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シリア騒乱と修羅の世界情勢

第三次世界大戦を阻止するブログです。

メーガン妃のポッドキャスト番組がSpotifyで首位を独占するも、視聴者からは疑問の声が

2022年09月06日 | 国際社会
セレブニュース
2022.09.05


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メーガン妃(41)がSpotifyと独占契約を交わしスタートしたポッドキャスト番組が、ランキングで1位を独占! しかし視聴者からは、ランキングが操作されているのではと疑問の声が上がっている。


イギリス王室を離脱し、アメリカを拠点に活動するメーガン妃(41)。2022年8月23日(現地時間)に配信をスタートしたSpotifyのポッドキャスト番組が視聴ランキングで首位を独占し、大きな話題に! しかし、一部の視聴者からは、SNSなどで「ランキングが操作されているのでは?」と疑問の声が上がっている。



Photo : Getty Images
メーガン妃のポッドキャスト番組『アーキタイプス』は、第1回目にテニス選手のセリーナ・ウィリアムズ(40)、第2回目にマライア・キャリー(53)と、豪華ゲストを迎えてスタート。


Photo : Getty Images

番組はSpotify独自のランキングである「トップポッドキャスト」で、人気ポッドキャスターのジョー・ローガン(55)などをおさえ、英語圏のすべてのランキングで首位を獲得した。


Photo:Getty Images

しかし、視聴者からはメーガン妃の首位獲得について疑問の声が。英メディア『Daily Mail Online』によると、Spotifyのもうひとつのランキングである「エピソード」のチャートでは、アメリカではマライアとの回が12位、セリーナとの回は25位。

それなのに“総合ランキング”という位置づけの「トップポッドキャスト」で1位なのはなぜなのか、Spotifyがランキング操作しているのでは、との声が続出しているようだ。


Photo:Getty Images

ちなみにSpotify公式サイトによると、「エピソード」のチャートは純粋にユニークリスナー数(訪問視聴者数)でランキングされているものである一方、「トップポッドキャスト」のランキングは「ファンが以前から聴いている番組や新人の番組など、全体的に最も人気のある番組を見つけることができる」「全体のフォロワー数と最近のユニークリスナー数の組み合わせで決定される」指標だとか。

つまり、視聴数以外にもフォロワー数の多さや注目度の高い新作であるということも考慮される可能性があるよう。


Photo:Getty Images
メーガン妃の番組は、1,800万ポンド(約25億2,000万円)という巨額の契約金で公開前から話題となっていただけに、視聴者の注目度も高い。

メーガン妃は番組のなかで、「(ヘンリー王子と交際を始めた当時)人生で初めて、人種について考えさせられた」「黒人として扱われた」と、王室の人種差別をほのめかす発言をして物議をかもしており、注目度は回を重ねるごとに上昇中。今後、番組でメーガン妃が何を語るのか、そしてランキングはどのように推移していくのか、引き続き注目したい。
 

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最終更新日:2022.09.06













エリザベス女王が暮らすウィンザー城の敷地内にあるアデレード・コテージは、かつてマーガレット王女の元恋人ピーター・タウンゼント大佐が住んでいた邸宅としても知られる。
2022年8月26日




Photo:Comic Relief/BBC Children in Need/Comic Relief via Getty Images

ウィリアム王子とキャサリン妃夫妻と3人の子どもたちが、ロンドンのケンジントン宮殿から引っ越すことが正式に発表された。新居となるのはイングランド南部のバークシャー州ウィンザーにある「アデレード・コテージ」。引越しの理由は子どもたちの学校のためで、夫妻はケンジントン宮殿と、イングランド東部ノーフォークにある別宅アンマー・ホールも維持する。

この秋、ジョージ王子、シャーロット王女、ルイ王子は、アデレード・コテージから車で15分のランブルックスクールに入学する予定だ。ある王室関係者が「ABC News」に語ったところによると、ケンブリッジ公爵夫妻は子どもたちにできるだけ普通の教育を受けさせたいと考えているという。また、アデレード・コテージは、女王が住むウィンザー城とも距離が近い。

アデレード・コテージの少しスキャンダラスな歴史。



かつてのアデレード・コテージ。
 Photo: W.Oldham, Eton/albumen print, 9.3 x 11.8 cm. ©Royal Collection Trust.
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ウィンザー・グレート・パークの敷地内にあるアデレード・コテージは、1831年に建築家のサー・ジェフリー・ワイアットヴィルによって建てられた。コテージには寝室が4つあるが、ウィリアム4世の妻であるアデレード王妃は当初、ティーハウスとして使っていた。ヴィクトリア女王の時代になるとゲストハウスとしても使用されるようになる。

1941年、アデレード・コテージはグレース・アンド・フェイバー・ホーム(女王が所有し、王室関係者やスタッフに貸し出す家)となった。最初の住人は、エリザベス女王の妹マーガレット王女との秘めた恋で有名なピーター・タウンゼント大佐の一家だ。コテージの住み心地について、タウンゼントは「フランス窓に囲まれた居間では、オーバーコートとスカーフで身を包まなければならないこともあった」と回顧録に綴っている。そして、2つのラジエーターしかないこの家で過ごす冬を「冷蔵庫のよう」と表現したが、夏については「とても快適だった」と回想。彼は、1952年までここで暮らした。

そんな歴史のあるアデレード・コテージは、ヴィクトリア女王やピーター・タウンゼント大佐が暮らした時代と比べると近代化されている。1955年にいくつかの改修がなされ、1990年代や2015年にも大規模なリノベーションが行われた。

Text: Elise Taylor
From VOGUE.COM
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メーガン妃は、Netflixの新作ドキュメンタリーでヘンリー王子とのラブストーリーを初めて明らかにするという。
2022年8月31日





Photo: Samir Hussein/WireImage

メーガン妃は、新作ドキュメンタリーでヘンリー王子ととのラブストーリーなどの今まで公にしていない人生の部分を初めて明らかにするという。数億円とも報じられるNetflixとの契約の一環として、新番組を夫妻で制作中だが、自宅にカメラを入れて一家の日常を追うリアリティ番組になるという噂を否定。『ザ・カット』のインタビューの中で、メーガン妃はこう答えている。

「私の人生において共有できていない部分、人々が見ることができていない部分は、私たちのラブストーリーです」「私たちが手がけているどのコンテンツやプロジェクトを見た時にも、人々がそのような感情を持ってくれることを願っています」

そして夫妻の「ラブストーリー」に関するドキュメンタリーを撮影中なのかと質問され、「おかしいことに、私はそれをひた隠しにしているわけではないんです。私は報道を読みません。だから何が明らかになっているのか知らないんです。(監督の)リズ・ガルバスが素晴らしいということは言えます。リズ・ガルバスは『Pearl(原題)』にも参加してくれました」と回答している。

メーガン妃は、タイムトラベルで歴史上重要な役割を果たした女性たちに会うことにより、自らの力に目覚める12歳の少女を描いたアニメ番組『Pearl(原題)』に着手していたが、Netflixは今年に入ってから同番組の制作中止を発表していた。

Text: Bangshowbiz
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メーガン妃が2019年に南アフリカを訪問中、息子アーチー君の寝室から火事が起きていたことを自身のポッドキャストで明かした。
2022年8月25日





Photo: Pool/Samir Hussein/WireImage

メーガン妃が、2019年に南アフリカを訪問中、息子アーチー君の寝室から火事が起きていたことを明かした。

メーガン妃とヘンリー王子が講演のためにニャンガ地区を訪れた際に発生し、アーチー君は当時生後4カ月で、スタッフが面倒を見ていたそうだ。

8月23日にSpotifyから配信されたポッドキャスト『アーキタイプス(Archetypes)』の1回目のエピソードで、セリーナ・ウィリアムズと対談したメーガン妃は、ショックのさなか公務を続けたと告白。

