goo blog サービス終了のお知らせ 

書の歴史を臨書する

古今の名磧を臨書、最近は米フツ。
時折、気の向くままに漢詩や詩、俳句などを勝手気侭に書いております。

崇徳院

2010-07-09 09:07:44 | Weblog
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われてもすゑに 逢はむとぞ思ふ

二手に分かれた滝川がやがてまた一つに溶け合う様に私達もまたいずれか逢いたいものです

崇徳院(1119~1164)
第七十五代天皇。母は藤原公実女の中宮璋子(待賢門院)、父は鳥羽天皇とされるが実父は鳥羽天皇の祖父白河法皇(異説も有る)。
即ち母待賢門院の不義の子である。 白河法皇は崇徳院を溺愛し孫の鳥羽天皇に譲位を迫り崇徳院は僅か5歳で皇位につく。
白河法皇崩御後に権力を握った鳥羽法王には疎んじられ僅か3歳の近衛天皇に譲位する。
近衛天皇崩御に伴う後継問題で、崇徳院側と鳥羽法王側が対立を深め保元の乱に発展する。
敗れた崇徳院は讃岐に流され悲憤の内に不運の生涯を終える。
悲劇的な生涯を送った崇徳院の怨霊伝説が多く残っている。

法性寺入道前関白太政大臣

2010-07-08 08:15:47 | Weblog
和田の原 漕ぎ出てみれば ひさかたの 雲ゐにまがふ 沖つ白波

海原に漕ぎ出すと水平線の彼方は白雲とも白波とも、水と空の境を茫々としているさまはあたかも水天一色風月無辺の如くじゃ。

法性寺入道前関白太政大臣(1097~1164)
藤原忠道。摂政関白太政大臣藤原忠実の長男。従一位・摂政・関白・太政大臣などを歴任した後、法性寺に隠居し法性寺殿と号す。
白河法皇の養女藤原璋子(後の待賢門院)と忠道との婚姻を断った父に代わり藤原氏長者となり25歳にして鳥羽天皇の関白、その後も崇徳・近衛・後白河の3代に摂政・関白を務める。 忠通は父忠実・弟頼長と対立しこれも保元の乱の一因になっている。
尚、前項の藤原基俊との約束を反故にしたのはこの忠通とされている。

藤原基俊

2010-07-07 08:44:58 | Weblog
契りおきし させもが露を いのちにて あはれ今年の 秋もいぬめり

あなたはあれだけ(息子の昇進のことを)お約束してくださったに、また反故にされてしまうのですね、そんなこんなでこの秋も空しく過ぎてしまうんだなぁ。    

藤原基俊(1060~1142)
藤原氏の主流である藤原北家の出身で藤原道長の曾孫にあるが、官位には恵まれず従五位上左衛門佐にとどまり後に出家した。
しかし、歌人としては源俊頼とならぶ当時の大家で歌壇の指導者として活躍した。漢詩文にも通じ「新撰朗詠集」を撰集している。
「金葉和歌集」他の勅撰和歌集に百余首入集。家集に「基俊集」がある。
藤原俊成の師。

祐子内親王家紀伊

2010-07-06 08:48:39 | Weblog
音に聞く たかしの浜の あだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ 

その方面で噂の高い貴方のことです、変なことになったら泣くのはこの私ですから

祐子内親王家紀伊(?~?)
後朱雀天皇の皇女祐子内親王の女房。一宮紀伊、紀伊君とも呼ばれる。従五位上民部大輔春宮亮平経方の娘? 藤原師長の娘である堀河院御乳母典侍紀伊三位師子と同一人物?
母は祐子内親王家小弁。紀伊守藤原重経(素意法師)は兄?夫?
1056年「皇后宮春秋歌合」から、1113年「定通朝臣家歌合」までの歌合への出詠が確認されている。
「後拾遺和歌集」などの勅撰和歌集に29首入集。家集に「一宮紀伊集」がある。

 

