粗忽の釘
亭主: おい、おっかァ、荷物はみんな車へ積んだのか?
女房: それがねェ、いざ引っ越すとなると、なかなか多いもんだねェ。まだ積みきれないんだよ
亭主: それじゃァ、そのつづらは、おれがしょって行こう。おう、それから、その箪笥をとって、つづらの上に乗せろ
女房: おまえさん、これは重いよ
亭主: いいからだまって乗せろ。それからその文庫も・・・・・
女房: あら、こんなに積んでしょえるのかい?
亭主: つべこべ言わねェで、おれがいう通りにしろ。いいか。それから、針箱、鏡台、紙くず籠、やかん・・・・・
女房: おまえさん、こんなに高くなって、ほんとうにしょえるのかい?
亭主: さァさァ、細引きでぐっとしばって・・・・・うん、できた、できた。よしっ、これからしょいあげるぞ・・・・・
うん、うん、よいしょ・・・・・おいおい、亭主が重いものをしょうのに、なんだってぼんやり立ってるんだ?
ほんとうに不人情な女じゃァねえか。なんの手助けにならなくっても、荷の端へでも手をかけて力をそえるのが夫婦の情ってェもんだ・・・・・いいか、それっ、うん、うん、よいしょ・・・・・一番上の紙くず籠をおろしてくれ
女房: それごらんな。だから、こんなに積んでしょえるのかいと言ったンじゃァないか。それに、紙屑籠なんか取ったって、どうってことはないやね
亭主: だまってとんなよ。紙屑籠ひとつだって気分のもんだ。軽くなったなという心持ちで、ぐいとしょいあげることが・・・・・うん、うん、よいしょっ・・・・・やかんを取ってくれ
女房: なんだねェ、やかんぐらい取ったってしょうがないやね
亭主: だまってとれってンだ。人間てえものは気のもんだ。たとえやかんひとつでも、取れたと思やァ大変違わァ。
いいか、それ、よいしょ、うーん、うーん・・・・・おい、針箱を取ってくれ
女房: おまえさん、そんな軽いものばっかりとっても変わりはないよ・・・・・あらっ、おまえさん、いけないよ。
荷物といっしょに、うしろの柱まで結わえちゃったんだもの、この家ぐるみでなくっちゃァ持ち上がらないよ
亭主: えっ・・・・・なるほど、こりゃァ重たいわけだ・・・・・うん、柱までいっしょじゃァ、いくら力をいれても持ち上がらねえわけだ。ついでに箪笥と鏡台も取ってくれ。このつづらだけしょって行かァ・・・・・よいしょ、うん、うん、あァ、立てた。じゃァ、おれはでかけるからな
女房: あぁ、おまえさん、表へ出たらよく気をつけておくれよ
*と、ようやく亭主を送り出しますと、あとは、おかみさんが、手伝いのひとたちと荷を運んで、新宅のほうもすっかり片付きまして、手伝いのひとたちも帰りましたが、肝心のご亭主が、つづらをしょって出たっきりまいりません。いまか、いまかと待つうちに、ようようのことで、ご亭主が、重そうにつづらをしょって表を通りますから、
女房: ちょいとちょいと、おまえさん、どこへ行くの?
亭主: うん、どこへ行くもんか。引っ越しだ
女房: 引っ越しだもないもんだ。おまえさん、なにをしてたンだよ。朝早いうちに家を出て、もうじき夕方じゃァないか。いったいどこを歩いていたンだい?
亭主: うん、おっかァ、おらァ、じつにおどろいた
女房: また、はじまった。おまえさんぐらい、ものごとに驚く人はないねェ。猫があくびしたって驚いて、電車が動くって感心してさ・・・・・いったい、なんに驚いたンだい?
亭主: うん、あれからな、すぐに大通りへ出て四つ角へくると、大家ンとこの赤犬と、どっかの大きな黒犬がけんかしてるンだ。ところが、赤が旗色がわるくって下になっちまった。おれも心やすい犬だから、見て見ねェふりもできねェから、そばへ行って、『赤、ウシウシ』 といってやると、赤のやつ、急に元気づいてぴょいととび起きたンで、おらァ驚いてひっくりけえっちまった。ところが、つづらが重いもんで、どうにも起きることができねえ。足をばたばたやってると、往来のひとが親切に起こしてくれて、やれうれしやと思ったとたん、横丁から自転車がつゥーっと出てきて、どんとぶつかると、たまご屋の店へころがりこんで、たまごの箱の上へひっくりけえった
女房: あらまァ、あぶないじゃァないか。よくまァ怪我をしなかったね
亭主: うん、ひっくりけえったのは、おれじゃァねえ。自転車のほうだから、おらァなんともねえ
女房: あァそうかい。わたしゃァ、おまえさんかと思ってびっくりしたよ
亭主: するとな、たまご屋のおやじが出てきて承知しねえンだ。なにしろ、たまごを二百ばかりめちゃめちゃにつぶされちまったンだからな。そこへおまわりさんが出てきて、みんな交番へ連れて行ったから、おれもかかりあいだ。いっしょについていってみた
女房: まァ冗談じゃァないよ。重いものをしょって、交番へいってみることはないやね。で、どうしたの?
亭主: たまごの損害だけだして話はおさまったから、まァ安心して交番を出たンだが、気がついてみると、きょうは引っ越しだ。そこで、それからどんどんどんどん急いだンだよ。なんでも、こんどの家は、左っ側に豆腐屋があって、その横を曲がった角から二軒目だてェことを覚えてたから、なんでもかまわねェから豆腐屋を目当てにいったンだ。ところが、行けども行けども豆腐屋がねえ。ようようのことであったと思ったらこれが右っ側よ。しかたがねえからどんどん行くと、左っ側に豆腐屋があったンだが、その横に曲り角がねえ。曲がり角があるかご思うと、豆腐屋がねえ・・・・・こんなことをくりかえしてるうちに、まるっきり見当がつかなくなっちまった
女房: まァ、あきれたひとだねえ。それからどうしたの?