「公務が終わって車に乗ると、『あの家で火事がありました』って言われた。

赤ちゃんの部屋で火事が起きたって。今話してても信じられない。

たった1時間か2時間前に着いたばかりで。急いで戻ると、私たちがカナダからはるばる連れてきた素晴らしいベビーシッターのローレンが号泣していた」と回想している。

ローレンさんは滞在先の2階でアーチー君の昼寝の準備を終え、軽食をとろうとアーチー君とともに1階に行った後での出来事だったそうで、「彼女が階下に行っていた時間に子ども部屋のヒーターから火が発生したの。

煙探知機もなく、廊下から煙の臭いがすることを誰かが気づいて中に入り、消火した。

アーチーが眠る予定だった場所よ。私たちは戻って、もちろん母親として、そして誰もが泣き、動揺していた。

でも私達は何をしなければならかったと思う? また外に出て次の公務をすることだった」とメーガン妃は続けた。

「The Misconception of Ambition with Serena Williams」と題された同エピソードには、こう記されている。

「メーガンと唯一無二のセリーナ・ウィリアムズが、『野心的』とラベルを張られた女性たちが直面するダブルスタンダードや、そのことにより人生の別の側面に影響を及ぼす波及効果について語り合う。

画期的番組のプレミアには、職場での性差についての第一人者ローラ・クレイ博士も登場する」

メーガン妃とヘンリー王子は、約2年前に自身の会社アーチウェル・オーディオを通してSpotifyと契約、同年に配信したポッドキャスト番組『Holiday Special』にはジェームズ・コーデンやエルトン・ジョンらがゲスト出演していた。

Text: Bangshowbiz
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ヘンリー王子とメーガン妃のドキュメンタリー番組が、Netflixで「ザ・クラウン」新シーズンに合わせて配信開始となるようだ。
2022年7月21日





Photo: Michael M. Santiago/Getty Images

ヘンリー王子とメーガン妃のドキュメンタリー番組が、「ザ・クラウン」の新シーズンに合わせて配信開始となるようだ。Netflixは、両番組がヘンリー王子の自叙伝の影に隠れないように配信のタイミングに気を使っているという。

ある関係者が「ページ・シックス」にこう話す。「いろいろな調整が必要で、さまざま要因が重なっています。

Netflixはきちんとした時期を確保し、先を越されないよう配慮しています」

「(上層部はヘンリー王子の)自伝本が出るのを知っていますし、シリーズを今年配信したいと思っているのもそのためです。これ以上の延期はしたくないのです」

ヘンリー王子とメーガン妃は昨年にNetflixと巨額の契約を締結、ドキュメンタリー番組の製作に1年以上費やしているという。

2人のドキュメンタリーに関して、上層部は「ザ・クラウン」シーズン5配信開始直後のタイミングを目指していると言われている。

ちなみに以前「ページ・シックス」は、夫妻がドキュメンタリーの配信を2023年から開始したい意向であると報じていた。

「ザ・クラウン」シーズン5では、エリザベス女王を『ハリー・ポッター』シリーズのドローレス・アンブリッジ役で知られるイメルダ・スタウントン、ダイアナ元妃をエリザベス・デビッキが演じる。

一方、ヘンリー王子の自伝本はJ.R. モーリンガーが執筆し、王子の幼少期や従軍時代ほか、英王室にとって耳の痛い話も含まれるとされている。

Text: Bangshowbiz
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ヘンリー王子、「偽善者すぎ」「もうめちゃくちゃ」と大炎上! メーガン夫人の新番組も不評

2022年09月06日 | 国際社会
気候変動を心配しているのか、加速させているのか……
2022/08/30 19:53堀川樹里(ほりかわ・じゅり)
  • 海外


「気候変動って理解してる?」と揶揄されたヘンリー王子(写真/Getty Imagesより)
 今年7月、国連で行ったスピーチで「気候変動が世界中に大惨事を引き起こしている」と警告したところ、「プライベートジェットに乗っているくせに」とネット上で叩かれたヘンリー王子だが、先週、チャリティーイベントに参加するため、またもや同機を利用していたことが判明。

 目的地に到着後、迎えの車が来るまでプライベートジェットを30分もアイドリングさせて待っていたと報じられ、「これ以上、気候変動を語るな」と大炎上している。



 8月25日にコロラド州のアスペンで開催された「ISPS Handa Polo Cup」に出席し、お得意のポロを披露したヘンリー王子。このイベントは、貧困やHIV/エイズに苦しむ南アフリカの子どもたちや若者を支援するためのチャリティ・ポロ・イベント。ヘンリー王子が、アフリカのレソト王室のセーイソ王子と共に2006年に立ち上げた慈善団体が主催したもので、昨年は350万ドル(約4億8,000万円)もの寄付金を集めた。



 英大手タブロイド紙「デイリー・メール」によると、ヘンリー王子はこのイベントに出席するため、カリフォルニア州サンタバーバラにある邸宅から、アウディの電気自動車で近くの飛行場に向かい、900万ドル(約12億4,800万円)する高級プライベートジェット機ボンバルディア チャレンジャー600に搭乗。

 目的地の飛行場に到着してからは、ポロの荷物を積んだ車が到着するまでの30分もの間、快適な空調を効かせたアイドリング状態の機内で待っていた。なお、その迎えの車も二酸化炭素を大量に排出する、ガソリン仕様のレンジローバーだった。



 問題のプライベートジェットは、ヘンリー王子の友人で、家族ぐるみでチャールズス皇太子やウィリアム王子とも交流のある、趣味がポロだというアメリカ人実業家マーク・ガンジーが所有するもの。米「Foxニュース」によると、乗ることが決まっていたほかの出席者が王子を誘って同乗したらしく、帰路は民間航空機を利用していたと伝えている。



 6月に家族を連れてプラチナ・ジュビリーに出席するためイギリスに一時帰国した際にも、プライベートジェットを利用したヘンリー王子。アメリカのサンタバーバラ空港からイギリスのファーンボロー空港まで移動する間、プライベート・ジェットから排出される二酸化炭素の量は実に60トンにも上るという。


ヘンリー王子の反論も響かない……

 パリ協定は、一人当たりの二酸化炭素排出量を年間2.1トン以下にすべきだとしているが、ヘンリー王子一家が今年排出した二酸化炭素の量はすでに72トンだと「デイリー・メール」は批判的に伝えている。



 この報道に、ネット上は「プライベートジェットに乗るなとは言わないから、これ以上気候変動を語るな」「偽善者すぎて嫌気が差す」「自分ができないことを他人に押し付けるな」と大炎上。

 「そもそも気候変動とは何かを理解してないんじゃないか」「電気自動車に乗ったかと思えば、燃費の悪い車で移動するとか、もうめちゃくちゃ」「庶民の何百倍もの二酸化炭素を排出しまくっている上流階級セレブには、ぜひ炭素税を支払っていただきたい」といった意見なども飛び出すなど、お祭り騒ぎとなっている。

 気候変動を訴える割には、タクシーに乗るような感覚でプライベートジェットに乗る──と、批判を受けてきたヘンリー王子は、「セキュリティのためなどやむを得ない理由でプライベートジェットを利用することはあるが、これまでの人生では99%民間航空機を利用している」「自分が排出した二酸化炭素排出量は必ず相殺してゼロになるように努めている」と主張。


メーガン夫人のポッドキャスト番組も不評

 セルフブランディングがうまくいっておらず、ファンも離れつつあるようで、「夫妻の子どもたちもバッシングの的になりそうで気の毒」だと心配する声も上がっている。



 一方、20年に番組制作の契約をした動画配信サービスのNetflixや音楽ストリーミングサービスのSpotifyを使って、“新たなロイヤルブランド”を確立しようと奮闘中のヘンリー王子とメーガン夫人。

 8月23日には、メーガン夫人が単独で司会を務めるSpotifyの新作ポッドキャスト番組『Archetypes』がスタートし、「最も聞かれたポッドキャスト番組」になったと報じられた。

 しかし、ネット上では「ゲストにしゃべる隙を与えない自分語り番組」「王室には短期間しかいなかったのに、王室への文句の量がすごい」などと不評を買っているようだ。「ナンバーワンだとか報道しているけど、みんな笑いのネタにするために聞いているだけ」といった失笑も広がっている。



 ヘンリー王子夫妻は、9月に英国マンチェスターで開催される次世代リーダー・グローバル・サミット「One Young World Summit」や、ドイツで開催されるインヴィクタスゲームの大会「One Year to Go」に出席すると発表しているが、どのような移動手段を使うのかに注目が集まっている。


 2017年11月にメーガン夫人と婚約してからというもの、英メディアや英国民から叩かれまくっているヘンリー王子。学生時代から王子らしからぬ素行がマスコミに騒がれていたものの...

