備 忘 録"

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履歴稿 香川県編 第三の新居 7の7

2024-10-06 13:11:43 | 履歴稿
IMGR057-14

履 歴 稿    紫 影子
 
香川県編
 第三の新居 7の7
 
 第三の家での思い出としては、この外に次弟の義憲が窓から落ちて頭を負傷した事故があった。
 
 次弟の出生を、父はその履歴稿に、
 一、明治41年11月24日午後6時男子出生(三男)義憲と命名す。
   産婆宮本ヒサヨ。と記録して居る。
 
 次弟は、第一の新居で生まれたのだが、大きい頭の知能がとても優れた子供であった。
 兄も私も、その知能の優れて居た点を面白がっては、よく揶揄って遊んだものであった。
 
 
 
IMGR057-15
 
 それは、次弟が2歳の時のことであって、私達が第三の家に引越してから未だ間もない日の出来ごとであったが、或る日暮時に玄関の奥の細長い四畳間の西側に在った窓に、次弟を抱いた兄が、馬乗りになって遊んで居た時に、何かの拍子で平均を失った兄が、次弟の上に折重って窓外へ転落したのであったが、折悪く、兄の下になって落た弟の頭の所に拳大の石があって、その石にしたたか頭を打つけた弟は、そこに可成りの裂傷を負ったのであった。
 
 
 
IMGR057-16
 
 その時の私は、まだ隣りの吉田さんの家で遊んで居たのだが、突然聞えて来た弟の泣き声が、あまりにも大きかったので、吉田さんのおばさんが驚いて、「どうしたんじゃろうか。あの泣声は普通の泣声と違うぜ。早う帰って見なさい」と私に言ったので、慌てて帰って見ると、四畳間の窓の所で、弟の頭の傷口を手拭で抑えた母がオロオロして居た。
 
 
 
IMGR057-19
 
 驚いた私は「お母さん、義憲どうしたの」と、急込んで母に尋ねた。
 
 すると「義潔と一緒に窓から落ちて、下にあった石で頭を切ったんだよ」と答えながらも母は必死になって右手の手拭で傷口を押えて居たが、その手拭は鮮血で真赤に染って居た。
 
 私が四畳間へ駈込んだ時には、弟の大きな泣声は止んで居たが、未だヒッヒッと泣きじゃくって居た。
 
 
 
IMGR057-20
 
 私は、そうした室内の光景に一瞬狼狽えた者であったが、其処に弟と一緒に転落したと言う兄の姿が見えないので、「お母さん、兄さんはどうしたの」と私は尋ねた。
 
すると、「薬を買いに行った」と答えた母が、「もう義潔が帰って来る頃だから、表へ行って見て来ておくれ」と私に言いつけたので、急いで私が玄関を出ようと、表の格子戸を開けた途端、私を突き飛ばすようにして、脱兎の勢いで兄が飛び込んで来た。
 
 
 
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 母は、兄が買って来た傷薬を適当な油紙へ延して早速弟の傷口に当ててやって、その上から繃帯を巻いたのだが、弟の傷は可成り深いようであった。
 この時の傷痕は、今も弟の頭に三日月の形をして残って居るが、出血が多かった関係か、その後弟の知能は、それまでのような活発な成長振りでは無くなった。
 
 
 
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履歴稿 香川県編 第三の新居 7の6

2024-10-06 13:02:58 | 履歴稿
P8275332
 
履 歴 稿    紫 影子
 
香川県編
 第三の新居 7の6
 
 小さい子供達は、その火に怯えて「ワアワア」と声をあげて泣き出したが、「こりやぁ大変なことになってしまったぞ。」と慌てた私は、急いで裸になって脱いだ着物を打振り打振り火を叩き消そうと、紅蓮の炎を追い廻したのだが、とても少年の私の手におえる勢ではなかった。

 汗ばんだ私は、顔と言わず手と言わず、体全体に燃えつきた枯れ草の黒い煤に吸いつかれて、真黒になった儘で夢中になって飛び廻っている所に、蹄の音も荒荒しく、1人の騎馬憲兵が駆けつけて来た。



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 「オイッ、どうしたか」と馬上から怒鳴る憲兵の声に、ハッとした私が、振りあげた着物を肩にかけて、その憲兵の方向へ向くと、14、5人の兵隊さんが、スコップその他の消火器具を持って駈けて来るのが見えた。
 
 火は兵隊さん達の手で間もなく消されたが、兵隊さん達の消火作業が始まってから、火が全く消えるまで、私は真黒に煤けた裸の肩に着物をかけたまま、只茫然として傍観して居たのだが、隊伍を整えた兵隊さん達が、兵舎へ帰って行く後姿を見送った私は、ホッとした安心さと、よく消してくれた、と言う感謝の気持が交交と胸に迫って、ワッと泣きだした者であった。
 
 
 