亭主: うん、もうこうなりゃァ、いままで住んでた家へひっけえして、はじめっから出直しだってンでもどってみると、家ン中はがらんとして、荷物ひとつありゃァしねえ。おらァくたびれたから、背中の荷物を下ろして一服やってると、いい具合に家主(イエヌシ)がやってきた。きっと見回りにきたンだな。ところが、俺がいたからおどろきゃァがったね、『おめえ、一体(イッテエ)どうしたンだ? あんなに朝早く出たくせに、どうして今ごろここに居るンだ?』 って、こう聞くンだ。『じつは、大家さん、引っ越す先がわからねえんで・・・・・』
『そんなばかなことがあるもんか。おめえが捜してきた家じゃァねえか』 『そりゃァ、あっしがさがしてきた家に違えありませんが、とにかくわかンねェンですから、大家さん、ご存知なら、どうかつれてっておくんなせえ』 『まったく厄介な野郎だ』 ってんでな、家主にそこまで送ってもらったンだ
女房: まァ、本当にやンなっちまうね。おまえさんてェ人は、どうしてそうそそっかしいンだろうねェ。おまえさんなんてェものはねェ、一人でうっちゃっておいたら、どこへ行くかわかりゃァしないよ。それもいいけど、そんなもの背負ってさ、いつまで門口に立っていないで、こっちへ入って、さっさとおろしたらどうなの?
重かァないのかい?
亭主: え? あァ、そうそう、荷物、荷物・・・・・どうも、おれも重いと思ったンだ。おいおい、そういうことはなァ、もっと早く教えるもんだよ。さんざっぱらしゃべらせといて、今ごろになってようやく教えやがら・・・・・
あーあ、こいつァ軽くなった
女房: あたりまえだよ。まァ、今日のところは、荷物はそのままでいいンだけれどね、困るのはねェ、そのほうきなのさ。ほうきなんてェものは寝かしとくと始末に悪いもんなんだから、それをかける釘を打っておくれよ
亭主: あァ、お安いご用だ。おい、ちょいと取ってくんなよ、そこののこを・・・・・
女房: のこォ?
亭主: のこだよ、のこぎり!
女房: のこぎりをどうするのさ?
亭主: どうもしねェさ。鍋を打つ・・・・・いや、その釜、じゃァねェ、釘を打つンだ
女房: 釘がのこぎりで打てるかい?
亭主: それだから、かんなを出せよ
女房: え? かんな?
亭主: かんなじゃァねえ、のみ・・・・じゃァねえ、じれってェな
女房: こっちがじれったいよ。釘を打つのは金づちでしょう?
亭主: それほど知ってるくせにそそっかしい女だ
女房: どっちがそそっかしいのさ。はい、金づち。しっかり打っとくれよ。あァ、長いのを頼むよ
亭主: わかってるよ。しっかりもハチのあたまもあるもんか。おらァ大工だよ。だまってまかせとけはいいンだ。
へん、生意気に指図がましいことを言いやがって・・・・・へん、こうやってかなづちを持たせりゃァ、だれにもぎーとも言わせるもんじゃァねえや・・・・・それッ、ったく、おれをなんだと思って・・・・・あ痛ッ!(と、右手をなめる) あッ、こっちじゃねえ (と、打ち付けた左の指をなめる) ったく・・・・・どうだ?
えェ? それッ、どんなもんだよ?
女房: おまえさん、おまえさん!!
亭主: なんだよ? 釘はこの通り打ったよ
女房: おまえさん、この通り打ったなんてすましてる場合じゃァないよ。そこはねェ、壁じゃァないか。お長屋の壁なんてェものはねェ、もう本当にうすいンだよ。そこへ打ち込ンでしまって・・・・・どんな釘を打ったのさ?
亭主: どんな釘って・・・・・おめえが長えのってぇから、一番長え瓦っ釘を打ったンだ
女房: あら、いやだよ。大変だよ。そんな長い釘を打ち込ンじまったのかい? おとなりの大事な道具へ傷をつけたらどうするンだい? 本当に大変なことになるよ。困ったねェ、どうも・・・・・まァ、やっちまったことでしかたがないから、おとなりからなんとも言われないうちに、早くこっちから行ってあやまっておいでな。
早く行っておいでよ
亭主: あァ、行ってくるよ
女房: 行ってくるよじゃァないよ。いいかい、おまえさん、落ち着いて行ってくるンだよ。落ち着かなきゃァだめだよ。
おまえさんだってねェ、落ち着きゃァ一人前なんだから・・・・・
亭主: なに言ってやンでェ。落ち着きゃァ一人前とはなんだ? じゃァなにか、落ち着かなきゃァ半人前か?
人をばかにすんねェ。世の中に半人前てェ人間があるもんかい。ほんとに俺をなんだと思ってやがるんだ。
亭主だぞ。亭主関白の位てェことを知らねェか。落ち着けば一人前だってやがる。なんてェことを言やがるンだ・・・・・やいッ、半人前なんでェ人間があるか!!
向人: おやッ、なんだい、ぶんぶん怒って・・・おかしな人が入ってきたな。おい、おまえ、この人を知ってるかい?
そうだろう。俺も知らねえンだが・・・・・えェ、いらっしゃいまし。なにかご用で?
亭主: なにを? なにかご用? なに言ってやンでェ。どこの世界に半人前なんてェ人間が・・・・・えへっ、こんちは
向人: 変な人だなァ。なんです?
亭主: へえ、どうも只今なんでございますが・・・・・
向人: なにがなんでございます?
亭主: それが、その、へえ、なんでございまして・・・なんでしょう?
向人: なんだかさっぱりわかりませんなァ
亭主: わかりません? ・・・・・あァそうそう・・・・・あのう、あっしゃァねェ、引っ越してきた者なんで・・・・・
向人: あァ、そうですか。道理で見かけないお方だと思った、で、引っ越しのごあいさつにおみえになったンで?