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堀川樹里(ほりかわ・じゅり)
6歳で『空飛ぶ鉄腕美女ワンダーウーマン』にハマった筋金入りの海外ドラマ・ジャンキー。現在、フリーランスライターとして海外ドラマを中心に海外エンターテイメントに関する記事を公式サイトや雑誌等で執筆、翻訳。海外在住歴25年以上。













2022/09/02 21:54堀川樹里(ほりかわ・じゅり)
  • 海外


王室批判に留まらず、やりたい放題のメーガン夫人(写真/Getty Imagesより)


 単独で司会を務めるSpotifyのポッドキャスト番組『アーキタイプス』の配信開始を記念し、米カルチャー誌「ザ カット」で独占インタビューを受けたメーガン夫人。その発言をめぐり、「王室に嫌われるのは、あなたの性格に難があるから」「英王室への不平不満を、いつまで言い続けるのか」と批判する声が集まっている。

 メディアのインタビューやポッドキャストなどで、英王室メンバーとして活動していたときに起きた「差別的な嫌なこと」を語りまくり、アンチから「ヴィクティム(被害者)プリンセス」と陰口を叩かれているメーガン夫人。そんなメーガン夫人の「ザ カット」での最新インタビューの内容が大炎上している。

 1,465万ドル(約20億円)するカリフォルニア州サンタバーバラ郡モンテシトの大豪邸でインタビューを受けたメーガン夫人は、「内見した時、この家の庭にある2本のヤシの木を見たヘンリーが『下がつながっている。まるで僕たちだ』と言って。まだ家の中を見てなかったけど、『絶対にここだわ』って決めたの」と、上流セレブらしい浮世離れしたエピソードを紹介。

 インタビュー冒頭では、「我が子の写真であっても、王族メンバーとして公開する場合は、まずロイヤルロタ(英王室記者クラブ)に渡さなければならないの」と手順について触れ、「私の子どもを愛する人たちに見せたいのに、なぜニガー呼ばわりする(イギリスのメディアの)人たちに先に見せなきゃならないのか」と、ニガーという蔑称に敏感な黒人の怒りをあおるような発言が飛び出した。

 イギリスのタブロイド紙は、王子と自分が国民の税金を使っているから好きなように攻撃してよいと思っているとも批判した後、この攻撃から逃れるため、カナダ、ニュージランド、南アフリカなどか、どこでもいいからイギリス連邦加盟国に移住したかったが、「王室が許してくれなかった」「ほかのメンバーは好きなことをしていたのに」と、王室を批判。

 王室と自分がうまくいかなかった理由は、「黒人」というより「アメリカ人」だったからだという見解も示し、「周囲にたくさんの質問を浴びせたり、自分でコントロールできないことには関与しない」など、平均的なアメリカ人女性だから嫌われたのだと語った。

 こうした発言のオンパレードに、ネット上は「王室に何をしてほしいのかよくわからない。英王室への不平不満は止まらないだろう」「新たな暴露があるかもと注目されているだけなのに、恐ろしいほどの勘違い女」「新しいネタが欲しいから、王室が自分を攻撃するように挑発しているように見える」などと大炎上。

 米紙「ニューヨーク・ポスト」は、いつもと同じ愚痴ばかりの中身のないインタビューだとして、メーガン夫人を美少女コンテストで闘争心をむき出しにする、気の強いわがままな子どものようだと痛烈に批判した。


メーガン夫人のエピソードに南アフリカの人たちが激怒

 そんなメーガン夫人は、自身のポッドキャスト番組の1話目で、19年にヘンリー王子と、長男アーチーと共に南アフリカのニャンガ地区を訪問した際、子ども用寝室のヒーターから出火して火事が起きたことを告白。

「火災報知器はなかったの。アーチーは(火事が発生した時、そこにいなかったけれど)、本来その部屋に寝ててもおかしくなかった。私たちみんな動揺して泣き震えたわ」「でも『公務に行け』って。私、ありえないって思って。

『何が起きたのか説明(してキャンセル)できないの?』って言ったわ」と振り返った。

 王室が王族メンバーの精神状態を無視することを強調したかったと思われるが、これに南アフリカの人たちは「こんなひどい国に行かされ、したくもない公務をさせられたと言いたいのか!」「南アフリカをバカにしているのか!」と大激怒。

 動物を追い払う時に発する「シッ!」という意味の「voetsek」という単語を使った「#voetsekMeghan」をつけてTwitterでメーガンを批判し、ハッシュタグはたちまちトレンド入りした。

 そんな中、メーガン夫人が「ザ カット」のインタビューで、“自分は南アフリカの人々から祝福される特別な存在”だといわんばかりのエピソードを話し、火に油を注ぐことに。



南アフリカ元大統領の孫もメーガンに嫌悪感のコメント発表

 19年に行われた映画『ライオン・キング』のロンドンプレミア上映会で、南アフリカ出身のキャストから「まるで光を見るような、まぶしそうなまなざし」で見られ、「あなたが王室のメンバーと結婚した時、私たちは(ネルソン・)マンデラが刑務所から釈放された時と同じような喜びを分かち合った」と打ち明けられたとメーガン夫人は発言。

 南アフリカ人にとっての自分は、マンデラのように祝福される存在であるという話に、同国の人々から「マンデラと自分が同レベルだと思っているのか!」「厚顔無恥」だと批判が噴出している。

 さらには、マンデラ元大統領の孫の一人、マンドラ・マンデラも嫌悪感をむき出しするコメントを発表。「350年間の植民地主義、60年間の残酷なアパルトヘイトからの解放を成し遂げて祝福された」祖父と、白人の王子様と結婚しただけの彼女では比べものにならないと一蹴した。

 『ライオン・キング』で唯一の南アフリカ出身キャストだったジョン・カニも、英紙「デイリー・メール」の取材に対して、そんな発言をした覚えがないどころか、ロンドン上映会にも出席していないと証言。「困惑している」「彼女の結婚は南アフリカでは大した話題にはならなかったし」と話している。

 この『ライオン・キング』におけるエピソードが事実ではないとなると、これまで繰り広げてきた王室批判も作り話である可能性が出てくる。

メーガン夫人のこうした性格についても、「だから王室は『人種差別はしません』とだけ言い、あとは何も言わないのか」「メーガン夫人は確実にソシオパス」「彼女の虚言がどこまでエスカレートするのか、心配になってきた」と恐れる声も上がっている。


マライア・キャリーもメーガン夫人に「しらばっくれないでくれる?」

 そんな自身のポッドキャスト番組の2話目は、ゲストに“白人と黒人のミックス”という共通点があるマライア・キャリーが登場。

 メーガン夫人がミックスのアイデンティティについて、「私たちは肌の色が明るいミックスだから、(アメリカでは)黒人としても白人としても扱われないわよね」「だからヘンリーと交際を始めた時、初めて自分は黒人なんだって人種を考えることになった」と話すと、一方でマライアは芸能活動を始めた初期から「ミックスでいいじゃんって思うけど、(白人、黒人)どっちなのか選びたい人が多い」と感じていたとコメント。

 また、「私はディーバではない」と言うメーガン夫人に対して、「あなたもまさに“ディーヴァ”って感じの時があるわよ。しらばっくれないでくれる?」と反論。これにはメーガン夫人も面食らったようで、「一体どんなゴシップを読んで、そんな誤解をしたのかしらと焦った」「でも外見的な褒め言葉なんだって気がついた」とナレーションで必死に説明。「ザ カット」のインタビューで不愉快な気分にさせられた人たちも、「マライアのおかげで少しスッキリした」と感じたようだ。

 雑誌のインタビューにはヘンリー王子が飛び入りで参加し、「何かをすれば批判され、何もしなければそれもまた批判される」とコメント。しかし、王室相手に被害者ヅラを続けることや、都合の良いようにロイヤルブランドを使って金稼ぎするのは、子どもたちのためにもやめるべきではないかという意見も少なくない。

 話せば話すほど炎上するメーガン夫人だが、とりあえず『ライオン・キング』の件をどう釈明するのかに注目が集まっている。



堀川樹里(ほりかわ・じゅり)
6歳で『空飛ぶ鉄腕美女ワンダーウーマン』にハマった筋金入りの海外ドラマ・ジャンキー。現在、フリーランスライターとして海外ドラマを中心に海外エンターテイメントに関する記事を公式サイトや雑誌等で執筆、翻訳。海外在住歴25年以上。














「ゴルバチョフって奴は分かりにくい男だよ」──「敗軍の将」の遺産とは?

