備 忘 録"

 何年か前の新聞記事 070110 など

履歴稿 香川県編  八幡神社 2の2

2024-10-11 17:12:21 | 国防
“IMGR060-16"
 
履 歴 稿  紫 影子
 
香川県編
 八幡神社 2の2
 
 また花車は、それが花柳街の人達であったのかも知れないが、三味や太鼓で賑かに囃したてては威勢の良い若衆に綱を曳かせて、町から町を練歩いては、所所で綺麗な舞姿の娘さん達に舞を披露させて居た。
 
 私が母から貰うお祭りの小遣は、10銭の銀貨が1枚ときまって居たのであったが、私はその10践の小遣を此処で5厘、此処では1銭と言うように、菓子や果物を買食いしながら、終日ダンジリや花車のあとを飽かずにつけ歩いた者であった。
 
 香川県と言う所の氏神には、八幡神社が多かったものか、土器川を挾んだ対岸の土器村にも氏神の八幡神社があった。
 
 
 
“IMGR060-17"
 
 その土器村の八幡神社へ行く道は、渡場通りから直線に土器川へ出た所に架してあった仮橋を渡って行くのであったが、向岸の堤防の道を右へ50米程行った所から左へ曲って、その路傍が一色の水田地帯と言う所を2粁程直線に行った所の正面に、その八幡神社があった。
 
 そして其処は、土器山と呼んでいた山の麓であった。
 
 この土器村の祭典には、御輿を土器川に投げ込んで、とても荒荒しく取り扱って居た。
 
 そうした乱暴な場面をしばしば見た私が、その光景を一度父に話をしたことがあったのだが、その時の父は、「土器の八幡さまは荒神さまなので、そうしなければならないことになって居るんだ」と教えてくれたのだが、当時の私には、その意味は通じなかった。
 
 
 
“IMGR060-18"
 
 香川県一円の祭典では、そのいづれの神社でもきまって獅子舞が、その境内で行われて居た。
 そしてその獅子舞は、各部屋ごとに、または各町内ごとに2人の若衆が獅子の頭尾となって、舞の技巧を競うのであった。
 
 それは、私が4年生の秋のことであったが、私は土器川の堤防に生えて居る老松へ登って、その枝に腰を掛けて四辺の景色を見渡すのがとても好きであったので、その日も只一人でその堤防へ出かけて、老松の枝から四辺を見渡して悦に入って居たのであったが、突然土器山の麓からコンコンチキチンと獅子舞の鐘の音が聞えて来た。
 
 「ははぁ、今日は土器の八幡様のお祭か」と気付いたので、私は土器山の麓へじいっと目をやった。
 
 
 
“IMGR061-10"
 
 その日は空に雲一つ無いと言う絶好のお祭日和であったが、社頭から川岸までの間に一定の間隔をとって建ててあった幟が、秋の陽に映えて白くはためいて居た。
 
 私はその日まで土器の八幡神社の祭典と言えば、御輿を川の中へ投込むと言った光景以外には嘗て見たことが無かったので、「よし、一つ見てこう」と急いで老松から降りて仮橋の袂へ走った。
 
 仮橋を渡った私は、駆け足で神社へ行ったのだが、祭典とは言っても、純農村のことであったから、子供達が喜ぶ興業物の催しは何一つ無いと言う淋しいお祭風景であった。
 
 併し、村の子供達は、お互に着飾って、獅子舞の周囲や、綿飴や玩具を売って居る、露天店の前に群って、楽しそうに遊んで居た。
 
 
 
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履歴稿 香川県編  八幡神社 2の1

2024-10-11 17:08:02 | 履歴稿
“IMGR060-11"
 
履 歴 稿  紫 影子
 
香川県編
 八幡神社 2の1
 
 丸亀市の氏神は、亀山上からは西南方に当る郊外に鎮座して居た八幡神社であった。
 
 その八幡神社が、亀山城からどれ程の距離に在ったかと言うことは判って居ないのだが、亀山城が軍に解放される祝祭日の日に、頂上へ登った私達が、その西南方の方向を見下すと、遥かなる彼方に鎮守の森が見えたのを私は覚えて居る。
 
 それは、何かと封建性の強かった城下町としては一寸不思議なことのように私は今も思って居るのだが、八幡神社が丸亀の氏神さまであると言っても、往時の藩政時代は兎も角として、神社そのものが郊外の田圃の中にぽつんと建立されて居たので、その祭典の日とは言っても、市内の子供達を喜ばす催し物と言う物が一つも無くて、田舎臭い玩具や、駄菓子類を売る露天の店が5つか、6つ出る程度であったから、近郷の農家の子供達にとっては楽しいお祭であったかも知れないのだが、市内の子供達には何の興味も無かったので、祭典の日に神社へ参拝する者は、指で数える程の数でしか無かった。
 
 私もこの丸亀市で、4歳から10歳の春まで育った者であったが、その八幡神社の祭典へ参拝したのは只の一度しかなかった。
 
 
 
“IMGR060-12"
 
 その日の私は、「あんな遠い所へ」と言った気持ちで、とてもじゃないが行きたくなかった者ではあったが、「お前は未だ一度もお参りしたことがないのだろう」と、無理から父に連れられて渋渋ながら参拝をした者であった。
 
 その年代については全全私は知って居ないのだが、生駒と言う大名が亀山城の城主であった時代に、田宮坊太郎と言う孝子が居て、その坊太郎が、この八幡神社の境内で亡父の仇を討ったと言うことが、言い伝えられて居た。
そして、その坊太郎の名が予讃線の丸亀駅前に、”名物坊太郎餅”として残されて居た。
 
 大名時代の祭典には、城主を始め藩士の人達が主体になって、いとも壮厳に取り行われたそうであったが、私達親子が参拝した時には、ポツンと市街から離れて居た関係か、参拝をする人の数も疎らな、それは恰も田舎のお祭風景でしか無かったように覚えている。
 
 
 
“IMGR060-13"
 
 併し、市内では仮装行列、ダンヂリ、花車等が市中を練歩いて、とても賑わって居た。
 
 また仮装行列は城下町と言う特殊性がそうさせるものであったかも知れないが、忠臣蔵の赤穂義士とか加藤清正の虎退治と言った武士の万能時代を装った者が多かった。
 
 当時、私達がダンヂリと呼んでいた物は、四輪の木車の台上に、技巧を凝らした彫刻がしてあったが、一寸小形の御堂を乗せたような感じのする車を、その堂内で囃す鐘の音に拍子を合せた、町内の若衆達が揃いの湯形に鉢巻姿で、綱を曳いて、市中を練歩くのであったが、台上の御堂の四方には、金糸銀糸で刺繍をしてあった、勇壮な豪傑の絵姿が、車の動揺につれて揺れて居たのが、私達少年にとってとても魅力的であった。
 
 
 
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