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書の歴史を臨書する

古今の名磧を臨書、最近は米フツ。
時折、気の向くままに漢詩や詩、俳句などを勝手気侭に書いております。

良寛 2

2009-05-21 08:11:30 | Weblog
この書とは関係ないが、
良寛の老いらくの恋がよく知られている。
貞心尼30歳の時に70歳の良寛に弟子入りし、
以後5年間に亘り手紙の交換をしたが、
その内容からして二人は恋愛関係にあったとされる。
貞心尼は良寛の最期を看取り、明治5年に75歳で没した。


誰家不喫飯為何
不自知伊余出此

良寛・大字

2009-05-20 08:52:24 | Weblog
良寛(1758-1831)
越後出雲崎の名主の長男として生まれる。
22歳で出家し、諸国行脚し39歳にて越後に戻る。
諸庵を転々とし、69歳の時、女僧貞心と出会う。
貞心との往復歌集「蓮の露」が残されている。

良寛は歌人として名高いが、
書人としても書道史上にも欠かせない人物である。
小野道長、懐素等の日中の古典に精通習熟し、
古典を基盤に良寛独自の個性溢れる書風を確立している。
豪快であり、秀麗であり、徳の高い枯淡でもある。
同時代の巻菱湖、市川米庵、貫名海屋等の唐様の全盛時であったが、
良寛は古典に立脚した独自の書風で一線を画した。

従容亭

松平定信・書状

2009-05-18 08:19:44 | Weblog
松平定信(1756-1829)
吉宗の孫、白河城主。
寛政の大飢饉の折の藩政の改善手腕が認められ、
田沼意次失脚後幕府老中として幕政を預かり、
寛政の改革を断行した。
「白河の清きに魚もすみかねて、昔の田沼いまぞこいしき」
と世評され失脚し余生を風雅三昧に過ごす。
学問に秀で、書も一家を成し、
したためた諸寺の寺額は70枚にも及ぶと言う。

自信満々の書は他を圧するが、書法は堅実である。
華やかさは無く、むしろ、厳しさを発する書である。


十二朝之儀忝御待申上候

酒井抱一・一行書

2009-05-17 08:44:21 | Weblog
酒井抱一(1761-1828)
第16代酒井家姫路藩主の舎弟。
由緒ある酒井家にあって異色な存在であり、
俳句、俳画、狂歌はもとより、
本業である絵画も
狩野派から浮世絵、大和絵まで習得するなど、
風流三昧に生きた。
尾形光琳への思慕が深く、江戸琳派の後継者に至る。
谷文晁など当時の文人墨客達との交際も多く彼らの中心人物であった。

光悦風ともみえる書風で一気呵成に爽やかに書き上げた。

清風払明月

小林一茶・自画賛

2009-05-16 08:41:35 | Weblog
小林一茶(1763-1827)
江戸時代中後期の俳人。
家庭的に恵まれず、身体的にも病を持ち、
陰惨な晩年を過したが、
その作風はむしろ明るく、
自然の風物を暖かく見つめる独特な句境を作り上げた。

飄逸な書は素朴さの中に独特な風格を保つ。

おらが世や
そこらの艸も
もちニなる

塙保己一・一行書

2009-05-15 08:12:22 | Weblog
塙保己一(1746-1821)
幼少の頃失明したが、その異常ともいえる記憶力と努力で和漢に精通した。
その書「群書類従」は国学の発展に大きく寄与した。
当時の川柳が彼の博学を示す。
「番町で目明き盲目に道を問ひ」
目が不自由で字を書く、不思議でならない。
どのように書くのだろう。
しかも、何とも味のある字だ。

克己復禮

上杉鷹山・一行書

2009-05-14 09:05:27 | Weblog
上杉鷹山(1751-1822)
第十代米沢藩主。
文武両道の振興を図った名君として知られる。
物心両面からの藩政刷新した。
天明の大飢饉に於いて米沢藩は餓死者を出さなかったと言う。

杜甫の七言律詩の一節を爽やかに書いた。

請看石上藤蘿月

浦上玉堂・額字

2009-05-12 09:10:54 | Weblog
浦上玉堂(1745-1820)
江戸時代後期の文人画家。
戦国大名であった浦上氏の末裔の上級武士であったが、
琴詩書画に没頭し、後に脱藩し諸国を放浪遊歴した。
谷文晁、頼山陽、司馬江漢など当時の知識人と交友があった。
川端康成記念会に所蔵される代表作・凍雲篩雪図は国宝に指定されている。  

一気呵成に筆が走り清清しい。

香椿亭


凍雲篩雪図