2022年09月06日 | 国際社会

Gorbachev's Disputed Legacy
2022年9月5日(月)13時27分
ウラジスラフ・ズボーク(歴史学者)


党書記長に就任した当初は経験不足を懸念する声も小さくなかった BRYN COLTON/GETTY IMAGES

<西側のカモ、それとも腐敗した全体主義から解放した偉大な政治家か? 生い立ちから理想に燃えた時代、ソ連邦崩壊、ノーベル平和賞、愛妻ライサの死、そしてNATO拡大を批判した晩年>

ミハイル・ゴルバチョフは8月30日、長い闘病の末に91歳で死去したとロシアのメディアが伝えた。悲劇的で陰鬱な血に染まったロシアの歴史において、その存在は数少ない希望の灯だった。

最悪の時期でさえユーモアを忘れず、楽天的な笑顔で周囲を和ませた。政治に情熱を傾けたが、自身のエゴのために権力の座にしがみつくことは潔しとしなかった。

旧ソ連のトップダウン方式の経済を改革し、統治の透明性を高め、自由と人権を拡大するため、ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(公開)の旗を振ったのは、こうした資質のなせる業だ。最大の偉業である冷戦の平和的な終結を実現する上でも、こうした資質が役立っただろう。

しかしロシア史における位置付けはそう単純ではなく、今も確定していない。

ロシアの民族主義者や旧秩序の熱烈な擁護者たちは、ソ連崩壊時の指導者だった彼を西側のカモ、あるいは裏切り者と見なしている。

その他のロシア人や旧ソ連を構成した共和国の人々は、腐敗した全体主義のくびきを解いてくれた大局的な視座を持つ政治家として高く評価している。本人も毀誉褒貶の激しさを意識してか、伝記作家のウィリアム・トーブマンに自虐的なジョークを飛ばしたことがある。

いわく「ゴルバチョフって奴は何とも分かりにくい男だよ」。

時代の申し子だったことは間違いない。両親はロシア人とウクライナ人の農民。当時はまだ革命前のインテリゲンチャ(知識階級)が教師を務めていた学校で高等教育を受け、「大祖国戦争(第2次大戦中の独ソ戦)」の勝利の興奮冷めやらぬ時期に大人になった。

ゴルバチョフ家も同時代のロシア人の例に漏れず、戦後の荒廃、飢餓、スターリン政権下の恐怖支配に耐えなければならなかったが、戦争を生き延びたことを喜び、未来に希望を抱いていた。

後に妻となるライサとは、モスクワ国立大学の寮で出会った。それは独裁者として知られたヨシフ・スターリンが死去する前年のこと。当時ライサは哲学を学んでいた。ゴルバチョフの政治生活を通じて、彼女はなくてはならない心の友となり、ライバルや政敵に囲まれた彼が常に助言を求める良き相談相手となった。



母方のウクライナ人の祖父母と(1937年頃) APIC/GETTY IMAGES

彼の貧しい生い立ちでは帝王学とは縁がなく、巨大な帝国を統治し改革する遠大な事業に取り組む準備はほとんどできていなかった。北カフカスの寒村出身の農民である彼は、主に農業事業を手掛けて共産党内で頭角を現した。そんな折、旧ソ連の情報機関KGBのトップだったユーリー・アンドロポフとたまたま知り合い、目をかけてもらえるようになった。

ソ連の最高指導者である共産党書記長の座に就いたアンドロポフはゴルバチョフを後継者にするつもりだった。だがゴルバチョフが外交や国防、経済や財政を学ぶ前にアンドロポフは死去。知識と経験に欠ける彼に代わって、コンスタンチン・チェルネンコが書記長に就任した。だがそのチェルネンコも13カ月後に死去し、準備不足のゴルバチョフが重責を担うことになる。

1985年3月、共産党政治局が形式的な投票でゴルバチョフを書記長の座に据える前夜、彼は妻ライサと散歩に出た。

「本当にやるつもりなの」。ライサが詰め寄ると、彼はしっかりとうなずいたと伝記作家は伝える。悪化する一方のソ連経済、腐り切った統治システム。「こんな状態を放置するわけにはいかないんだ」と断言した、と。

「核カード」に頼らず

ゴルバチョフは共産主義の理念とソ連の現実のギャップに気付いていたが、当初は荒療治をせずとも漸進的な改善で埋められると思っていた。それについて彼は後年、こう弁明している。

「長年目隠しされ鎖でつながれていたら、マインドコントロールは簡単には解けないからね」

理想主義とあふれる熱意で職務に取りかかったゴルバチョフは、就任4年目に大胆な経済・政治改革と憲法改正を打ち出した。

だが任期の最後の2年間には大胆な改革と大幅な後退の間を行きつ戻りつしているようだった。いや、ただ優柔不断になっていただけかもしれない。本人に言わせると、あまりに急速に改革を進めると内戦が起きる恐れがあり、慎重にならざるを得なかったというが......。

共産党の怪物じみた政治機構の中にあって彼ほど功なり名を遂げた人物が人間らしい感性を保っていたことに首をかしげる歴史家もいる。

ゴルバチョフは若き日に好んで詩を読み、芸術全般に憧れを抱いていた。お気に入りのラテン語の格言はドゥム・スピーロー・スペーロー(私は生きている限り、希望を抱く)だ。

ロシア人の例に漏れず、口汚い罵り言葉をよく使うが、酒に溺れることはなく、家族を愛する良き夫、良き父だった。休暇先にはいつも文学、哲学、歴史の本を何冊も携えて行き、辛辣なジョークを飛ばし、よく笑った。



右からライサ夫人、サッチャー英首相と(87年)。肩書はいずれも当時 BRYN COLTON/GETTY IMAGES

ゴルバチョフは書記長就任当初、革命の父ウラジーミル・レーニンを手本にしていた。レーニンの功績を極端に美化し、民主主義的な理念の持ち主と見なしていた。スターリンは反面教師だ。ゴルバチョフは恐怖と暴力による支配というスターリンのレガシーを葬り去ろうとした。

ペレストロイカの道半ばで、一党独裁の廃止を決めたゴルバチョフは欧州型の社会民主主義者となった。だがソ連という複雑な大国を、その底流にある権威主義的な手法に頼らず、共産党なしで統治する方法を見いだせなかった。

西側諸国に旅するのが好きで、西側の指導者との対話が好きだった。在任中の口癖は「試しにやってみよう」「やらなければ分からない」「合意が必要だ」だった。「合意形成」をはじめ、彼が政治局に持ち込んだ西側のフレーズは数多い。それらはロシア人の日常会話にも入り込んだ。

ゴルバチョフが「合意形成」で重視した手法は長い演説と、理論を語る多くのパンフレットで、どちらも法令より好んで用いた。彼の話をくどいと感じる人も多かったが、いつ終わるとも知れない独白は、問題を声に出しながら考え、あらゆる側面から評価しているのだと言われた。

