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オーロラ特急    ノスタルジック旅日記 

旅好き、歴史好き、鉄道好き、クルマ好き、カメラ好きの団塊ボーイが社会科見学的な旅を続けます。

東海道・古城の旅(6)空襲で焼失、本丸御殿を再建中の名古屋城

2014年10月27日 | 愛知・岐阜
名城の旅3日目は「尾張名古屋は城でもつ」の名古屋城を訪れました。
名古屋城は何度も外から見たことがあるし、愛知県体育館へは行ったことがあるので初めてという気がしないのですが、城見物は初めてです。


名古屋城へは東門から入りました。

天守閣2階展示室では特別展「天下人への道~信長、秀吉、家康の合戦」を開催中



東南隅櫓

加藤清正石曳きの像。清正は天守閣の工事を担当しました。

天守閣の全貌。名古屋城は空襲で焼失、昭和34年(1959年)に再建されました。


天守閣からの眺望

天守閣最上階の売店

天守閣への階段

天守閣へはエレベーターもあります。

天守閣5階の金鯱の模型

昭和34年製作の模型

天守閣内


天守閣の案内図

天守閣への外付けエレベーター。最上階へは2基のエレベーターを乗り継ぎます。


再建中の本丸御殿



内部の書院造り、障壁画なども順次公開。最終的な完成は平成30年だそうです。



正門


名古屋城近くの名古屋市役所庁舎。洋式建築に和風の屋根を載せた和洋折衷の「帝冠様式」の歴史的建造物です。このたび重要文化財指定の申請もされました。

市役所の隣の愛知県庁舎。同じく帝冠様式で、重文指定を申請中。

名古屋城周辺を歩きましたが、大きな病院が多いです。国立病院機構名古屋医療センターは戦前は陸軍病院でした。

名古屋地下鉄の市役所駅です。東京メトロの銀座線・浅草駅もこんな感じですね。

名古屋城がすごいのはやはり大きさですね。江戸城、大坂城と同じくらい大きいのでは。
市役所も県庁も名古屋医療センターも名古屋城の跡地です。
地元の人は名古屋城は名城、名古屋駅は名駅と言います。
私の名城の旅、次は念願の犬山城です。











東海道・古城の旅(2)徳川家康出生の城、岡崎城

2014年10月21日 | 愛知・岐阜
長篠から急ぎ岡崎へとやってきました。時間は4時を過ぎ、閉館時間の4時30分が迫っています。

とにかく天守閣の最上階へのぼりました。岡崎城は鉄筋コンクリート3層5階建て、1959年に復元されました。エレベーターは付いていません。

岡崎城はいうまでもなく徳川家康の城、正確には出生の城です。

岡崎城は日本で4番目の規模の大きさの城郭だったそうです。



家康の遺訓「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くがごとし」の碑

龍城神社

空堀

松平元康の像。元康とは家康が今川家の人質だった時に今川義元の一字「元」をもらって名乗った名前です。

徳川家康像

城内の花時計

電話ボックス

三河武士のやかた家康館

大手門

岡崎城下二十七曲の石碑

徳川家康没後400年だそうです。


岡崎城の周囲は平成にできた公園のようにきれいに整備されています。

龍城堀の神橋

石垣

乙川に架かる殿橋

乙川越しに岡崎城が見えます。

JR岡崎駅前の松平元康像。JR岡崎駅から岡崎城へはバスで15分くらい、名鉄・東岡崎駅からは徒歩15分くらいです。










東海道・古城の旅(1)長篠の戦い、籠城戦を戦った長篠城

2014年10月20日 | 愛知・岐阜
秋の乗り放題きっぷを利用して2泊3日の東海道名城探訪の旅に出かけました。
初日の第1番は長篠の合戦で知られる長篠城です。

東海道線の豊橋から飯田線に乗り換え、長篠城駅で下車しました。

長篠城駅、もちろん無人駅です。公衆トイレではありません。

長篠城址史跡保存館の案内板。鳥居強右衛門については何かで読んだ記憶がありましたが、地元でこんなにヒーローとして扱われているとは知りませんでした。

長篠城址史跡保存館

保存館に入ると真っ先に鳥居強右衛門の説明があります。

長篠城の絵図

長篠城跡の石碑


本丸跡。野球グラウンドくらいの広さです。



本丸跡のすぐ下を飯田線の線路が通っています。本丸跡を削って線路を敷設したようです。

土塁と飯田線の線路


さかさ桑

徳川方の奥平貞昌が守る長篠城は武田勝頼の大軍に包囲され、孤立しました。奥平の家臣・鳥居強右衛門は援軍を呼ぶために城を脱出、織田・徳川軍と連絡をつけ、城に戻る途中で武田軍につかまりました。鳥居は武田方に「援軍は来ない」と城兵に叫ぶようにと強制されましたが、それを拒否したために磔となり、徳川軍の英雄となったのです。

長篠の合戦は長篠城の籠城戦が第1部、そこへ織田・徳川連合の援軍がきて設楽原に馬防柵など防衛ラインを構築、そこへ武田軍が押し寄せ、両軍が対峙しました。
第2部の戦闘は織田・徳川軍の別働隊が長篠城包囲に残った武田軍の支隊に対し迂回攻撃を加え籠城軍と合流、武田の支隊は壊滅。
武田軍本隊は西側の織田・徳川の本隊、東側からの長篠城奥平隊と別働隊に挟まれ、ついに織田・徳川本隊との決戦を挑み、織田軍の鉄砲隊により壊滅させられたというのが第3部です。

武田の騎馬隊は織田の鉄砲隊に敗れた、織田信長は鉄砲を活用し戦法に革命をもたらしたとされています。
そういった定説に異議を唱えるのは「長篠の戦い」(洋泉社歴史新書)の著者・藤本正行氏。氏は信長の戦法が優れていて、勝頼が愚かだったわけではなく、勝敗を分けたのは鉄砲の多い少ないの差であったと主張します。
よく言われている織田軍の鉄砲三千丁三段撃ちは弾込めに個人差が大きいので実戦では無理である、1巡目は一斉射撃が可能でも2巡目は早く弾を込めた人から先に射撃をしたと考えられる、全員が揃うまで待っているのでは射撃の好機を逸するといいます。
当時弾込めには数分の時間を要した、三段撃ちを可能とするには全員が数十秒で弾込めを終わらせなければならないそうです。

武田軍の敗因は時代遅れの騎馬隊にあったのではなく、大量の鉄砲や弾薬用の硝石を入手しにくいという甲斐信濃の地理的なハンディにある。
織田・徳川軍の別働隊が武田の包囲軍を撃破した時にすでに勝負あったで、その時点で武田の選択肢は戦わずに甲斐信濃へ脱出するか織田・徳川の本隊と決戦に挑むかしか残されておらず、織田方には京都など他の地域で波乱が起きない限りは負ける要素はほぼなかったということです。
そもそもは武田勝頼は三河へ大軍を率いて進軍したことが間違いだったようです。

設楽原歴史資料館にも行きたかったのですが、徒歩だと1時間近くかかるそうです。バスもタクシーもありません。また別の機会にするしかありませんでした。