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オーロラ特急    ノスタルジック旅日記 

旅好き、歴史好き、鉄道好き、クルマ好き、カメラ好きの団塊ボーイが社会科見学的な旅を続けます。

山陽道・古城の旅 名園・後楽園と宇喜多秀家の岡山城

2015年09月29日 | 中国
備中松山城をあとにして岡山市内へ戻り、後楽園と岡山城を訪ねました。


日本三名園の一つ、後楽園にきました。岡山へは何度も来ていますが、後楽園も岡山城も初めてです。岡山へ来てどこへ行ったかというと岡山のホテルを基点に倉敷、直島、鷲羽山、愛媛の高松、丸亀などへ行きました。

後楽園の正門の前の岡山県立博物館

市内にはほかに市立美術館、夢二郷土美術館、林原美術館、市立オリエント美術館などの展示施設があります。
竹久夢二の美術館は各地にありますが、夢二は岡山県の現瀬戸内市の出身です。
林原美術館は1990年ころのバイオテクノロジー・ブームのときに注目が集中した研究開発型企業・林原生物化学研究所の創業者・林原一郎が収集した古美術品と岡山藩主・池田家の旧蔵品を収蔵・展示しています。同社は数年前に会社更生法適用となり、その後林原として再建されています。
あちこち行きたいところは多いが、すべて諦めて後楽園と岡山城に専念します。岡山出身の吉行淳之介の文学館はないのか調べたら、静岡県にありました。掛川市のねむの木学園の中にあります。



沢の池と岡山城
後楽園に初めて入園しました。圧巻ですね。大きな池に緑の庭園、背景には岡山城が。水戸偕楽園、金沢兼六園、岡山後楽園、訪れた季節もありますが、私は後楽園が一番だと思いました。広大な芝生の日本庭園は珍しいですね。


慈眼堂

茶屋

中の島


唯心山。標高6mの築山

唯心山から見た沢の池



旭川の両岸に岡山城と後楽園があります。後楽園は庭園でもあり岡山城防御のための曲輪でもあります。

後楽園側の茶屋・碧水園


旭川に架かる月見橋




いよいよ岡山城です。


岡山城の廊下門




廊下門付近

宇喜多秀家時代の古い石垣


中段の表書院跡。岡山城は本丸・二の丸という言い方ではなく、本段・中段・下段というようです。

穴蔵跡

泉水跡


月見櫓。国指定重要文化財です。


不明門(あかずの門)


天守の礎石

六十一雁木上門



岡山城は宇喜多直家・秀家の居城で、直家は備前の戦国大名で謀将として知らます。その子・秀家は備前中納言、五大老のひとりとして豊臣政権を支えました。関ヶ原の後には小早川秀秋が入城し、秀秋が早死すると、池田輝政の次男・三男が入城、幕末まで池田家の城として続きます。
岡山城は1945年6月の空襲で消失しましたが、1966年に鉄筋コンクリート、エレベーター付きの城として再建されました。
黒漆喰が美しく別名、烏城(うじょう)と呼ばれます。烏の濡れ羽色のように輝かしい黒です。


天守入口

天守内のエレベーター


天守最上部

天守から見る旭川と後楽園

シャチホコ


廊下門付近の石垣。天守へは大手門、表書院、廊下門の手前を右折して進むのがメインルートのようですが、私は廊下門から入り、表書院、不明門、本段へと進みました。時間があれば他のコースも歩きたかったです。


廊下門外から見上げる月見櫓と石垣

後楽園の竹林


延養亭

鶴鳴館
























山陽道・古城の旅 日本一高い現存天守の備中松山城

2015年09月28日 | 中国
ネットで大手旅行会社の「1泊2日備中松山城・岡山城・竹田城跡・姫路城」という格安ツアーを見つけました。団体旅行で古城へいくのは本意ではないが、備中松山城と竹田城は交通が不便な場所にある山城なので、関東からいくのは結構大変です。
個人でいこうと思い何度か計画を立てましたが、時間とコストを考えるとどうも納得がいかない。迷っていて先延ばしするより、不本意でも決行することが大事と思い、団体旅行への参加を決めました。

岡山空港に到着。搭乗した飛行機はボーイング737-800型でしたが、岡山空港で新型の787を発見。羽田・岡山間は787が飛んでいます。787が最初に導入される時、私はドル箱路線の羽田・札幌線に使用されるのかと思ってましたが、全日空は羽田・岡山間と羽田・広島間に投入しました。考えてみると理由は納得できます。岡山便や広島便は対新幹線との戦いで飛行機は苦戦しています。苦戦しているゆえに新型機を投入して挽回を図ろうというのが航空会社の経営方針です。

