うた。すると「渡四男おんぶして義憲を連れて行きなさい。」と母は、快く許してくれた。
 末弟を背負って紳士用の洋傘をさした私と次弟の手を引いてくれた次郎は、何かと雑談を交しながら、対岸に渡船場のある河原へ着いた。
 
 川の水は六月に次郎と乗馬で来た時と同じように対岸の山裾を流れて居たが、真夏の渇水期であったので、川幅の半ばが河原になって居た。
 
 
 
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 水の深みは対岸の山裾から四米程の幅だけあって、それから河原への八米程の所は、私達の乳のあたりまでの深さから、岸へだんだんと浅くなって居た。そして暑中休暇中の学童が、十人程でその浅瀬に集まって水鉄砲の掛合をして遊んで居た。
 
 「オイ義章さん、俺達も川へ這入って遊ぼうや。」と、裸になった次郎が、私を誘ったのだが、「俺は駄目よ、弟を背負って居るからな、俺は此処から皆が遊んで居るのを見て居るから、お前は義憲を泳がして遊んでやってくれないか。」と、私は彼に頼んだ。すると次郎は、「何を言って居るんだい。渡四男さんはぐっすり睡って居るじゃないか、おろして此処に寝かせてよ、顔に太陽が照らないように、その洋傘を差しかけておけば良いじゃないか。「と彼は、再び私を誘った。
 
 私は成程と思った。”そうだ、次郎が言ったようにして、俺も泳ごう”と決心をした。
 
 真実、私は泳ぎたくてムズムズしていたのであった。
 
「よし、俺も泳ぐわ。次郎すまんが渡四男をおろすから、お前そっと静かに抱いておろしてくれないか。」と言って私は、背負の帯を解いた。
 
 後へ廻った次郎は、そっと渡四男を抱きおろして、自分の脱いだ着物の上に寝かせた。
 
 
 
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 私は次郎が言ったように、太陽が直接渡四男の顔に照らないように洋傘をさしかけて、川風に洋傘が転動をしないようにと、付近にあった直径が十糎程あって長さが二米程の流木を拾って来た、そうしてその流木へ洋傘の柄を帯で結びつけた。
 
 「これならば大丈夫。」と、独りで頷いて、私は裸になった。
川の中へ這入った次弟は、私が裸になるのを見すまして、「よし、それなら俺は先に行くぞ。」と言って、チャポチャポと駆け込んで行った次郎に、両手を取って貰って、両足をバチャバチャとバタツカセながら、後去りに歩く次郎に引きづられて、「兄さん、これ。」と、さも嬉しそうに遊び始めた。
 
 どうした関係であったかと言うことは判って居ないのだが、その頃、似湾の少年で泳ぎを知って居る者は、一人も居なかった。
 
 それが私が未だ六年生として在学中の夏のことであったが、七月下旬の或日、学校の只一人きりの先生であって校長先生でもあった、大矢先生に引率されて五年六年と言う上級生が、この渡船場の川へ水泳に来たことが一度あった。
 
 勿論、私以外の生徒で泳げる者は一人も居なかった。
 
 

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履歴稿 北海道似湾編  真夏の太陽と天狗の太鼓 7の2

2025-03-21 13:23:13 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾編
 真夏の太陽と天狗の太鼓 7の2
 
 当時私の毎日は、母に呼び起されて毎朝五時に起きた。
 そうして前夜仕度をしておいたご飯と味噌汁を炊いて、兄の弁当を容器(その当時の容器は、柳の細い枝を編んで作った物であって、一般には弁当行李と称されて居た)に詰めたのだが、その副食は、塩鱒の焼いた物か、身欠鰊の煮付に、香の物か梅干をご飯の上へ載せると、次は私と次弟義憲の日の丸弁当を握る(畑を仕事に行く日に限る)のであった、そして六時半頃までには朝食をすまして兄は七時、父は七時半頃に出勤をするのであったが、私はその朝食の後始末をしてから夜中に汚した末弟のオムツを洗濯するのであった。
 そして八時半頃には次弟を連れて畑に行くのであった。
 そして雨の日以外で畑仕事の無い日には、矢張り次弟を連れて、川辺や沢へ行っては野生の蕗や三ツ葉のような青物か、付近の山へ行ってきのこを取るか、さも無くば鵡川川や似湾沢へ魚を釣に行くと言う状態であった。
 