しかし、ソ連が抱える多くの問題には痛みを伴う解決策しかなく、ゴルバチョフは次第に話し合いと理論武装で行動を遅らせるようになった。その統治スタイルは、国内の批判派は言うまでもなく、西側のパートナーからも風変わりと見なされた。

経済では国営企業の「集合体」に多くの自律性と利益の分配を認める一方で、失業と不平等を恐れ、私有財産と市場改革を認めなかった。政治では、ソ連最高会議に代わる最高国家権力機関として問題の多い代議員制度をつくったが、共産党の権力に代わる強力な行政府はつくれなかった。

西側の影響を受けてあまりに早く、あまりに大胆に国を開放したことは、権威主義的な伝統が根強い社会に混乱を招いたと非難された。

ソ連の経済的・社会的危機が深刻化するにつれて、軍や治安部隊を使って帝国を維持することを望む声が高まったが、ゴルバチョフは拒んだ。従軍経験がないことは、彼の経歴と世代からすると異例だった。軍の問題には関心が薄く、軍幹部に「合理的十分性」の方針を導入させ、兵器の無制限の蓄積をやめさせた。

核兵器の力を嫌ったゴルバチョフは、ソ連の指導者として初めて核ミサイルを廃棄した。しかし、アメリカが宇宙から攻撃してソ連を武装解除させるのではないかと、長い間、本気で恐れていた。



右からブッシュ米副大統領、レーガン米大統領と(85年)。肩書はいずれも当時 APIC/GETTY IMAGES

歴史の審判を受け入れる

冷戦終結のパートナーであるロナルド・レーガン米大統領はゴルバチョフの真摯な姿勢に打たれ、後に友人となった。後任のジョージ・ブッシュは当初は不信感を抱いていたが、その後は米ソの交渉を進め、ソ連軍を中欧から撤退させた。

ゴルバチョフは「統合された自由なヨーロッパ」の理念に賛同し、ソ連を含む「欧州共通の家(共同体)」の建設さえ提案した。ベルリンの壁が崩壊し、ソ連圏が雪解けのように消えていくことを、歴史の審判として受け入れた。

そのとき彼はソ連と世界の新しい道を切り開き、同時に歴史は彼と彼のレトリックを置き去りにした。ソ連の終焉を告げる鐘が鳴り響いていた。

ドイツはNATOの枠組みの中で統一を目指して一気に動きだし、ゴルバチョフは苦境に立たされた。そんなときにジェームズ・ベーカー米国務長官(当時)が、「NATOは1インチたりとも東に拡大しない」と口約束をした。ゴルバチョフは書面などで確約を取ることはせず、この「約束」は後年、ロシアとNATOの間で大きな論争を巻き起こすことになる。

90年秋、ゴルバチョフは東西冷戦を終結させた功績などを評価されてノーベル平和賞を受賞した。

彼はソ連の経済および政治体制を大幅に自由化したが、多くの市民と同じように、資本主義市場に対する恐怖心や、失業も民間企業も知らない低所得者層に資本主義市場がもたらすものに対する不安も抱えていた。

結局のところ、ゴルバチョフの改革は発展し得る市場経済を創出することなく、古い体制を不安定にした。ただでさえ悲惨だったソ連の生活水準は、さらに低下した。

こうした状況を、本人は一時的な困難だと軽視した。しかし、最後には、ゴルバチョフの権威は経済不況の餌食になった。頭角を現した政治局の異端児ボリス・エリツィンは「ペレストロイカの失敗」からの脱却を掲げ、分権化されたソビエト連邦の中でロシアの完全な主権を主張した。


ソビエト連邦が空っぽに

91年8月、クリミアの別荘で休暇を過ごしていたゴルバチョフは軟禁状態に置かれ、副大統領や国防大臣、KGB議長らのグループが、大統領は「健康上の理由で職務遂行不能になった」と発表した。

このときゴルバチョフは、1905年のロシア革命の収束に貢献しながら暗殺された帝政ロシアの首相ピョートル・ストルイピンの運命を描いた歴史書を読んでいた。傍らにはアメリカで刊行されたスターリンの伝記もあった。

革命を手なずけようとした人物と帝国を築いた人物を選んだことは、冷酷に国を支配しようとした2人に対する強い関心を物語っていた。

3日間に及んだ事実上の監禁は、彼と妻ライサにとって非常につらいものだった。首謀者グループはモスクワで市民の血が流れることをためらい、クーデターは失敗に終わった。

しかし、ゴルバチョフがモスクワに戻ると、既にエリツィンが実権を握っていた。残された任期中は2人で国を運営しようと妥協点を探ったが、エリツィンは彼をぞんざいに追い払った。

粗野な権力を嫌悪したゴルバチョフは、ソ連邦を構成する15共和国の指導者などへの権限の委譲を進めた。そして気が付けば、空っぽのソビエト連邦の支配者になっていたが、91年12月25日に辞任するまで威厳を保ち続けた。ソ連の核兵器は、初代ロシア連邦大統領に就任したエリツィンに引き継がれた。

ゴルバチョフがもたらした新しい自由を評価する同胞は多かったが、それ以上に多くの同胞が、経済の混乱とソビエト帝国の崩壊を招いたことを非難した。

「ゴルバチョフを殺したい人の列は、ウオッカを買う列より長かった」という冗談を自ら好んだ。それでも辞任するまで、変化と不安定が渦巻く奈落の底でソ連を導き、連邦が崩壊することなく改革できると、かたくなに信じていた。

ロシアの元指導者としては1世紀ぶりに、引退後も威厳を保って暮らした。講演や広告出演で収入を得て財団を設立し、そこでは側近や歴史家、政治学者らが彼の改革の教訓を議論した。ロシア政界への復帰も試みたが、96年の大統領選の得票率はわずか0.5%だった。

99年にライサが死んだ後は寂しさを募らせた。晩年は欧米の対ロ政策やNATOの拡大を批判するようになったが、民主主義と、人権と、武力不行使の原則にはどこまでも忠実だった。
From Foreign Policy Magazine

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「ゴルバチョフって奴は分かりにくい男だよ」──「敗軍の将」の遺産とは?

2022年09月06日 | 国際社会
9/5(月) 18:13配信


<西側のカモ、それとも腐敗した全体主義から解放した偉大な政治家か? 生い立ちから理想に燃えた時代、ソ連邦崩壊、ノーベル平和賞、愛妻ライサの死、そしてNATO拡大を批判した晩年>

党書記長に就任した当初は経験不足を懸念する声も小さくなかった BRYN COLTON/GETTY IMAGES


ミハイル・ゴルバチョフは8月30日、長い闘病の末に91歳で死去したとロシアのメディアが伝えた。悲劇的で陰鬱な血に染まったロシアの歴史において、その存在は数少ない希望の灯だった。 


最悪の時期でさえユーモアを忘れず、楽天的な笑顔で周囲を和ませた。政治に情熱を傾けたが、自身のエゴのために権力の座にしがみつくことは潔しとしなかった。

 旧ソ連のトップダウン方式の経済を改革し、統治の透明性を高め、自由と人権を拡大するため、ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(公開)の旗を振ったのは、こうした資質のなせる業だ。最大の偉業である冷戦の平和的な終結を実現する上でも、こうした資質が役立っただろう。 

しかしロシア史における位置付けはそう単純ではなく、今も確定していない。

ロシアの民族主義者や旧秩序の熱烈な擁護者たちは、ソ連崩壊時の指導者だった彼を西側のカモ、あるいは裏切り者と見なしている。 その他のロシア人や旧ソ連を構成した共和国の人々は、腐敗した全体主義のくびきを解いてくれた大局的な視座を持つ政治家として高く評価している。

本人も毀誉褒貶の激しさを意識してか、伝記作家のウィリアム・トーブマンに自虐的なジョークを飛ばしたことがある。 いわく「ゴルバチョフって奴は何とも分かりにくい男だよ」。