亭主: いえ、そんなこたァどうでもいいんですがねェ・・・・・出てませんか?
向人: また、やぶから棒ですな
亭主: いえ、壁から釘なんです
向人: なんです?
亭主: その、壁をなにしたンですが、どうでした?
向人: なんだかさっぱりわかりませんねェ
亭主: へえ、どうもなんでしたってね、なにまァ・・・・・おまえさん落ち着いて
向人: あなたのほうでおちつくンだ
亭主: へえ・・・・・その・・・・・じつはなんでございます。壁へほうきを打ち込みまして・・・・・
向人: え?
亭主: なにそうじゃァなかった。そのほうきの中へ壁を打ち込んで・・・・・いやいや・・・・・あのう・・・・・ほうきを掛けようと思ってね、釘を打ったンですが、壁と柱と間違えちまって、そのう・・・・・瓦っ釘を壁へ打ち込ンじまったんで・・・・・なにしろ長屋の壁はうすっぺらだ。ひょっとしたら、おまえさんところの道具へ傷でもつけやァしねェかと、かかァが言うもんですからやってきたンですが、ちょいと見てもらいてェんで・・・・・
向人: そいつァ大変だ。あァ・・・・ちょいと待ってくださいよ。あなたが引っ越してきた家てェのはどこなんです?
亭主: えェ、あすこなんです
向人: あすこっていうと・・・・・あなた、お向かいへ越しておいでなすったんで?
亭主: ええ、ええ・・・・・たしかに向こうの家へね、引っ越してきましたよ
向人: じゃァ大丈夫ですよ
亭主: いえ、瓦っ釘てェ、こんな長えんですから・・・・・
向人: でも、うちは大丈夫ですよ
亭主: 大丈夫じゃァねェんで。あなたは素人だからわからないでしょうけどね、こんな長え瓦っ釘・・・・・
向人: どうも話がわからなくって困るなァ。いいですか? あたしの家はこっち側で、あなたの家は向こう側ですよ。
往来をひとつへだてて、むこうからこっちまでとどく釘はないから、ご安心なさいよ
亭主: だから素人はこまるンだ。瓦っ釘って、こんな長え・・・・・あッ、あ、なるほど。あなたの家はこっち側だ
向人: そうですよ
亭主: で、あっしの家は向こう側だ。むこうからこってへ届く釘?! ・・・・・うん、こりゃァそんな長え釘はねえや。
こりゃァどうもしつれいしました。さようなら・・・・・あははは、こりゃァ驚いた。そうだよなァ、いかになんでも往来ひとつはなれてる家へ釘が届くはずはねえや。やっぱり俺はそそっかしいンだなァ。かかァの言う通りだ。おまえさんは落ち着けば一人前だって言やがったけれど、確かにおちつかなけりゃァ半人前だ。
よし、今度はうんと落ち着いてやろう。さて、落ち着いてみると・・・・・あれッ、俺の家はどれだったろう?
いけねえ、もうわからなくなっちまった。今出てきたンだから、なくなるはずはねえンだが・・・・・
こんちは・・・・・
向人: また来たよ・・・・・どうしました?
亭主: あっしの家はどこでしたっけ? ・・・・・あァ、向こう側の・・・・・あァ・・・・ありがとうござんす
向人: おい、変な人が越してきたから気をつけなよ
亭主: ああ、これだ、これだ・・・・・えェと、釘を打ったのは・・・・・そうそう、こっちだから・・・・・すると、釘を打ち込んだのはここの家だな。落ち着こう、落ち着いていこう・・・・・ええ、ごめんください
隣人: はいはい、いらっしゃいまし。なにかご用で?
亭主: へい、ちょいとあがらせてもらいます
隣人: なんだか変な人が来たなァ・・・・・あなた、どんなご用件で?
亭主: ええ、落ち着かせてもらいます
隣人: おい、ちょいと・・・・・あの、ざぶとん持っといで・・・・・おまえ、この人見たことあるかい? え? 見たことない? あたしも見たことないんだ・・・・・あがってきちまったんだから・・・・・どうぞ、あなた、ざぶとんをおあてください
亭主: こりゃァどうも・・・・・まァ、一服つけさせてもらいます
隣人: おい、このかたが煙草をお吸いになるンだからねえ、煙草盆へ火を入れて持って来てあげな
亭主: どうもすみません。とんだお手数をおかけしまして・・・・・
隣人: あのう・・・・・あなたはどなたさまなんで?
亭主: いえ、なに・・・・・えへへ、どなたさまってェほどの者じゃァねえんで・・・・・
隣人: いったいどんなご用がおありなんで?
亭主: えへへへ、なァにね、ご用てェほどのことはねェんで・・・・・ぐっと落ち着かせてもらいます・・・・・きょうは、いいあんばいにお天気になりましたな
隣人: はァ
亭主: この調子では、あしたも天気はよさそうですな
隣人: はァ、たぶん晴れましょう・・・・・あなた、いったいなにをしにいらしったんで?
亭主: ちょっとうかがいますが、あそこにおいでになるご婦人は、あなたのおかみさんですか?
隣人: ええ、そうです。あたしの家内ですが、あれがどうかしましたか?
亭主: いえ、べつにどうしたってことはありませんが、なんでございますか、仲人があっておもらいになったんでございますか? それともくっ付きあいで?
隣人: おかしな人だねェ。あたしンとこじゃァ、りっぱに仲人があってもらったンですが、それがどうかしましたか?
亭主: いえ、なに、どうしたわけじゃァありませんがね、なんでも仲人がなくっちゃァだめですねェ。あっしンとこはね、くっ付きあいなんで・・・・・
隣人: へーえ
亭主: あなたご存知でしょ? あそこに伊勢屋という質屋がありましてね
隣人: いえ、知りません
亭主: そんなはずは・・・・・ねえ、しらばっくれちゃァいけねェ
隣人: いや、べつにしらばっくれやァしません。その伊勢屋さんがどうしました?