 雨の降る日には、終日家に居ることが多かったのであったが、外へ出た日の帰りは、午后の四時頃か、日暮時までかと言ったように、その日の母の健康如何によって異って居たのだが、四時頃に帰った日は、夕飯の仕度をして父や兄の帰りを待って、その夕飯が終った後仕末をすると、どんなに急いでも七時頃になった。
 また日暮時に帰る日には、夕飯の仕度は母がしてくれるのであったが、後の仕末は矢張私がしなければならなかったので、終る時刻には変わりが無かった。
 
 
 
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 私の毎日がこんな状態であったから、勉強の方は雨降りの日は別として毎日夕食の後始末が終ってから、一時間程、三分芯の洋燈の下で講義録が読めると言う程度であった。
 
 次弟の義憲は、数え年の七歳になって居たが、彼の遊びに対する考え方が一年間で大きく変わっていた。
 
 それは過去一年の歳月が、彼の遊びに対する考え方を進歩させたものであったろうが、私が小出さんの畑へ行く日には、去年と同様に彼を連れて行くのであったが、その第一日目の日に、「さあ、お前はまたこれで遊んで居れよ。」と柳の木を切ってやっても、彼はもう去年のような馬遊びをしようとはしなかった。
 
 また、私の傍に来て仕事の邪魔をすると言うこともしなくなって居た。
 
 その年の耕作第一日目の天候は、北海道としては珍らしい程にポカポカと暖い好天気であった。
 
 私は去年の豆殻や八十糎程に伸びて居る薯畑の枯草を搔集めて燃すことに終始して一日を終ったのであったが、その間の次弟は横の小沢で石をひっくり返してはざり蟹を捕えて、終日楽しそうに遊んで居た。
 
 次郎は私の卒業後も学校の授業を終ってからよく遊びに来て、私が薪を切って居れば、それを割って手伝ったり、屋外の掃除をしてくれたりして居たのだが、この日も留守居の母から、私の所在を聞いて小出さんの畑にやって来た。
 
 「オイ、今年は一反増えたんだってなあ。楽じゃないなあ、でも心配するなよ。俺また手伝うからなあ。」と言って次郎は、私の掻集める枯草や木屑を運んで燃やすのを手伝ってくれた。
 
 そうした次郎が、小沢でチ’’ャブチ’’ャブ1人で遊んでいる次弟を見て、「オイ、おんじ(弟と言う意味)何やって居るのよ。」と尋ねたので、「ウン、あいつざり蟹捕って遊んで居るんだ。」と私は答えた。
 
 
 
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 「ウム、そうか、そりゃうまいぞ。なあオイ、ざり蟹焼いて食うべや。」と言って、次郎は弟の方へ歩いて行った。
 
 ざり蟹を焼いて食うと言うことを始めて聞いた私は、果たして食えるのかと言う疑問と朝から飽かずに遊んで居る弟が、どれ程捕ったかなと言う好奇心から彼に続いて小沢の岸へ行った。
 
 その時の次弟は、小沢の岸に直径三十糎程の穴を掘って深さが二十糎程の底に十個程の小石を並べて其処に浅い溝で小沢の水を流し込んだ中に大小無数のざり蟹を泳がせて喜こんで居た。
 
 「オイ、これ焼いて食うととても美味いんだぞ、だからデッカイ奴を焼いて、三人で食うべや。」と次郎が、弟を促すと、「ウン」と言って一応頷いた弟が、「デッカイ奴だけだぞ。小さい奴は俺家に持って帰るんだからな。」と注文をつけて焼いて食うと言うことに賛成をした。
 
 次郎は早速マキリ(小刀)で柳の枝を削った串に大きいざり蟹を四匹づつ突刺したものを、三本作った。
 
 木屑や枯草の焚火で次郎が上手に焼いたざり蟹を三人で食べたのであったが、次弟の義憲も「美味い、美味い。」と言いながら喜んで食って居た、併しその時の私は、「何か海老に似た味だな」と不図思った。
 
 馬鈴薯、青豌豆、唐黍、金時、小豆、大豆と次々に種を蒔き終ると馬鈴薯から始まる除草に取掛かるのであったが、弟は小さい馬欠と笊を持って来ては毎日、小沢の雑魚を掬うやら、ざり蟹を捕っては喜んで遊んで居た。
 