岡山空港で観光バスに乗車。2日間地元のしもでんバスにお世話になりました。「しもでん」というとあまりいい語感ではありませんが、かつての鉄道会社・下津井電鉄のバスなのです。

寝いるうちに城の前の駐車場に着くというのがバスツアーの最大のメリットです。私のようにいろいろ調べて旅行をする個人旅行派にとってはあっけないですね。高梁市の市街地の駐車場に到着し、そこで小型バスに乗り換えて備中松山城へ向かいます。
ちなみに備中松山城は高梁市にあり、伯備線の備中高梁駅が最寄り駅です。備中高梁の町は古い城下町で「男はつらいよ」のロケも行われました。



小型バスで城山中腹のふいご峠駐車場に到着し、ここからは徒歩です。松山城は臥牛山という標高430mの山頂に水野氏によって造られた山城です。



上太鼓丸櫓跡からの眺望。高梁市街を見渡せます。



大手門付近


二の平櫓跡


現存の土塀。国指定重要文化財です。



松山城では天守をはじめ二重櫓と三の平櫓東土塀が国指定重要文化財です。





二の丸跡に到着。天守と本丸南御門の櫓。天守は水野氏が築き現在に至る重要文化財ですが、南御門と両側の櫓は復元された物です。

二の丸は山城としてはかなり広いスペースです。



天守の北側にある二重櫓。これも国指定重要文化財です。巨大な岩盤の上に造られています。

天守北側の後曲輪

本丸から見る二層二階の天守。外観は三層に見えます。



天守内部

天守からの眺望

本丸跡

天守の唐破風と石落とし

本丸東御門(復元)

本丸土塀

天守の千鳥破風

現在の松山城の北に標高470mの大松山があり、そこに中世の山城、大松山城の城跡があります。





備中松山城は十分満足でした。松山城は愛媛県にもあり、そちらは伊予松山城といいます。実は関東にも松山城はあります。現在の東松山市にあった城で、区別する場合は比企松山城といえばいいでしょうか。
松山城は竹田城とならび「天空の城」として知られています。ポスターにあるような雲海に浮かぶ姿は城の北西の松山城展望台から撮影できます。私も挑戦したいとは思いますが、雲海を撮影できるのは冬の日の早朝限定ですからかなりハードルが高いです。













山口・福岡の旅(5) 武蔵・小次郎が決闘をした巌流島

2015年04月30日 | 中国
宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘をした巌流島へ行きました。巌流島の正式名称は舟島、舟の形をしていたので舟島と言われ、武蔵・小次郎の決闘ののちは小次郎の号に因んで巌流島と言われています。
武蔵・小次郎に私が初めて接したのは村上元三の「佐々木小次郎」。次が内田吐夢監督の映画「宮本武蔵」、武蔵は中村錦之助、小次郎には昨年亡くなった高倉健、高倉健唯一の時代劇出演だったと思います(任侠映画は時代劇からは除外)。
テレビでは北大路欣也の「宮本武蔵」、小次郎は中谷一郎。10年ほど前のNHK大河ドラマ・市川海老蔵の「武蔵」、小次郎は松岡昌宏。
以上の映画・テレビはすべて吉川英治の原作です。吉川以外では小山勝清の「それからの武蔵」、五味康祐「二人の武蔵」、ほかにも司馬遼太郎、柴田錬三郎、津本陽など多くの歴史小説作家が武蔵を書いていますが、吉川英治による「武蔵」像が圧倒的な主流です。

巌流島へは下関の唐戸桟橋から船が出ています。桟橋周辺には水族館やショッピングモールなどがあって賑い、武蔵・小次郎の剣劇が行われていました。

今年は巌流島の決闘から400年です。


関門橋

壇ノ浦に身を投じた安徳天皇と平家の武将を祀る赤間神宮。平家物語の建礼門院の見た夢にちなんで龍宮城に似た造りです。神宮内の安徳天皇陵は宮内庁管理の天皇陵です。


15分ほどで巌流島の桟橋に着岸



武蔵・小次郎の武者絵



武蔵と小次郎の像


村上元三の文学碑

武蔵と小次郎については通説、伝説が多く、不明なことがたくさんあります。小次郎の出身地、生年、剣術の流派、いつどこで燕返しを始めたかはまったく不明です。巌流島の決闘のときの年齢も不明で、18歳説、50代説、さらに70代説もあり、細川藩の剣術指南だったという説もあります。武蔵のほうも巌流島では木刀で戦ったというのが通説ですが、武蔵も小次郎も真剣での立ち会いだった、武蔵の遅刻はあまりにも有名ですが遅刻はしなかったという説もあります。土産物店で「遅いぞ!武蔵」というドラ焼きを売っていました。美味でした。
あとで知ったのですが巌流島へは門司港からも船が出ています。知っていれば門司港から渡ったんですが。遠回りで時間を浪費しましたが、旅とはそんなものです。





