履 歴 稿 紫 影 子
北海道似湾編
真夏の太陽と天狗の太鼓 7の5
これは後日談ではあるが、私は大正四年の十二月に似湾村と言う所を離れてから、幌別、室蘭、幌別鉱山、東京、神戸と、家庭の事情、学問、鋳造技術の錬磨等と言った理由によって、転々とその住居を変えた者ではあったが、大正十一年に徴兵をされて、神戸から遥々札幌連隊区内の、月寒歩兵第二十五連隊と言う札幌の近郊(現在は市内)の兵営に入隊したものであったが、当時の連隊編成は、小銃部隊の三個大隊に、重機関銃の教練をする者と、歩兵砲の教練をする者と言う、二種類の兵隊を収容して居た機関銃隊と言うものから成って居た。そして私が所属をして居た兵舎は、この機関銃隊であった。
それは古兵と呼ばれて居た私達二年兵には、最後の機動演習が身近に迫って居た九月中旬のことであったが、それは或日曜日のことであった。
当時の軍隊では、日曜、祭日と言った日には、朝食後から夕食時限までを、週番、衛兵、諸当番(炊事、厩舎、連帯、大隊、中隊と言ったもの)と言った勤務以外の者は、札幌市内への外出が許されて居たので、いつもの私は、札幌の町へ出て制限をされた時間までを遊んで来たものであった。
その日も一旦は週番下士から外出証を受け取ったものではあったが、あまり気が進まないので、その外出証を週番下士に、「綾井は今日外出を中止します。」と言って返して、私は班内に残った。
班内の戦友達が皆外出をしたので、独りボッチになった私は、しばらく、寝台の上に寝そべって居たのだが、「そうだ、連体サンデーに投稿をするつもりで書いた原稿を投稿してやろう。」と思ったので、早速整頓棚の手箱(兵営時代の稿に翔記してある)から、その原稿用紙を取り出して、そうした原稿を投函する設備のあった酒保(酒、莨、アンパン、歯磨粉、石鹼、燐寸、便箋、塵紙と言った物を兵隊が買う所)へ出かけた。
私が投稿しようとした原稿の表題は”消燈喇叭”と言う小品文であったが、その内容はその入営前に馬と言う動物を扱い慣れて居ない一古兵が、機関銃隊の駄馬を曳いて馭歩教練
をする時の光景をテーマにしたものであったが、その原稿を持った私は、正面の入口から這入らずに、横の狭い入口から這入ったのであったが、日曜日の午前中の酒保は、勤務以外の兵隊が皆外出をして居るので至極閑散であって、卓子はがらんと空いて居た。
連帯の酒保と言う所には、下士官の曹長が一人次に上等兵と当番率の一等卒(その後一等兵と呼ぶようになった)が一人づつと言う軍人の配置であって、その他はパンやウドンと言った物を売る地方人の商人が、五人程居るだけの所であった。
その当時の酒保の上等兵は、私とは同室の中村と言う男であったので、原稿を投函した私が、カウンタに居た上等兵の側に寄って何かと雑談を交わして居た所へ、正面の入口から古兵が一人這入って来て、上等兵に煙草を一個くれと言って注文をした。
その古兵が這入って来たことによって、上等兵との話が途切れた私が、見るとはなしにその古兵の顔を見たのだが、その瞬間には思い出せなかったが、何処かで見覚えのある顔であった。
私はその古兵が何処の誰かと言うことを思い出そうと首を捻ったのであったが、その古兵も私の顔をじいっと見詰めて首を捻っていた。
お互いが首を捻って居るところへ、「そら、煙草(軍隊のみに発売されて居た誉と言う煙草であった)。」と言って中村上等兵が、一個の煙草をその古兵に手渡した。
その当時の軍隊では、営内居住の下士官以下の兵隊に、儀式用、外出用、演習用と区別をした編上靴を三足貸与をして居たが、その外に営内靴と言って、その履くことが営内だけに限られて居たズック製の短靴が貸与されて居た。
中村上等兵が差出した煙草を受取ってからも、しきりと首を捻りながら歩き出そうとする古兵の顔から目を離した私が、不図彼の足許を見た途端に私は、「オイッ、お前は似湾の学校へキキンニから通って居た坂尻と違うか。」と、思わず大きく叫んだのだが、それはその古兵の顔から私が思い出したのではなくて、必ずその姓を明記する規定になって居た彼の営内靴から読み取ったものであった。
「ウム、そうするとお前は矢張り綾井だったのか。」と言って私の営内靴へ目をやって「何んだ、はっきり書いてあるじゃないか。」と言って、彼は呵呵と笑って居た。
似湾の小学校時代には、私より一級下の彼坂尻ではあったのだが、私は早生彼が遅生と言った関係から同じ年齢であったので、同じ徴兵年度となって、図ずも酒保の奇遇となったものであった。
そうした二人は、十年振の邂逅であったと言うことで、酒保の卓子を挟んであれこれと少年時代の懐旧談に花を咲かせて居たのであったが、その時不図、次郎のことを思い出したので、「オイ、布施の次郎はどうした、彼は体の良い奴であったから、徴兵検査には俺達と同じように合格したろう。」と尋ねたのに対して、彼坂尻の答えは、「次郎の奴はなあ、可哀想な奴だったぞ、死んでしまったんだよ、それがまるで自殺行為よ、頭も相当に良かったし、温厚な男であったのになあ、彼が死んだ日にはなあ、焼酎をよ、鱈腹呑んで酔っぱらってから、全然泳げない癖に、今はなあ橋があるんだけどよ、お前も覚えて居るべ、似湾沢へ行く渡船場があった付近の深みへよ、『俺は泳ぐんだ』と言って、一緒に呑んだ友達が『お前は泳げないんだから止めろ。』と止めるのを振り切って、無理矢理飛込んだのだそうだが、飛込んだ途端に死んでしまったんだ、何んでも心臓麻痺を起こしたらしいんだ。」と彼坂尻が説明してくれたのだが、私はそれは只一日のことではあったのだが、次郎が死んだと言う渡船場の川で、次弟の義憲と三人が愉快に遊んだ少年時代のその日を回想して、「次郎よ、お前は何故死んだ。」と言う哀惜の情が、私をしばし咽ばしたものであった。