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スペインとポルトガルを巡る旅 36: 天才画家ゴヤ 1

2015年03月06日 | 連載完 スペインとポルトガルを巡る旅

< 1. 「ゴヤの肖像」ビセンテ・ロペス作、1826年、プラド蔵 >

今日は、スペインを代表する画家、先駆的で苦悩する画家でもあったゴヤを紹介します。
私はプラド美術館内を巡って、ゴヤの「陽と陰」の不思議に魅せられた。
数多い絵の中から、ゴヤの不思議と天才ぶりに焦点を当てて絵を選びました。


ゴヤの生涯(1746年~1828年)
スペイン北東部のサラゴサに近い寒村に鍍金師の子として生まれ、サラゴサで画家修行した。
中央進出を図って王立学校を2度受験するが落選する。
独力でイタリアに2年間留学し、1771年帰国後サラゴサでフレスコ画家になり、ピラール聖母教会の天井画も製作した。
1773年に同郷の宮廷画家の助力で、マドリードの王室タピストリーの原画を描いた。
1789年、国王カルロス4世の宮廷画家となり、10年後には主席宮廷画家として頂点を極めた。

しかし、彼に転機が訪れる。
1792年、彼は病に侵され聴力を失う。
スペインは、1807年にナポレオン軍が侵攻し、1814年まで独立戦争を戦った。
スペインは独立を回復したものの、その後、反動と不穏な政治が続いた。
ゴヤは1819年以降、マドリード郊外で一連の「黒い絵」(プラド蔵)を描く。
1824年、自由主義者への弾圧を嫌いフランスに亡命し、4年後82年の生涯を閉じた。




< 2.王宮での初期の作品 >
A: 「パラソル」1777年作、プラド蔵。初期のタピストリー原画。
B: 「吹雪(冬)」1786年作、プラド蔵。タピストリー原画。
C:「サン・イシードロの牧場」1788年作、プラド蔵。背景はマドリード。

ゴヤが描いた下絵のタピストリーは王室の食堂や寝室に飾られたものだが、庶民や素朴な暮らしが多く描かれていた。
これは王家の嗜好もあったのだろうが、彼の視点は民衆に向いていた。
絵Cは、後にシリーズ「黒の家」で、再び描かれることになる。


< 3.絶頂期の絵  >
D:「着衣のマハ」1797-1800年頃、プラド蔵。
E:「裸のマハ」同上。
F:「カルロス4世の家族」1800―1年頃、プラド蔵。

これらの絵はゴヤの絶頂期のものですが、既に聴力は失っていた。
当時、女性の裸像は神話の絵に限られていたので、大胆であった。
絵DとEは宰相の家にあって、発覚後、ゴヤは宗教裁判にかけられた。
絵Fは、ゴヤが主席宮廷画家になって最初に描いた絵で、この家族を痛烈に皮肉っている。
傲慢な王妃が中心で、貧相に描かれた王が脇に立っている。
この後、この王からの注文は無くなります、それはそうでしょう。
おもねることないゴヤの本領発揮です、16世紀のエル・グレコも同じでした。



< 4. 民衆を見詰めて >
G:「狂人の家」1794年、メドウズ美術館蔵。
H:「39番、祖父の代まで」1798年、版画集「気まぐれ」より。家系図に頼る貴族(ロバ)を風刺。
I:「23番、あの塵埃」同上。宗教裁判の様子。
J:「55番、死ぬまでは」同上。図Fの王妃?を風刺。

絵Gは、ゴヤが実際に精神病院を見て描いたらしい。
彼は聴力を失った後、人の苦しみに深く向き合うようになる。
彼は注文で描く画家から、自分の考えを世間に伝える画家として風刺の版画集を出版した。
彼はこの版画集「気まぐれ」(絵H,I,Jなど)で、「皆、理性を使え」と訴えた。

次回は、後半になります。



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