 時代の申し子だったことは間違いない。両親はロシア人とウクライナ人の農民。当時はまだ革命前のインテリゲンチャ(知識階級)が教師を務めていた学校で高等教育を受け、「大祖国戦争(第2次大戦中の独ソ戦)」の勝利の興奮冷めやらぬ時期に大人になった。 

ゴルバチョフ家も同時代のロシア人の例に漏れず、戦後の荒廃、飢餓、スターリン政権下の恐怖支配に耐えなければならなかったが、戦争を生き延びたことを喜び、未来に希望を抱いていた。

 後に妻となるライサとは、モスクワ国立大学の寮で出会った。それは独裁者として知られたヨシフ・スターリンが死去する前年のこと。当時ライサは哲学を学んでいた。ゴルバチョフの政治生活を通じて、彼女はなくてはならない心の友となり、ライバルや政敵に囲まれた彼が常に助言を求める良き相談相手となった。 

彼の貧しい生い立ちでは帝王学とは縁がなく、巨大な帝国を統治し改革する遠大な事業に取り組む準備はほとんどできていなかった。北カフカスの寒村出身の農民である彼は、主に農業事業を手掛けて共産党内で頭角を現した。そんな折、旧ソ連の情報機関KGBのトップだったユーリー・アンドロポフとたまたま知り合い、目をかけてもらえるようになった。

 ソ連の最高指導者である共産党書記長の座に就いたアンドロポフはゴルバチョフを後継者にするつもりだった。だがゴルバチョフが外交や国防、経済や財政を学ぶ前にアンドロポフは死去。知識と経験に欠ける彼に代わって、コンスタンチン・チェルネンコが書記長に就任した。だがそのチェルネンコも13カ月後に死去し、準備不足のゴルバチョフが重責を担うことになる。

 1985年3月、共産党政治局が形式的な投票でゴルバチョフを書記長の座に据える前夜、彼は妻ライサと散歩に出た。 「本当にやるつもりなの」。ライサが詰め寄ると、彼はしっかりとうなずいたと伝記作家は伝える。

悪化する一方のソ連経済、腐り切った統治システム。「こんな状態を放置するわけにはいかないんだ」と断言した、と。



「核カード」に頼らず

ゴルバチョフは共産主義の理念とソ連の現実のギャップに気付いていたが、当初は荒療治をせずとも漸進的な改善で埋められると思っていた。それについて彼は後年、こう弁明している。

 「長年目隠しされ鎖でつながれていたら、マインドコントロールは簡単には解けないからね」

 理想主義とあふれる熱意で職務に取りかかったゴルバチョフは、就任4年目に大胆な経済・政治改革と憲法改正を打ち出した。

 だが任期の最後の2年間には大胆な改革と大幅な後退の間を行きつ戻りつしているようだった。いや、ただ優柔不断になっていただけかもしれない。本人に言わせると、あまりに急速に改革を進めると内戦が起きる恐れがあり、慎重にならざるを得なかったというが......。

 共産党の怪物じみた政治機構の中にあって彼ほど功なり名を遂げた人物が人間らしい感性を保っていたことに首をかしげる歴史家もいる。

 ゴルバチョフは若き日に好んで詩を読み、芸術全般に憧れを抱いていた。お気に入りのラテン語の格言はドゥム・スピーロー・スペーロー(私は生きている限り、希望を抱く)だ。

 ロシア人の例に漏れず、口汚い罵り言葉をよく使うが、酒に溺れることはなく、家族を愛する良き夫、良き父だった。休暇先にはいつも文学、哲学、歴史の本を何冊も携えて行き、辛辣なジョークを飛ばし、よく笑った。

 ゴルバチョフは書記長就任当初、革命の父ウラジーミル・レーニンを手本にしていた。レーニンの功績を極端に美化し、民主主義的な理念の持ち主と見なしていた。スターリンは反面教師だ。ゴルバチョフは恐怖と暴力による支配というスターリンのレガシーを葬り去ろうとした。

 ペレストロイカの道半ばで、一党独裁の廃止を決めたゴルバチョフは欧州型の社会民主主義者となった。だがソ連という複雑な大国を、その底流にある権威主義的な手法に頼らず、共産党なしで統治する方法を見いだせなかった。

 西側諸国に旅するのが好きで、西側の指導者との対話が好きだった。在任中の口癖は「試しにやってみよう」「やらなければ分からない」「合意が必要だ」だった。「合意形成」をはじめ、彼が政治局に持ち込んだ西側のフレーズは数多い。それらはロシア人の日常会話にも入り込んだ。

 ゴルバチョフが「合意形成」で重視した手法は長い演説と、理論を語る多くのパンフレットで、どちらも法令より好んで用いた。彼の話をくどいと感じる人も多かったが、いつ終わるとも知れない独白は、問題を声に出しながら考え、あらゆる側面から評価しているのだと言われた。

 しかし、ソ連が抱える多くの問題には痛みを伴う解決策しかなく、ゴルバチョフは次第に話し合いと理論武装で行動を遅らせるようになった。その統治スタイルは、国内の批判派は言うまでもなく、西側のパートナーからも風変わりと見なされた。

 経済では国営企業の「集合体」に多くの自律性と利益の分配を認める一方で、失業と不平等を恐れ、私有財産と市場改革を認めなかった。政治では、ソ連最高会議に代わる最高国家権力機関として問題の多い代議員制度をつくったが、共産党の権力に代わる強力な行政府はつくれなかった。

 西側の影響を受けてあまりに早く、あまりに大胆に国を開放したことは、権威主義的な伝統が根強い社会に混乱を招いたと非難された。

 ソ連の経済的・社会的危機が深刻化するにつれて、軍や治安部隊を使って帝国を維持することを望む声が高まったが、ゴルバチョフは拒んだ。従軍経験がないことは、彼の経歴と世代からすると異例だった。軍の問題には関心が薄く、軍幹部に「合理的十分性」の方針を導入させ、兵器の無制限の蓄積をやめさせた。 

核兵器の力を嫌ったゴルバチョフは、ソ連の指導者として初めて核ミサイルを廃棄した。しかし、アメリカが宇宙から攻撃してソ連を武装解除させるのではないかと、長い間、本気で恐れていた。



歴史の審判を受け入れる


冷戦終結のパートナーであるロナルド・レーガン米大統領はゴルバチョフの真摯な姿勢に打たれ、後に友人となった。後任のジョージ・ブッシュは当初は不信感を抱いていたが、その後は米ソの交渉を進め、ソ連軍を中欧から撤退させた。

 ゴルバチョフは「統合された自由なヨーロッパ」の理念に賛同し、ソ連を含む「欧州共通の家(共同体)」の建設さえ提案した。ベルリンの壁が崩壊し、ソ連圏が雪解けのように消えていくことを、歴史の審判として受け入れた。

 そのとき彼はソ連と世界の新しい道を切り開き、同時に歴史は彼と彼のレトリックを置き去りにした。ソ連の終焉を告げる鐘が鳴り響いていた。

 ドイツはNATOの枠組みの中で統一を目指して一気に動きだし、ゴルバチョフは苦境に立たされた。そんなときにジェームズ・ベーカー米国務長官(当時)が、「NATOは1インチたりとも東に拡大しない」と口約束をした。ゴルバチョフは書面などで確約を取ることはせず、この「約束」は後年、ロシアとNATOの間で大きな論争を巻き起こすことになる。

 90年秋、ゴルバチョフは東西冷戦を終結させた功績などを評価されてノーベル平和賞を受賞した。

 彼はソ連の経済および政治体制を大幅に自由化したが、多くの市民と同じように、資本主義市場に対する恐怖心や、失業も民間企業も知らない低所得者層に資本主義市場がもたらすものに対する不安も抱えていた。

 結局のところ、ゴルバチョフの改革は発展し得る市場経済を創出することなく、古い体制を不安定にした。ただでさえ悲惨だったソ連の生活水準は、さらに低下した。 

こうした状況を、本人は一時的な困難だと軽視した。しかし、最後には、ゴルバチョフの権威は経済不況の餌食になった。頭角を現した政治局の異端児ボリス・エリツィンは「ペレストロイカの失敗」からの脱却を掲げ、分権化されたソビエト連邦の中でロシアの完全な主権を主張した。