山口・福岡の旅(3) 江戸時代の町並みを残す萩城城下町

2015年04月26日 | 中国

萩博物館の一角に復元された萩城三の丸の物見櫓


萩博物館




広い敷地に武家屋敷風の建物が立っています。長州藩、幕末維新の歴史、長州出身の人物などを展示紹介しています。

博物館の庭

昭和7年購入の米国製消防車。ポンプ設備はレオ社、車体はフォード製です。

別棟の展示室には昭和の生活用具や家電を展示。ラビット・スクーター、現・富士重工業の製造です。

石炭ストーブ



テレビ・ステレオなど家電製品

博物館そばの中の総門跡

萩美術館

中央公園の山縣有朋像。明治・大正期の軍人、陸軍元帥、総理大臣、元老。東京では椿山荘の昔の所有者といったほうが話は早いです。山県有朋は旧細川家下屋敷の跡地に屋敷を構えていました。戦後その土地は藤田観光の手で整備され椿山荘として開業、ホテル・結婚式場として運営されています。山縣のこんな大きな像があるとは意外でした。
【後日記】この騎馬像は戦前は国会前にありました。戦後、軍国主義の象徴として撤去され、都内の倉庫に保管されていたそうですが、出身地の荻市に引き取られたそうです。

久坂玄瑞像。今年1月にできたそうで、「花燃ゆ」の放送開始に間に合わせたようです。山縣有朋像よりかなり小さめです。

吉田松陰が投獄された野山獄跡。野山獄は士分・上士の獄です。

野山獄の反対側の岩倉獄跡。こちらは下士の獄です。

東萩駅。本当は北九州からは列車で萩へ来たかったのですが、あまりにも列車は不便なのでレンタカーを借りることにしました。

やっぱり駅は閑散としています。

東萩駅前広場にある萩城の6分の1模型。鉄製なのでかなりサビがきています。

帰路、壇ノ浦サービスエリアから関門橋を見る。

壇ノ浦サービスエリア内の宿泊施設・旅籠屋





山口・福岡の旅(2) 関ヶ原で敗れ、防長2国となった長州毛利藩の萩城

2015年04月25日 | 中国

萩城の二の丸南門にある長州藩の藩祖・毛利輝元の像。仙台城に伊達政宗の像があるのは何の違和感もありませんが、萩城の一番目立つところに輝元の像があるのは意外です。毛利輝元は毛利家を西日本の有数の戦国大名とした毛利元就の孫であり、豊臣政権では五大老の一人ですが、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となるも、大坂城に入城したまま出陣せず、関ヶ原に出陣した毛利秀元(輝元の従弟)・吉川広家(輝元の従弟)の軍も実戦には加わらず後方待機のまま西軍は敗北しました。
毛利秀元には「宰相の空弁当」という有名な言葉が残っています。毛利隆元は「総大将の昼寝」ですね。戦わずして不戦敗の責任は大きいと思います。関ヶ原の結果、毛利家は安芸・備後・出雲・周防・長門など120万石から周防・長門2国の30万国石へ大減封となり、居城は安芸・広島城から長門・萩城へ移されました。その毛利輝元の像が萩城の入口にあるのです。藩祖・輝元の屈辱、怨念が幕末の倒幕運動のエネルギーになったといえます。


萩城と背後の指月(しづき)山。萩城は別名、指月城ともいわれます。

本丸門

券売所





志都岐山(しづきさん)神社。もとは指月神社といわれ、毛利元就、隆元(元就の子)、輝元(元就の孫)の3人と幕末の藩主・敬親、元徳(敬親の子。最後の藩主)の5人を主神とし、長州藩の歴代藩主を祀っています。

「花燃ゆ」の主人公・ふみの夫・楫取素彦が寄進した井戸

神社の本殿

萩城址の碑。萩城は幕末、藩主・敬親のときに藩庁を山口に移し、順次萩城は取り壊されていきました。


天守閣跡


天守台から見る内濠

天守台から見る指月山

詰丸案内板。標高143メートルの指月山の上に萩城の詰丸があります。


指月山の山頂の詰丸への急な登り坂。20分から30分かかります。


詰丸の要害門跡

詰丸の絵図



詰丸二の丸の用水櫓

本丸虎口



貯水池

樹木の隙間から海が見えます。




詰丸の虎口

詰丸の狭間



天守跡付近の内濠


濠の外から見る天守台

矢倉跡

満開を過ぎた八重桜



萩焼の陶芸店



旧厚狭毛利家萩屋敷長屋

萩城の模型。本丸と指月山上の詰丸の位置関係がよくわかります。

萩史料館