亭主: あっしゃァねェ、大工なんですが、っしこの家へ仕事に行ってたときに、今のかかァが女中で働いてまして
ねえ、あるとき、あっしが弁当をつかおうとしますとねェ、あいつが出てきて、
『大工さん、これは、あんまりおいしくはないんだけれどもね、よかったら食べておくれ』 ってんで、塩の
甘え鮭なんぞ出してくれたンで・・・・・こいつァ、もう、ただごとじゃァねえと思ったからね、あくる日、前掛け
を買って持って行くと、
『まァ、ありがとう』 と、あっしの顔をじーっと見つめてにっこり笑いましたときには、あっしはぶるぶるっと
ふるえました。すると、あれが、
『大工さんおひとりですか?』 と聞きますから、
『どういたしまして、あっしのような貧乏人のかかァに成り手はありませんや』 ともうしますと、
『うまいことをおっしゃって・・・・・雨が降ってお仕事がないときはどうなさいます?』
『そんなときは家におります』
『あなたのお宅はどちらで?』
『このさきの荒物屋の二階を借りております』
『今度雨の降った日におじゃまにあがってもよろしゅうございますか?』
『ぜひ、いらっしゃい』 と申しますと、あれが真っ赤な顔をして、
『でも、あたしなんかがおじゃましたら、叱る人がおいででしょう?』 ってますから、
『なァに、そんなものがいるはずがねェじゃァありませんか』 と言って、あっしゃァ、あいつの手をぎゅーっとにぎったんで・・・・・
隣人: こりゃァ驚いた。あなた、そんなことをおっしゃりにいらしったンで?
亭主: そんなことをおっしゃりに? ・・・・・いけねェ・・・・・えへへへ、どうも失礼しました。さようなら
隣人: あれあれッ、あなた、お帰りになるンですか? なにかご用がおありなんじゃァありませんか?
亭主: そうそう、肝心の用を忘れて帰るところだった。あなた、そそっかしいや・・・・
隣人: そそっかしいのは、あなたですよ
亭主: へえ、じつはね、あっしゃァ、お隣へ引っ越して来たンで・・・・・なにぶんお心やすく願えます
隣人: あァ、さようで・・・・・こちらこそお心やすく願います。どうもわざわざご挨拶においでいただきまして・・・・・
亭主: いえ、そんなことはいいんですがね、じつは、その、なんです・・・・・かかァがね、ほうきを掛ける釘を打ってくれというもんですからね、打ってやったンですが、打った場所がよくねえんで、壁に打ち込んじまったもんで
・・・・・おまけにそれが一番長え瓦ッ釘だったもんでね、かかァのやつがびっくりしましてねェ、あんな長え釘を打って、もしも、その先がお隣へ出て、大事な道具へ傷をつけちゃァたいへんだ。行って、よく見てもらってあやまってこなくちゃァいけねえと、こう言いますもんで、それでやってきたンですが、すみませんが、ちょいと見ていただきてえンで・・・・・
隣人: えッ、瓦ッ釘を壁へ打ち込んだ?! そりゃァ大変だ。ちょいと待ってくださいよ。ちょっと見てきますから・・・・
うーん、こう見たところわかりませんなァ。あなた、釘を打ったのはどの辺ですか?
亭主: えェ? どの辺て言われると困るンですが、そうそう、くもの巣のあるところで・・・・・
隣人: そんなことは、あたしの家からはわかりませんからね・・・・・じゃァ、あなた、もう一ぺん家へ帰って、
釘を打ったところをたたいてみてください。そうすれば見当がつきますから・・・・・
亭主: あァなるほど・・・・・じゃァ、早速おういうことにいたします。ごめんください・・・・・・・
・・・・・えェっと、となりの旦那! どうですか? わかりましたか?
隣人: いえ、どこですか?
亭主: ここですよ、ここ。指差してンのがわかりませんか?
隣人: あなた、指で指したってわかりませんよ。あたまァたたいて下さいな
亭主: あァ、あたまね。どうです?
隣人: たたく音はするんですけど・・・・・ひょっとして・・・・・あなた、釘のあたまですよ、釘の
亭主: 早く言ってくださいよ。どうも痛いと思ったよ・・・・いいですか? いきますよ!
ここ、ここですよ
隣人: おォッ、仏壇がゆれてるな・・・・・あッ、大変だ!! あァわかりました。わかりましたから、もういい、
いいから、もう一ぺんこっちへ来てください
亭主: へい、どうもしみません。どうなりました?
隣人: どうなりましたじゃァありませんよ。まァいいから、こっちへきて仏壇を見ておくんなさい
亭主: へえどこで? ・・・・・おやおや、ごりっぱな仏壇ですな
隣人: ごりっぱはどうでもいいが、阿弥陀さまのあたまの上を見てごらんなさい
亭主: 阿弥陀さまの頭の上を? ・・・・・おや、ずいぶん長い釘がうってありますなァ。
お宅じゃァあすこへほうきをかけるンで?
隣人: 冗談言っちゃァいけません。ありゃァ、あなたの打った釘ですよ
亭主: ははァ、こんな見当にあたりますか・・・・
隣人: のんきなことを言ってちゃァ困るなァ。本当にあきれちまう。あなたは、まァ、そんなにそそっかしくて、よく暮らしていけますなァ。ご家内はおいく人で?
亭主: えェ、あっしにかかァに、七十八になるおやじの三人で・・・・・
隣人: へーえ、そうですか? おみかけしたところ、お年寄りはどうも見えませんでしたが・・・・・
亭主: あッ、大変だ。じつは、おやじは三年前から中気で寝ておりますが、二階へ寝かしたまま忘れてきちまった
隣人: こりゃァ驚いた。どんなにそそっかしいといって、自分の親を忘れで来る人がありますか?