 ■ソビエト連邦が空っぽに

 91年8月、クリミアの別荘で休暇を過ごしていたゴルバチョフは軟禁状態に置かれ、副大統領や国防大臣、KGB議長らのグループが、大統領は「健康上の理由で職務遂行不能になった」と発表した。

 このときゴルバチョフは、1905年のロシア革命の収束に貢献しながら暗殺された帝政ロシアの首相ピョートル・ストルイピンの運命を描いた歴史書を読んでいた。傍らにはアメリカで刊行されたスターリンの伝記もあった。

 革命を手なずけようとした人物と帝国を築いた人物を選んだことは、冷酷に国を支配しようとした2人に対する強い関心を物語っていた。

 3日間に及んだ事実上の監禁は、彼と妻ライサにとって非常につらいものだった。首謀者グループはモスクワで市民の血が流れることをためらい、クーデターは失敗に終わった。

 しかし、ゴルバチョフがモスクワに戻ると、既にエリツィンが実権を握っていた。残された任期中は2人で国を運営しようと妥協点を探ったが、エリツィンは彼をぞんざいに追い払った。

 粗野な権力を嫌悪したゴルバチョフは、ソ連邦を構成する15共和国の指導者などへの権限の委譲を進めた。そして気が付けば、空っぽのソビエト連邦の支配者になっていたが、91年12月25日に辞任するまで威厳を保ち続けた。ソ連の核兵器は、初代ロシア連邦大統領に就任したエリツィンに引き継がれた。

 ゴルバチョフがもたらした新しい自由を評価する同胞は多かったが、それ以上に多くの同胞が、経済の混乱とソビエト帝国の崩壊を招いたことを非難した。

 「ゴルバチョフを殺したい人の列は、ウオッカを買う列より長かった」という冗談を自ら好んだ。それでも辞任するまで、変化と不安定が渦巻く奈落の底でソ連を導き、連邦が崩壊することなく改革できると、かたくなに信じていた。

 ロシアの元指導者としては1世紀ぶりに、引退後も威厳を保って暮らした。講演や広告出演で収入を得て財団を設立し、そこでは側近や歴史家、政治学者らが彼の改革の教訓を議論した。ロシア政界への復帰も試みたが、96年の大統領選の得票率はわずか0.5%だった。

 99年にライサが死んだ後は寂しさを募らせた。晩年は欧米の対ロ政策やNATOの拡大を批判するようになったが、民主主義と、人権と、武力不行使の原則にはどこまでも忠実だった。
 From Foreign Policy Magazine
ウラジスラフ・ズボーク(歴史学者)

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最終更新:9/5(月) 19:10ニューズウィーク日本版 












9/5(月) 17:03配信


ソ連最後の大統領だったゴルバチョフ氏

 ソ連崩壊の立役者として、東西冷戦の終結を導いたミハイル・セルゲーヴィッチ・ゴルバチョフ元ソ連共産党書記長が8月30日、死去した。91歳だった。

  詳しい状況は明らかになっていないが、腎臓関連の病気で長期療養中だったとされる。血液透析で病院に運ばれた後、容態が悪化したという。遺体はモスクワ市内のノヴォデーヴィッチ修道院の墓地に運ばれ、1999年に死去したライサ夫人の隣に埋葬される予定だ。 

 ◇ソ連最後の大統領だったゴルバチョフ氏 

 ゴルバチョフ氏が書記長に就任したのは1985年。ソ連国家が政治的にも、経済的にも、社会的にも、行き詰まっていた時期だった。ブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコの高齢指導者らが相次いで死去したあと、若き指導者として抜擢された。「ペレストロイカ(立て直し)」と呼ばれる改革政治によって、ソ連型社会主義経済の立て直しと、共産党独裁体制からの脱皮をはかり、自由・民主主義などの導入に努めた。その功績が評価され、1990年にノーベル平和賞を受賞した。

  ◇エリツィンが離党した最後のソ連共産党大会 

 ゴルバチョフ氏は、ソ連型社会主義体制が繁栄と安定をもたらすのは困難であると認識し、さまざまな手を打った。共産党独裁から大統領制国家への移行も行った。しかし、権力基盤だったソ連共産党組織から離れることができなかった。

  1990年7月2日、第28回ソ連共産党大会が開かれた。全国の共産党代表数千人がモスクワに集まり、12日間にわたって討議を行った。参加者の一般党員の大半は、ゴルバチョフ書記長の改革路線に反対の保守派の人々だった。一方、改革派の筆頭は、後にロシア共和国大統領となるボリス・エリツィンだった。

  大会10日目、ロシア共和国最高会議議長のエリツィンは会場から手を挙げ、壇上に上がった。「私は(もはや)共産党から離党します」と宣言し、そのまま会場から出ていった。参加者はあっけにとられ、ゴルバチョフ大会議長は「何を言っているのだ」という表情をし、あたかも何事もなかったように議題を進めた。当時、会場で取材していた筆者は、「大変なことが起きた。だがゴルバチョフは、そのことを理解していない」と思った。この後、ソ連共産党は壊滅し、ソ連共産党大会は2度と開催されることはなかった。

 ◇ソ連崩壊と政権からの転落 

 ペレストロイカの下、社会主義体制の変革は「手直し」程度では済まないことが、次第に明らかになってくる。中央集権体制に手を入れ、新しい風を吹き込むことにより、新体制が構築される、という人々の期待は見事に裏切られ、従来の共産党独裁政治体制だけが大きく揺れ、がらがらと崩れていったのが実態だった。

  社会主義国家体制のみならず、ソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)という名の多民族連邦国家も崩壊した。さらに、ソ連の勢力圏下にあった東欧社会主義国家群も崩れ落ち、ソ連から離れていくことになる。「偉大なソ連国家」という人々の誇りも無残に潰れていった。

  だが、軍や治安機関、軍需産業を牛耳っていた保守系勢力や組織は、改革政治への反抗・反発が根強く、ついに1991年8月のクーデター未遂事件が起きる。 

 ゴルバチョフ夫妻はクリミア半島の保養地に監禁され、エリツィン・ロシア大統領らのクーデター反対派に救出される結果となった。ソ連国家は崩壊・消滅し、ゴルバチョフ氏はソ連大統領の座を失い、人々の支持も消えていくことになる。

  ◇人々の期待は失望に 

 老人政治から新しい改革政治への移行という時代の流れに、多くの人々が期待し、ゴルバチョフ氏に希望を託した。しかし、ゴルバチョフ政治は、ソ連社会主義を崩し、社会全体に無政府主義的混乱を広げただけで、何の繁栄も富ももたらさなかった。それどころか、国家そのものを崩壊させたことで、人々を更に苦しい生活へと追い込んだ。人々の反発と怒りが爆発し、ゴルバチョフ氏の人気は最低の評価へと変わっていった。 

 ソ連崩壊5年後の1996年、ゴルバチョフ氏は、政治復帰を目指してロシア大統領選挙に立候補する。結果は、得票率0.51%。10人の候補者のうち7番目だった。泡沫候補に近い扱いだった。ロシアの人々がもはや、ゴルバチョフ氏には何の期待もしていないし、求めてもいない、ということだった

 ◇欧州からの称賛と国内の冷たい反応 

 ゴルバチョフ死去のニュースが30日に流れると、欧米諸国から沢山の哀悼のメッセージが送られた。プーチン大統領のウクライナ侵攻で、「ロシアは敵国だ」「ロシアをつぶせ」などと叫び、ウクライナへの軍事支援を展開してきた米国と欧州連合諸国代表者たちも、がらりと態度を変え、ゴルバチョフ称賛の輪に入った。