源俊頼朝臣

2010-07-05 08:54:28 | Weblog
うかりける人をはつせの山おろしはげしかれとは 祈らぬものを

私の思いを受け入れてくれない人がこちらを向いて呉れる様にあんなに一生懸命お祈りしたのに
益々、私に辛く当たる様になってしまった、あーあ 

源俊頼朝臣(1055~1129)
父は大納言経信。 
はじめ堀河天皇近習の楽人として活動、その後、堀河院歌壇の中心人物として活躍し多くの歌合せ作者、判者として記録が残る。
父経信と共に当時の画壇に革新的な新風を投げ込んだ歌人として知られる。
「金葉和歌集」他の勅撰和歌集に約200首入集

前中納言匡房

2010-07-04 07:36:05 | Weblog
高砂の 尾上の桜 咲きにけり とやまの霞 たたずもあらなむ 

桜が見事に咲いたなぁ このまま花見をしていたいのでどうか霞など立たないでおくれ

前中納言匡房(1041~1111)
大江匡房。大江匡衡・赤染衛門の曽孫。大江家といえば、学問の家柄であり、父親の成衡は大学頭であった。また、鎌倉幕府で重用された大江広元の曽祖父にあたる。その学問の家系の中でも特に博学をもって知られる。幼い時から学問に秀で、時として、菅原道真の学才に比較されることもあった。位階は正二位で大蔵卿や太宰権帥などの官職を得た。 自邸に江家文庫を設置したり、1090年には堀河天皇に漢書を講じている。 後拾遺和歌集などに多くの歌が収められ、歌集に「江帥集」、著書に「洛陽田楽記」「本朝神仙伝」がある。

大納言経信

2010-07-03 08:57:45 | Weblog
夕されば 門田の稲葉 おとづれて あしのまろやに 秋風ぞ吹く

夕方になると、秋の風が家の前に広がる田圃の稲葉をそよそよと音をたてて、 この粗末な芦の小屋にまで吹き渡ってくるのだよ


大納言経信(1016~1097)
源経信。父は源道方。母は源国盛の娘。子に俊頼、基綱。
1062年右中弁となり、以後蔵人頭、参議、東宮権大夫、左大弁、皇后宮権大夫、権大納言、兼皇后宮大夫大納言、大宰権帥などを経て大宰府で没、82歳。
詩歌・管絃に秀で有職故実にも詳しく、当時としては新風の叙景歌に自然美を追求した活動の中心的存在だったと言われる。
多くの歌合に参加しており当代一の歌人とされた。

良暹法師

2010-07-02 08:18:59 | Weblog
寂しさに宿を立ち出てながむればいづくも同じ秋の夕暮れ

物寂しくて外へ出て気を紛らわそうとしたが何処を眺めても秋の夕暮れは寂しいものなんだなぁ

良暹法師(?~?)
出自・経歴とも不明。比叡山で祇園別当となり、その後大原に隠棲したと言われる。
賀茂成助・津守国基・橘為仲・素意法師などが歌人仲間。いくつかの歌合に出詠した記録があり「後拾遺和歌集」などの勅撰和歌集にも入集している。
華やかな貴族社会とは疎遠な隠遁生活で生涯を終えたようだが歌人としては名が知られていた。
歌人として名高い源俊頼が良暹の家の前で馬を降りて敬意を表したという逸話が残っている。

能因法師

2010-07-01 09:01:51 | Weblog
嵐吹く三室の山の紅葉ばは龍田の川の錦なりけり 

三室の山から流れてきた紅葉が竜田川の一面に散り敷いてまるで錦の織物のようだ

能因法師(988~?)
俗名橘永、父は肥後守橘元。 26歳で出家し摂津国に住む。 奥州・伊予・美作など諸国を旅し各地に足跡を残したが、特に陸奥での「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞふく白河の関」は名高かい。
風狂な逸話が多く、この歌も実は日焼けして陸奥への旅を装って作ったとも言われる。
内裏歌合など多くの歌合せに参加し、源道済・藤原公任・大江嘉言・相模達の歌人と交流があった。
自選の歌集、歌学書、の著のほか多くの勅撰集への入集がある。