亭主: なァに、親をわすれるぐれえはあたりめえでさァ。酒を飲むと、ときどき吾(ワレ)を忘れます
亭主: おい、おっかァ、荷物はみんな車へ積んだのか?
女房: それがねェ、いざ引っ越すとなると、なかなか多いもんだねェ。まだ積みきれないんだよ
亭主: それじゃァ、そのつづらは、おれがしょって行こう。おう、それから、その箪笥をとって、つづらの上に乗せろ
女房: おまえさん、これは重いよ
亭主: いいからだまって乗せろ。それからその文庫も・・・・・
女房: あら、こんなに積んでしょえるのかい?
亭主: つべこべ言わねェで、おれがいう通りにしろ。いいか。それから、針箱、鏡台、紙くず籠、やかん・・・・・
女房: おまえさん、こんなに高くなって、ほんとうにしょえるのかい?
亭主: さァさァ、細引きでぐっとしばって・・・・・うん、できた、できた。よしっ、これからしょいあげるぞ・・・・・
うん、うん、よいしょ・・・・・おいおい、亭主が重いものをしょうのに、なんだってぼんやり立ってるんだ?
ほんとうに不人情な女じゃァねえか。なんの手助けにならなくっても、荷の端へでも手をかけて力をそえるのが夫婦の情ってェもんだ・・・・・いいか、それっ、うん、うん、よいしょ・・・・・一番上の紙くず籠をおろしてくれ
女房: それごらんな。だから、こんなに積んでしょえるのかいと言ったンじゃァないか。それに、紙屑籠なんか取ったって、どうってことはないやね
亭主: だまってとんなよ。紙屑籠ひとつだって気分のもんだ。軽くなったなという心持ちで、ぐいとしょいあげることが・・・・・うん、うん、よいしょっ・・・・・やかんを取ってくれ
女房: なんだねェ、やかんぐらい取ったってしょうがないやね
亭主: だまってとれってンだ。人間てえものは気のもんだ。たとえやかんひとつでも、取れたと思やァ大変違わァ。
いいか、それ、よいしょ、うーん、うーん・・・・・おい、針箱を取ってくれ
女房: おまえさん、そんな軽いものばっかりとっても変わりはないよ・・・・・あらっ、おまえさん、いけないよ。
荷物といっしょに、うしろの柱まで結わえちゃったんだもの、この家ぐるみでなくっちゃァ持ち上がらないよ
亭主: えっ・・・・・なるほど、こりゃァ重たいわけだ・・・・・うん、柱までいっしょじゃァ、いくら力をいれても持ち上がらねえわけだ。ついでに箪笥と鏡台も取ってくれ。このつづらだけしょって行かァ・・・・・よいしょ、うん、うん、あァ、立てた。じゃァ、おれはでかけるからな
女房: あぁ、おまえさん、表へ出たらよく気をつけておくれよ
*と、ようやく亭主を送り出しますと、あとは、おかみさんが、手伝いのひとたちと荷を運んで、新宅のほうもすっかり片付きまして、手伝いのひとたちも帰りましたが、肝心のご亭主が、つづらをしょって出たっきりまいりません。いまか、いまかと待つうちに、ようようのことで、ご亭主が、重そうにつづらをしょって表を通りますから、
女房: ちょいとちょいと、おまえさん、どこへ行くの?
亭主: うん、どこへ行くもんか。引っ越しだ
女房: 引っ越しだもないもんだ。おまえさん、なにをしてたンだよ。朝早いうちに家を出て、もうじき夕方じゃァないか。いったいどこを歩いていたンだい?
亭主: うん、おっかァ、おらァ、じつにおどろいた
女房: また、はじまった。おまえさんぐらい、ものごとに驚く人はないねェ。猫があくびしたって驚いて、電車が動くって感心してさ・・・・・いったい、なんに驚いたンだい?
亭主: うん、あれからな、すぐに大通りへ出て四つ角へくると、大家ンとこの赤犬と、どっかの大きな黒犬がけんかしてるンだ。ところが、赤が旗色がわるくって下になっちまった。おれも心やすい犬だから、見て見ねェふりもできねェから、そばへ行って、『赤、ウシウシ』 といってやると、赤のやつ、急に元気づいてぴょいととび起きたンで、おらァ驚いてひっくりけえっちまった。ところが、つづらが重いもんで、どうにも起きることができねえ。足をばたばたやってると、往来のひとが親切に起こしてくれて、やれうれしやと思ったとたん、横丁から自転車がつゥーっと出てきて、どんとぶつかると、たまご屋の店へころがりこんで、たまごの箱の上へひっくりけえった
女房: あらまァ、あぶないじゃァないか。よくまァ怪我をしなかったね
亭主: うん、ひっくりけえったのは、おれじゃァねえ。自転車のほうだから、おらァなんともねえ
女房: あァそうかい。わたしゃァ、おまえさんかと思ってびっくりしたよ
亭主: するとな、たまご屋のおやじが出てきて承知しねえンだ。なにしろ、たまごを二百ばかりめちゃめちゃにつぶされちまったンだからな。そこへおまわりさんが出てきて、みんな交番へ連れて行ったから、おれもかかりあいだ。いっしょについていってみた
女房: まァ冗談じゃァないよ。重いものをしょって、交番へいってみることはないやね。で、どうしたの?
亭主: たまごの損害だけだして話はおさまったから、まァ安心して交番を出たンだが、気がついてみると、きょうは引っ越しだ。そこで、それからどんどんどんどん急いだンだよ。なんでも、こんどの家は、左っ側に豆腐屋があって、その横を曲がった角から二軒目だてェことを覚えてたから、なんでもかまわねェから豆腐屋を目当てにいったンだ。ところが、行けども行けども豆腐屋がねえ。ようようのことであったと思ったらこれが右っ側よ。しかたがねえからどんどん行くと、左っ側に豆腐屋があったンだが、その横に曲り角がねえ。曲がり角があるかご思うと、豆腐屋がねえ・・・・・こんなことをくりかえしてるうちに、まるっきり見当がつかなくなっちまった
女房: まァ、あきれたひとだねえ。それからどうしたの?