  これに対し、ロシア国内では、ゴルバチョフ氏を称賛する声はあまり聞かれない。多くは無関心、中には「国を売った裏切り者」とののしる人もいた。

  ロシア社会の底辺に根付くゴルバチョフ批判。その背景にあるのは、国内政治の失敗ではなく、「ゴルバチョフは、欧米諸国に対して屈辱的な譲歩をし、ロシア国家の尊厳や自尊心をずたずたにした」という敗北喪失感だった。人々は、「ペラペラしゃべるだけで、ロシアの人々の気持ちを分かっていなかった人物」と忌み嫌うことにもなる。 

 ◇“最大の失敗”は米国と口約束だけの「NATO東方拡大阻止」 

 欧米では、ゴルバチョフ氏は、「西欧的論理が通用する相手」「合理的な精神を持っている人物」と高く評価された。「コンセンサス」「プルアリズム(複数主義)」といった英語的表現を使い、それを新しい概念として説明することが多かった。だがロシア国内では、「ロシアは米国ではない。ロシアにはロシア語とロシア的精神がある」という反発、反感を呼んだ。 

 ◇「欧米依存」という国内批判 

 ゴルバチョフ氏が「欧米依存」と批判を浴びるに至った最も大きな事件は、90年2月9日のゴルバチョフ大統領とベーカー米国務長官のモスクワ会談だったかもしれない。 

 NATO(北大西洋条約機構)の東方拡大を阻止する絶好の機会だったのに、ゴルバチョフ大統領は、米国側の主張を批判もなく聞き入れ、ロシアの利害を見逃したと、ロシアでは、批判された。 

 アメリカ国家安全保障アーカイブの会談記録によれば(ゴルバチョフ財団にも記録が存在する)、会談は長時間にわたって行われた。内容を簡潔にまとめると、以下のようになる。

 まず、ゴルバチョフ大統領は「政治改革」及び「通貨改革」を考えていると説明した。これに対し、ベーカー長官が「『共産党が指導的役割を担う』とする憲法条項は除去したのか」と質問した。ゴルバチョフ大統領はおずおずと「共産党はその条項の見直しを検討している」と答えた。 まるで、検察官の被告尋問のようだった。

  ◇「1インチも東方拡大しない」 

 ベーカー長官はドイツの統合と、今後の見通しについて、次のように説明した。「われわれは、ドイツの中立を望んではいない。何故ならば、中立ドイツは自らの核兵器潜在能力を持つ決定をするかもしれないからだ。米軍がNATOの枠内でドイツ駐在を維持することができるのならば、現在のNATO軍事管轄範囲から1インチといえども東方方向へ拡大することはない」と語った。

  この「1インチといえども東方向へ拡大することはない」という言葉は、その後、あちこちで繰り返されることになる。ロシア側は、「NATOは『1インチも東方拡大をしない』と約束したではないか」と、何度も反論することにもなる。

  ◇合意文書を作らなかった 

 ベーカー長官は、「東西ドイツと米英仏露の『2+4』の6カ国協議機関を設置し、統一ドイツがNATOを東方へと拡大しないように保証する」とも語っていた。 

 つまり、米軍がNATOの枠内でのドイツに駐留すれば、ドイツへの監視・管轄がスムーズに進み、NATOがこれ以上東方拡大することはないという論理展開だった。 

 ◇口約束だけの「NATO東方拡大阻止」は守られなかった 

 ベーカー長官は、ナチス・ドイツ時代の恐怖が消えていないソ連に対し、「東西ドイツ統一後の管理を任せてもらえれば、NATOの東方拡大は起きない」と保証したことになる。 

 また、ベーカー長官は、会談の終わりにも、「東西ドイツの統合が実現したと仮定して、あなたは、ドイツが完全に独立し、自国領土内に米軍部隊を駐留させず、NATO域外に出ていくのがいいのか、それとも、ドイツがNATO枠内にとどまり、同時に、米軍がドイツに駐留し、NATOの管轄権限及び軍部隊が東方へと拡大しないように保証する方がいいのか。どちらなのか」と質問した。東西ドイツ統一の在り方に対するソ連側の立場を、米国は執拗に問い詰めていたという印象である。

 ◇互いの要求を飲んだかのように見えたが… 

 ベーカー長官の「質問」に対し、ゴルバチョフ大統領は「その点については熟慮したい。しかしながら、NATO領域の東方拡大は受け入れがたいことは、明らかだ」と答えた。ベーカー長官は「あなたの意見に全く同意する」と述べ、話は終わっている。

  ある種の狡猾かつ複雑なやり取りによって、ベーカー長官は、東西ドイツの統合と米軍によるドイツ軍管理をゴルバチョフ大統領に認めさせた。代わりに、ドイツの動きによるNATO拡大を許さないとの方針を示したのだった。

  恐らく、当時の米国およびNATOは、ドイツ統一問題の行方に、より大きな関心と利害を持ち、ドイツを含むNATO領域の東方拡大については、できるだけソ連側の要求を認める、という立場だったと思われる。しかしながら口頭の合意だけで、合意文書を作らなかった。

  ◇後に、米国は合意を否定 

 東西ドイツの統合に関与し、管轄する力は、もうソ連にはなかった。統一ドイツ問題は米国に任せ、NATOが東方拡大をしないと約束するのならば、それで十分――。当時のゴルバチョフ大統領は、そんな気持ちだったのだろう。

  欧米諸国は、1980年代、明らかに、ソ連の意向に注意を払っていた。ある種の安全保障合意を取り交わす雰囲気もあった。だが対露関係が悪化していく中で、ロシアの立場を理解するとの関心は失われていく。 

 やがて、ゴルバチョフ・ベーカー会談の内容もすっかり忘れられた形になり、「『NATO東方非拡大』の合意などしていない」と、完全否定することになる。バイデン政権の報道官たちは、「そもそも、そんな話し合いはしていない」と反論した。会談内容記録を持つロシア側にすれば、「それこそ、米国のフェイク(虚偽)ではないか」となる。 

 ◇ウクライナ紛争は避けられたかもしれない 

 ロシア社会から見ると、「話し会いの中身をきちんと文書化していれば、こんなことにはならなかったはずだ」というところだろう。口だけの約束では、法律的にはきちんとした合意にはならない。ゴルバチョフ大統領の評価は、「米国の勢いに負け、いいように引き回され、譲歩し、結果的に、国家利益を米国に売り渡した」となっていく。

 プーチン大統領に言わせれば、ゴルバチョフ大統領がきちんと西側との話し合いをまとめていれば、ウクライナへのあ「特別軍事作戦」も、必要ではなかったかもしれない、となる。

  こうした指摘に、ゴルバチョフ大統領はあまり反論していない。当時は、ソ連型社会主義経済の発展が止まり、欧米諸国に助けを求めるしか道はなかったのだという弁解だったかもしれない。 

 ゴルバチョフ氏は、プーチン大統領の「ウクライナ侵攻作戦」に対しても、はっきりとした発言をしていない。ただ、「モスクワのこだま」放送局のヴェネディクトフ編集長によれば、基本的には「戦争に反対だった」とされ、「かなり落ち込んでいた」という。

  ◇ロシアは欧州ではないのか? 

 ゴルバチョフ氏は80年代、ペレストロイカ(手直し)という政治改革を始めたが、その一方で「欧州共同の家」という外交方針も発表していた。つまり、欧州は一緒になって、手を携えて生活していこう、と呼びかけたのである。

  だが現時点で、「欧州共同の家」は実現していない。少なくとも、ロシアは「欧州の家」に入ることはできず、追い出されている。近い将来、入れる可能性もない。どうして、そういうことになってしまったのか。一体、誰が悪いのか。「ロシアは欧州ではないのか?」という歴史的な疑問が立ち上がることにもなる。 

 欧米社会に評判のいいゴルバチョフ氏は、欧米とロシアの価値観の違いに挟まれ、思うように動けず、それを乗り越えることもできなかった。ソ連崩壊ですべてが終わり、「欧州の家」を構築する力は尽きていたのかもしれない。 (石郷岡建・元毎日新聞モスクワ支局長)

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最終更新:9/5(月) 17:19サンデー毎日×週刊エコノミストOnline
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