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 そうした私の肩をトントンと軽く叩いた憲兵は、「坊や、もう二度とこんなことをしたらいかんぞ。もし今度やったら、もうお父さんやお母さんと一緒に居られんようになるんだぞ。」と優しく諭してから、「もう泣くのは止めろうよ。男の子がいつまでも泣いて居ると人に笑われるぞ。兵隊さんが家まで送ってやるから、さぁ、着物を着て早く帰ろう」と馬を索いて、徒歩で家まで送ってくれた、と言う事件であった。
 
 
 
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履歴稿 香川県編 第三の新居 7の5

2024-10-06 11:43:46 | 履歴稿

P8275316

履 歴 稿    紫 影子  

 香川県編
 第三の新居 7の5

  
 第三の家へ引越ししてから、私の性格が大きく変化をした。
 それは、吉田さんと言う女ばかりの隣へ、毎日のように遊びに行って居た関係であったかも知れないが、ヤンチャ坊主であった私の性質が、とても素直になって、女の子や私より年少の少年とばかり遊んで居て、男子の学友とは、あまり遊ぼうとしなくなったことであった。

 したがって、喧嘩は全然と言い切れる程にしなくなった。

 こうした性格の変化が、学校へ行かずに、学齢未満の幼ない子供達を相手にして、晴れた日には西練兵場の土手で、そして雨の降る日は共稼ぎで両親が留守の子の家で、毎日無頓着に遊んで居たのかも知れないと現在の私は思って居る。



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 私が真面目に学校へ通うようになっても、この幼ない子供達は、よく、「練兵場へ遊びに行こう。」と私の家まで、可成りの道を誘いに来たものであったが、そうした時の私は、「学校へ行かなければ叱られるから。」と断って、学校が休の日には屹度行くからと約束をして、晴れた日の日曜日には、この子供達と一緒になって練兵場で遊んだものであった。

 それは、四年生になったばかりの私が、例によって、この小さな子供達と練兵場で遊んだ或る日曜日のことであったが、「以後は再び起させないように、充分注意されたい。」と言う警告を、両親が憲兵隊から受けると言うような失態を私はしでかしてしまった。



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 その失態と言うのは、私が小さい子供達といつも遊んで居た土手の外堀側の勾配には、新しい若草が伸びて去年の枯れ草を頭の上に浮して居た或る土曜日のことであったが、学校の授業を終った私が、外堀の岸の道を通って帰った時に兵隊さん達が、その枯草を掻き集めて燃して居るのを見たので、「ハァ、あの枯れ草は燃してしまうんだな。」と思った。

 それはその翌日のことであったが、私は約束の子供達と練兵場で遊ぼうと思って家を出る時に、「ハァ、あの枯れ草は燃してしまうんだな。」と思った昨日の感覚が燐寸を持ち出させた。

「オイ、枯れた草を此処で燃やすんだから、お前達集めて来いよ。」と言って子供達に命令をすると、彼等は喜んで、斜面を転がりながらも、枯れ草を土手の上へ集めて来た。

 その時の私は、”兵隊さんを手伝うんだ”と言った以外の何ものも無かったので、その枯れ草へ無造作に火をつけた。


 
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 枯草は勢いよく燃えあがった。

 火をつけるまでは、風が吹いて居たと言うことを、全然意識して居なかったのだが、うず高く積んだ枯れ草の火は、ゴウゴウと音をたてて紅蓮の炎を捲上げて燃え上がった。

 「ああ、燃えた燃えた」と、私達は手を打って燥いで居たのだが、次の瞬間、すっかり火になった枯れ草が、風に吹き飛ばされて、其処此処の枯草へ次次と燃えうつるので、四辺は見る見るうちに火の海になってしまった。



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履歴稿 香川県編 第三の新居 7の4

2024-10-06 11:26:11 | 履歴稿

P8275307

履 歴 稿  紫 影子 

香川県編
 第三の新居 7の4

 私は、「誰かな」と言った軽い気持ちで、その人の顔を覗いたのだが、その途端私はギクッとさせられた。 と言うことは、その人が、私の担任であった柳原と言う先生であったからであった。

     この私の担任であった柳原先生と言う人は、とても温厚な人物であって、嘗ては私の父も薫陶を受けたと言う先生であった。

     「アッ、先生だ」と判った瞬間の私は、狼狽と言うよりも、その、ふしだらであった行為に対する自責から、思わず立竦んでしまったものであった。  



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 その夜、両親から懇懇と説諭をされた私は、翌朝父に附添われて学校へ行った。

   教員室に柳原先生を尋ねた父は、保護者としての立場から不肖の子の不都合を大いに詫びて勤先の税務署へ出勤して行った。

 あとに残された私は柳原先生から、「お前は勉強も良く出来るので、先生は喜んで居たのだが、今回はつまらんことをしてくれたなぁ。過ぎたことはもう仕様が無いが、これからは、もうあんなことをしたらいかんぞ。」と優しく諭されたのだが、当然厳しく叱責されるものと覚悟をして居た私は、こうした先生の温情が身にしみて、「鳴呼、申訳のないことをしてしまった。」と言う自責感に胸がつまって泣き出してしまった。