亭主: うん、もうこうなりゃァ、いままで住んでた家へひっけえして、はじめっから出直しだってンでもどってみると、家ン中はがらんとして、荷物ひとつありゃァしねえ。おらァくたびれたから、背中の荷物を下ろして一服やってると、いい具合に家主(イエヌシ)がやってきた。きっと見回りにきたンだな。ところが、俺がいたからおどろきゃァがったね、『おめえ、一体(イッテエ)どうしたンだ? あんなに朝早く出たくせに、どうして今ごろここに居るンだ?』 って、こう聞くンだ。『じつは、大家さん、引っ越す先がわからねえんで・・・・・』
『そんなばかなことがあるもんか。おめえが捜してきた家じゃァねえか』 『そりゃァ、あっしがさがしてきた家に違えありませんが、とにかくわかンねェンですから、大家さん、ご存知なら、どうかつれてっておくんなせえ』 『まったく厄介な野郎だ』 ってんでな、家主にそこまで送ってもらったンだ
女房: まァ、本当にやンなっちまうね。おまえさんてェ人は、どうしてそうそそっかしいンだろうねェ。おまえさんなんてェものはねェ、一人でうっちゃっておいたら、どこへ行くかわかりゃァしないよ。それもいいけど、そんなもの背負ってさ、いつまで門口に立っていないで、こっちへ入って、さっさとおろしたらどうなの?
重かァないのかい?
亭主: え? あァ、そうそう、荷物、荷物・・・・・どうも、おれも重いと思ったンだ。おいおい、そういうことはなァ、もっと早く教えるもんだよ。さんざっぱらしゃべらせといて、今ごろになってようやく教えやがら・・・・・
あーあ、こいつァ軽くなった
女房: あたりまえだよ。まァ、今日のところは、荷物はそのままでいいンだけれどね、困るのはねェ、そのほうきなのさ。ほうきなんてェものは寝かしとくと始末に悪いもんなんだから、それをかける釘を打っておくれよ
亭主: あァ、お安いご用だ。おい、ちょいと取ってくんなよ、そこののこを・・・・・
女房: のこォ?
亭主: のこだよ、のこぎり!
女房: のこぎりをどうするのさ?
亭主: どうもしねェさ。鍋を打つ・・・・・いや、その釜、じゃァねェ、釘を打つンだ
女房: 釘がのこぎりで打てるかい?
亭主: それだから、かんなを出せよ
女房: え? かんな?
亭主: かんなじゃァねえ、のみ・・・・じゃァねえ、じれってェな
女房: こっちがじれったいよ。釘を打つのは金づちでしょう?
亭主: それほど知ってるくせにそそっかしい女だ
女房: どっちがそそっかしいのさ。はい、金づち。しっかり打っとくれよ。あァ、長いのを頼むよ
亭主: わかってるよ。しっかりもハチのあたまもあるもんか。おらァ大工だよ。だまってまかせとけはいいンだ。
へん、生意気に指図がましいことを言いやがって・・・・・へん、こうやってかなづちを持たせりゃァ、だれにもぎーとも言わせるもんじゃァねえや・・・・・それッ、ったく、おれをなんだと思って・・・・・あ痛ッ!(と、右手をなめる) あッ、こっちじゃねえ (と、打ち付けた左の指をなめる) ったく・・・・・どうだ?
えェ? それッ、どんなもんだよ?
女房: おまえさん、おまえさん!!
亭主: なんだよ? 釘はこの通り打ったよ
女房: おまえさん、この通り打ったなんてすましてる場合じゃァないよ。そこはねェ、壁じゃァないか。お長屋の壁なんてェものはねェ、もう本当にうすいンだよ。そこへ打ち込ンでしまって・・・・・どんな釘を打ったのさ?
亭主: どんな釘って・・・・・おめえが長えのってぇから、一番長え瓦っ釘を打ったンだ
女房: あら、いやだよ。大変だよ。そんな長い釘を打ち込ンじまったのかい? おとなりの大事な道具へ傷をつけたらどうするンだい? 本当に大変なことになるよ。困ったねェ、どうも・・・・・まァ、やっちまったことでしかたがないから、おとなりからなんとも言われないうちに、早くこっちから行ってあやまっておいでな。
早く行っておいでよ
亭主: あァ、行ってくるよ
女房: 行ってくるよじゃァないよ。いいかい、おまえさん、落ち着いて行ってくるンだよ。落ち着かなきゃァだめだよ。
おまえさんだってねェ、落ち着きゃァ一人前なんだから・・・・・
亭主: なに言ってやンでェ。落ち着きゃァ一人前とはなんだ? じゃァなにか、落ち着かなきゃァ半人前か?
人をばかにすんねェ。世の中に半人前てェ人間があるもんかい。ほんとに俺をなんだと思ってやがるんだ。
亭主だぞ。亭主関白の位てェことを知らねェか。落ち着けば一人前だってやがる。なんてェことを言やがるンだ・・・・・やいッ、半人前なんでェ人間があるか!!
向人: おやッ、なんだい、ぶんぶん怒って・・・おかしな人が入ってきたな。おい、おまえ、この人を知ってるかい?
そうだろう。俺も知らねえンだが・・・・・えェ、いらっしゃいまし。なにかご用で?
亭主: なにを? なにかご用? なに言ってやンでェ。どこの世界に半人前なんてェ人間が・・・・・えへっ、こんちは
向人: 変な人だなァ。なんです?
亭主: へえ、どうも只今なんでございますが・・・・・
向人: なにがなんでございます?