 また、次郎も欠かさず手伝ってくれた。
 

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履歴稿 北海道似湾編 真夏の太陽と天狗の太鼓 7の1

2025-03-20 14:15:36 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾編
 真夏の太陽と天狗の太鼓 7の1
 
 私達の家が、下似湾から市街地の吏員住宅へ引越た年の秋に、末弟の渡四男が誕生をした。
 
 父は、その末弟の誕生を、
一、大正二年十月二十八日、四男出生、渡四男と命名す。
と、その履歴稿に記録をして居る。
 
 父が末弟の名を渡四男(トシヲと読む)と言った一寸変わった命名をしたのは、北海道へ渡ってから、四男として生まれたと言うことを意味づけたのだと、後年の父は私達兄弟に聞かせて居た。
 
 病身の母は、その末弟の渡四男が生まれてからは、めっきり弱くなった。
 
 当時小学校の尋常科六年生であった私が、次弟の義憲を連れて登校をするようになったのも、父も兄も、そして私が登校をした留守中を隣の夫人(私はおばさんと呼んで居た)の世話になって居たので、次弟の義憲が居ると言うことが、母もそして隣の夫人も、お互に負担になるからと言う母の意思によったものであったが、朝夕の炊事には殆んど私が当たって居た。
 
 その翌年の三月に私は、公立似湾尋常小学校を首席の成績で卒業をした。
 
 
 
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 その当時の似湾村には、高等科と言うものの設置が無かったことが、そうさせたのだと思うのだが、私の同級生で高等科へ進学した者は、役場の戸長をして居た家の三男坊であって、私と同じ机に席のあった、高松獅郎と言う少年が只一人と言う状態であった。
 
 その高松君は、札幌の高女(校名は不詳)を卒業した姉さんが、教鞭を使って居た輪西の鶴ヶ崎小学校の高等科に進学をしたのであった。
 
 当時、私の心境は高等科に進学したい一心であったのだが、併し家庭の実状が、私の希望を居れ得ない状態であることを私には良く判って居た。
 
 併し私は、一応進学をしたい自分の希望を父に訴えて見たのではあったが、「お前も良く判って居るように、お母さんが弱いので、お前が居ないと家が困る。それに下宿をしなければならないのだから、お金が沢山かかる。お父さんと義潔の二人が貰う現在の給料では、とても送金が続かないから、可哀想ではあるが、高等科への進学を諦めてくれ。」と言う結果になった。
 
 無理にとは言えないので、とても残念ではあったのだが、私は進学を諦めてその当時東京で発行して居た、高等小学講義録と言う通信教育によって勉強をすることにした。
 
 私が学校を卒業したからということによって、畑の借地を更に一反歩増すことになった。
 
 朝夕の炊事、次弟と末弟の世話、講義録による勉強、三反歩になった畑の耕作と忙しい毎日を送らなければならなくなったので、それまで母を喜ばして居た臨時集配人としてのポストを開ける仕事を三月限りで辞めてしまった。
 
 
 
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 従って、毎月母に喜ばれた三円の給料は、もう貰えなくなった。
 
 学校を卒業してからの私が一ヶ月間に必要とした費用は五十銭程度のものであったのだが、その内訳をして見ると、講義録が二十銭、少年雑誌の日本少年が十銭、そして雑記帳や鉛筆と言った文房具費が二十銭程度と言った経費であった。
 
 その当時の兄は、月収十二円の内から九円を母に渡して残りの三円を自分の小遣銭にして居た。
 
 兄はその小遣銭で、当時流行して居た講談文庫の単行本やハーモニカ、銀笛、明笛といった楽器類を、私が購読をして居た日本少年の広告欄から選んで、振替用紙を使っては注文をして居た。
 
 学校を卒業するまでの私は、月月に貰う給料の三円をその儘母に渡して、「日本少年」を一冊買って貰って居たのであったが、その臨時集配人を辞めて無収入となった私が、逆に講義録その他で出費が増えたことが、当時の私としてはとても淋しく感じたものであった。
 
 併し、幸いなことに五月からは、役場の小使さんが休んだ日には、一日五十銭の割で代務者として私を使ってくれたことと、集配人が休むと、郵便局でもその代務者として私を使ってくれて、その休んだ人の日給を日払で支給をしてくれたので月間三円は欠かさない収入があるようになったので、私はホッとしたものであった。
 
 
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