タケホープの酔いどれ走遊記Ⅱ

アラカンの酔いどれランナーの実にくだらない日記
20数年ぶりのサブスリー復活を目指します。
禁酒しなきゃ無理⁉

まちあるき 忠臣蔵2

2024年01月30日 | 忠臣蔵

両国橋へ行きます。

 

両国

 

忠臣蔵 赤穂浪士休息の地

 元禄十五年(1702)12月14日、赤穂浪士は本所二ツ目の吉良邸に討ち入り、主君である浅野内匠頭の仇討ちを成し遂げました。

これが世に言う赤穂事件で、芝居などで「忠臣蔵」と呼ばれるようになりました。

 赤穂浪士が討ち入り後、泉岳寺への引き揚げ前に休息をした場所がここにあった広小路です。

吉良家への応援に駆けつけて来るであろう上杉家の家臣たちを迎え撃つ心算であったとの説もあります。

休息後、大名との無益な衝突を避けるため、登城路になる旧両国橋を渡らず、一之橋、永代橋を経由して、泉岳寺へと引き揚げました。

 

葛飾北斎⑤ 両国納涼 一の橋弁天

 

 

隅田川テラスに出ました。

カモメがいっぱい

右側の橋は、両国橋(修理中)

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まちあるき 忠臣蔵1

2024年01月26日 | 忠臣蔵

一之橋

 

忠臣蔵 一之橋

 幕府は低湿地であった本所の開発にあたり、洪水の被害を最小限に止めるため排水路を碁盤目状に開削し、掘り出した土を陸地の補強、嵩上げに利用しました。排水路は隅田川に対し縦・横に開削されました。

 万治二年(1659)、縦の代表格、竪川の開削と同時に架けられ、隅田川から入って一ツ目の橋という意で命名されたのが、この一之橋で長さ十三間、幅二間半ほど、ありました。

 竪川の両岸には全国から水運でもたらされる様々な物品を扱う商家や土蔵などが建ち並び、橋を行き交う人々も多く、大いに賑わいました。

 一之橋は、赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げる際に最初に渡った橋としても知られています。

 

尾張屋清七板 江戸切絵図

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