亭主: それが、その、へえ、なんでございまして・・・なんでしょう?
向人: なんだかさっぱりわかりませんなァ
亭主: わかりません? ・・・・・あァそうそう・・・・・あのう、あっしゃァねェ、引っ越してきた者なんで・・・・・
向人: あァ、そうですか。道理で見かけないお方だと思った、で、引っ越しのごあいさつにおみえになったンで?
亭主: いえ、そんなこたァどうでもいいんですがねェ・・・・・出てませんか?
向人: また、やぶから棒ですな
亭主: いえ、壁から釘なんです
向人: なんです?
亭主: その、壁をなにしたンですが、どうでした?
向人: なんだかさっぱりわかりませんねェ
亭主: へえ、どうもなんでしたってね、なにまァ・・・・・おまえさん落ち着いて
向人: あなたのほうでおちつくンだ
亭主: へえ・・・・・その・・・・・じつはなんでございます。壁へほうきを打ち込みまして・・・・・
向人: え?
亭主: なにそうじゃァなかった。そのほうきの中へ壁を打ち込んで・・・・・いやいや・・・・・あのう・・・・・ほうきを掛けようと思ってね、釘を打ったンですが、壁と柱と間違えちまって、そのう・・・・・瓦っ釘を壁へ打ち込ンじまったんで・・・・・なにしろ長屋の壁はうすっぺらだ。ひょっとしたら、おまえさんところの道具へ傷でもつけやァしねェかと、かかァが言うもんですからやってきたンですが、ちょいと見てもらいてェんで・・・・・
向人: そいつァ大変だ。あァ・・・・ちょいと待ってくださいよ。あなたが引っ越してきた家てェのはどこなんです?
亭主: えェ、あすこなんです
向人: あすこっていうと・・・・・あなた、お向かいへ越しておいでなすったんで?
亭主: ええ、ええ・・・・・たしかに向こうの家へね、引っ越してきましたよ
向人: じゃァ大丈夫ですよ
亭主: いえ、瓦っ釘てェ、こんな長えんですから・・・・・
向人: でも、うちは大丈夫ですよ
亭主: 大丈夫じゃァねェんで。あなたは素人だからわからないでしょうけどね、こんな長え瓦っ釘・・・・・
向人: どうも話がわからなくって困るなァ。いいですか? あたしの家はこっち側で、あなたの家は向こう側ですよ。
往来をひとつへだてて、むこうからこっちまでとどく釘はないから、ご安心なさいよ
亭主: だから素人はこまるンだ。瓦っ釘って、こんな長え・・・・・あッ、あ、なるほど。あなたの家はこっち側だ
向人: そうですよ
亭主: で、あっしの家は向こう側だ。むこうからこってへ届く釘?! ・・・・・うん、こりゃァそんな長え釘はねえや。
こりゃァどうもしつれいしました。さようなら・・・・・あははは、こりゃァ驚いた。そうだよなァ、いかになんでも往来ひとつはなれてる家へ釘が届くはずはねえや。やっぱり俺はそそっかしいンだなァ。かかァの言う通りだ。おまえさんは落ち着けば一人前だって言やがったけれど、確かにおちつかなけりゃァ半人前だ。
よし、今度はうんと落ち着いてやろう。さて、落ち着いてみると・・・・・あれッ、俺の家はどれだったろう?
いけねえ、もうわからなくなっちまった。今出てきたンだから、なくなるはずはねえンだが・・・・・
こんちは・・・・・
向人: また来たよ・・・・・どうしました?
亭主: あっしの家はどこでしたっけ? ・・・・・あァ、向こう側の・・・・・あァ・・・・ありがとうござんす
向人: おい、変な人が越してきたから気をつけなよ
亭主: ああ、これだ、これだ・・・・・えェと、釘を打ったのは・・・・・そうそう、こっちだから・・・・・すると、釘を打ち込んだのはここの家だな。落ち着こう、落ち着いていこう・・・・・ええ、ごめんください
隣人: はいはい、いらっしゃいまし。なにかご用で?
亭主: へい、ちょいとあがらせてもらいます
隣人: なんだか変な人が来たなァ・・・・・あなた、どんなご用件で?
亭主: ええ、落ち着かせてもらいます
隣人: おい、ちょいと・・・・・あの、ざぶとん持っといで・・・・・おまえ、この人見たことあるかい? え? 見たことない? あたしも見たことないんだ・・・・・あがってきちまったんだから・・・・・どうぞ、あなた、ざぶとんをおあてください
亭主: こりゃァどうも・・・・・まァ、一服つけさせてもらいます
隣人: おい、このかたが煙草をお吸いになるンだからねえ、煙草盆へ火を入れて持って来てあげな
亭主: どうもすみません。とんだお手数をおかけしまして・・・・・
隣人: あのう・・・・・あなたはどなたさまなんで?
亭主: いえ、なに・・・・・えへへ、どなたさまってェほどの者じゃァねえんで・・・・・
隣人: いったいどんなご用がおありなんで?
亭主: えへへへ、なァにね、ご用てェほどのことはねェんで・・・・・ぐっと落ち着かせてもらいます・・・・・きょうは、いいあんばいにお天気になりましたな
隣人: はァ
亭主: この調子では、あしたも天気はよさそうですな
隣人: はァ、たぶん晴れましょう・・・・・あなた、いったいなにをしにいらしったんで?
亭主: ちょっとうかがいますが、あそこにおいでになるご婦人は、あなたのおかみさんですか?
隣人: ええ、そうです。あたしの家内ですが、あれがどうかしましたか?
亭主: いえ、べつにどうしたってことはありませんが、なんでございますか、仲人があっておもらいになったんでございますか? それともくっ付きあいで?
隣人: おかしな人だねェ。あたしンとこじゃァ、りっぱに仲人があってもらったンですが、それがどうかしましたか?
