履 歴 稿 紫 影子
香川県編
第三の新居 7の7
第三の家での思い出としては、この外に次弟の義憲が窓から落ちて頭を負傷した事故があった。
次弟の出生を、父はその履歴稿に、
一、明治41年11月24日午後6時男子出生(三男)義憲と命名す。
産婆宮本ヒサヨ。と記録して居る。
次弟は、第一の新居で生まれたのだが、大きい頭の知能がとても優れた子供であった。
兄も私も、その知能の優れて居た点を面白がっては、よく揶揄って遊んだものであった。
それは、次弟が2歳の時のことであって、私達が第三の家に引越してから未だ間もない日の出来ごとであったが、或る日暮時に玄関の奥の細長い四畳間の西側に在った窓に、次弟を抱いた兄が、馬乗りになって遊んで居た時に、何かの拍子で平均を失った兄が、次弟の上に折重って窓外へ転落したのであったが、折悪く、兄の下になって落た弟の頭の所に拳大の石があって、その石にしたたか頭を打つけた弟は、そこに可成りの裂傷を負ったのであった。
その時の私は、まだ隣りの吉田さんの家で遊んで居たのだが、突然聞えて来た弟の泣き声が、あまりにも大きかったので、吉田さんのおばさんが驚いて、「どうしたんじゃろうか。あの泣声は普通の泣声と違うぜ。早う帰って見なさい」と私に言ったので、慌てて帰って見ると、四畳間の窓の所で、弟の頭の傷口を手拭で抑えた母がオロオロして居た。
驚いた私は「お母さん、義憲どうしたの」と、急込んで母に尋ねた。
すると「義潔と一緒に窓から落ちて、下にあった石で頭を切ったんだよ」と答えながらも母は必死になって右手の手拭で傷口を押えて居たが、その手拭は鮮血で真赤に染って居た。
私が四畳間へ駈込んだ時には、弟の大きな泣声は止んで居たが、未だヒッヒッと泣きじゃくって居た。
私は、そうした室内の光景に一瞬狼狽えた者であったが、其処に弟と一緒に転落したと言う兄の姿が見えないので、「お母さん、兄さんはどうしたの」と私は尋ねた。
すると、「薬を買いに行った」と答えた母が、「もう義潔が帰って来る頃だから、表へ行って見て来ておくれ」と私に言いつけたので、急いで私が玄関を出ようと、表の格子戸を開けた途端、私を突き飛ばすようにして、脱兎の勢いで兄が飛び込んで来た。
母は、兄が買って来た傷薬を適当な油紙へ延して早速弟の傷口に当ててやって、その上から繃帯を巻いたのだが、弟の傷は可成り深いようであった。
この時の傷痕は、今も弟の頭に三日月の形をして残って居るが、出血が多かった関係か、その後弟の知能は、それまでのような活発な成長振りでは無くなった。