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 やがて、カラン、カランと始業の鐘を小使さんが廊下で鳴らすと、「もう良い。泣かんと教室へ行け。」と言って先生が、机上の教科書と出席簿を持って席を立った途端に附近の先生達が、「柳原先生、他の生徒への見せしめのために、その生徒を罰さなけりゃいかんですぞ。」と言って騒ぎたてたので、困惑した表情の先生は、止むを得ないと言った口調で、「お前が悪いんだぞ。先生方の言う事は決して無茶ではないぞ。そこに立っとって自分の悪かったことをよく考えとけ。」と言って、他の先生達と教員室から出て行った。



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 それは柳原先生が言いつけたものと、私は今に思って居るのだが、先生の懲罰に従った私が、広い教員室に只1人残って、不動の姿勢で立って居ると、間もなく小使さんが這入って来て、柳原先生の椅子を指さしながら、「その椅子に腰をかけとれ。併し、授業が終わった鐘が鳴ったら、すぐに立つんだぞ。そうしないと他の先生方がうるさく言うからな。」と言ってくれたので、私は小遣いさんの言うとおりにした。



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 私は四年に進級する時にも、通信箋は優等の成績であった。
併し、この事件の関係であったと思うのだが、優等生としての賞状は貰えなかった。


  
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履歴稿 香川県編 第三の新居 7の3

2024-10-06 11:18:36 | 履歴稿
P8241130

履 歴 稿  紫 影子  

香川県編
 第三の新居 7の3

 それは、私が三年生に進級をして三学期に這入った直後のことであった。

 その動機については、本人の私自身が、今に何故あんな馬鹿げたことをしでかしたのかと、首をかしげる程に無根拠無理由のものであった。

 強いて、その素因を言うならば、当時の私が、その日の体調によって放心状態になってボケて居たのかも知れなかった。

 その事件と言うのは、私が学校を1ケ月程サボったことであった。

 私の家から学校へは、家の前の道を右へ百米程行くと、外堀の岸に出た。

 そしてその外堀の岸を通って入る道をまた右に曲がって三百米程行くと、昔は渡船で往来をして居たので渡場の橋と言われて居たのだが、外堀と海をつないだ運河に架橋されて居たのを渡って行くのであったが、その日の私は右へ曲がるべき岸の道を反対方向の左へ曲ってしまったのであった。



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 その時の私は、全くの放心状態であったものか、何故左へ曲がったのかと言うことは、今に私は判らないのだが、「オヤッ」と私が気づいた時には、土居の門の橋畔まで来て居た。

 「しまった」と私は早速廻れ右をしようとしたのだが、その時西練兵場から、京響と勇ましい喨々と勇ましい行進喇叭が聞こえて来た。

 私がその行進喇叭の鳴っている方向へ目を向けると、土居の門から這入って約百米程行った所に在った日露戦争の記念碑の前で歩武堂々と連隊の分列行進が始まって居た。

 後年の私は徴兵検査に合格をして、北海道の月寒に在った歩兵二十五連隊の現役兵として在営をした2カ年間は、幾度かこの分列行進に参加をしたものであったが、少年の日のその日私の目に映った分列式の光景は、兵隊さんが揃って肩にした鉄砲の筒先に、ピカ、ピカと光った剣がその煌きを朝の日差に照返して居たのも壮観であったが、勇壮な行進喇叭に歩調を合せて、歩武堂々と行進をする光景が更に一段と壮観であったので、思わず我を忘れた私は、廻れ右をすることを止めて、土居の門の橋を渡ってしまった。

 分列行進は、それから1時間程で終ったのだが、未だ興奮から冷めきらなかった私は、これから学校へ行っても、どうせ遅刻したことを先生から叱られるだけのことだと言った不埒考えを起して、それまで私の傍で、私と同じように分列行進を見て燥いで居た学齢未満の幼児と、その練兵場で、いつも学校から帰る時刻になるまで遊んでしまった。



P8241135

 その日の授業を了えて下校した級友達が、堀岸の道を家路へ急ぐ姿が見え始めたので、幼児達に、「ジャまた、あしたな。」と言って別れた私は、何喰わぬ顔で、母の待つ家の玄関から「只今」と、声をかけて元気良く帰ったのであったが、その翌日からの私は、何ものかに魅せられたかのように、堀岸の道を左へ曲って土居の門の橋を渡るようになった。

 その日が、何時何時であったかと言うことは記憶に残って居ないのだが、いつものように西練兵場で幼児を相手に遊んだ私が、「只今」と玄関の土間へ駈け込んだ時に、その土間には大人の人が1人立って居て、応対に出た母が敷居越に正座をして、何ごとかを説明して居る所であった。


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