亭主: いえ、なに、どうしたわけじゃァありませんがね、なんでも仲人がなくっちゃァだめですねェ。あっしンとこはね、くっ付きあいなんで・・・・・
隣人: へーえ
亭主: あなたご存知でしょ? あそこに伊勢屋という質屋がありましてね
隣人: いえ、知りません
亭主: そんなはずは・・・・・ねえ、しらばっくれちゃァいけねェ
隣人: いや、べつにしらばっくれやァしません。その伊勢屋さんがどうしました?
亭主: あっしゃァねェ、大工なんですが、っしこの家へ仕事に行ってたときに、今のかかァが女中で働いてまして
ねえ、あるとき、あっしが弁当をつかおうとしますとねェ、あいつが出てきて、
『大工さん、これは、あんまりおいしくはないんだけれどもね、よかったら食べておくれ』 ってんで、塩の
甘え鮭なんぞ出してくれたンで・・・・・こいつァ、もう、ただごとじゃァねえと思ったからね、あくる日、前掛け
を買って持って行くと、
『まァ、ありがとう』 と、あっしの顔をじーっと見つめてにっこり笑いましたときには、あっしはぶるぶるっと
ふるえました。すると、あれが、
『大工さんおひとりですか?』 と聞きますから、
『どういたしまして、あっしのような貧乏人のかかァに成り手はありませんや』 ともうしますと、
『うまいことをおっしゃって・・・・・雨が降ってお仕事がないときはどうなさいます?』
『そんなときは家におります』
『あなたのお宅はどちらで?』
『このさきの荒物屋の二階を借りております』
『今度雨の降った日におじゃまにあがってもよろしゅうございますか?』
『ぜひ、いらっしゃい』 と申しますと、あれが真っ赤な顔をして、
『でも、あたしなんかがおじゃましたら、叱る人がおいででしょう?』 ってますから、
『なァに、そんなものがいるはずがねェじゃァありませんか』 と言って、あっしゃァ、あいつの手をぎゅーっとにぎったんで・・・・・
隣人: こりゃァ驚いた。あなた、そんなことをおっしゃりにいらしったンで?
亭主: そんなことをおっしゃりに? ・・・・・いけねェ・・・・・えへへへ、どうも失礼しました。さようなら
隣人: あれあれッ、あなた、お帰りになるンですか? なにかご用がおありなんじゃァありませんか?
亭主: そうそう、肝心の用を忘れて帰るところだった。あなた、そそっかしいや・・・・
隣人: そそっかしいのは、あなたですよ
亭主: へえ、じつはね、あっしゃァ、お隣へ引っ越して来たンで・・・・・なにぶんお心やすく願えます
隣人: あァ、さようで・・・・・こちらこそお心やすく願います。どうもわざわざご挨拶においでいただきまして・・・・・
亭主: いえ、そんなことはいいんですがね、じつは、その、なんです・・・・・かかァがね、ほうきを掛ける釘を打ってくれというもんですからね、打ってやったンですが、打った場所がよくねえんで、壁に打ち込んじまったもんで
・・・・・おまけにそれが一番長え瓦ッ釘だったもんでね、かかァのやつがびっくりしましてねェ、あんな長え釘を打って、もしも、その先がお隣へ出て、大事な道具へ傷をつけちゃァたいへんだ。行って、よく見てもらってあやまってこなくちゃァいけねえと、こう言いますもんで、それでやってきたンですが、すみませんが、ちょいと見ていただきてえンで・・・・・
隣人: えッ、瓦ッ釘を壁へ打ち込んだ?! そりゃァ大変だ。ちょいと待ってくださいよ。ちょっと見てきますから・・・・
うーん、こう見たところわかりませんなァ。あなた、釘を打ったのはどの辺ですか?
亭主: えェ? どの辺て言われると困るンですが、そうそう、くもの巣のあるところで・・・・・
隣人: そんなことは、あたしの家からはわかりませんからね・・・・・じゃァ、あなた、もう一ぺん家へ帰って、
釘を打ったところをたたいてみてください。そうすれば見当がつきますから・・・・・
亭主: あァなるほど・・・・・じゃァ、早速おういうことにいたします。ごめんください・・・・・・・
・・・・・えェっと、となりの旦那! どうですか? わかりましたか?
隣人: いえ、どこですか?
亭主: ここですよ、ここ。指差してンのがわかりませんか?
隣人: あなた、指で指したってわかりませんよ。あたまァたたいて下さいな
亭主: あァ、あたまね。どうです?
隣人: たたく音はするんですけど・・・・・ひょっとして・・・・・あなた、釘のあたまですよ、釘の
亭主: 早く言ってくださいよ。どうも痛いと思ったよ・・・・いいですか? いきますよ!
ここ、ここですよ
隣人: おォッ、仏壇がゆれてるな・・・・・あッ、大変だ!! あァわかりました。わかりましたから、もういい、
いいから、もう一ぺんこっちへ来てください
亭主: へい、どうもしみません。どうなりました?
隣人: どうなりましたじゃァありませんよ。まァいいから、こっちへきて仏壇を見ておくんなさい
亭主: へえどこで? ・・・・・おやおや、ごりっぱな仏壇ですな
隣人: ごりっぱはどうでもいいが、阿弥陀さまのあたまの上を見てごらんなさい
亭主: 阿弥陀さまの頭の上を? ・・・・・おや、ずいぶん長い釘がうってありますなァ。
お宅じゃァあすこへほうきをかけるンで?
隣人: 冗談言っちゃァいけません。ありゃァ、あなたの打った釘ですよ
亭主: ははァ、こんな見当にあたりますか・・・・
隣人: のんきなことを言ってちゃァ困るなァ。本当にあきれちまう。あなたは、まァ、そんなにそそっかしくて、よく暮らしていけますなァ。ご家内はおいく人で?
亭主: えェ、あっしにかかァに、七十八になるおやじの三人で・・・・・
隣人: へーえ、そうですか? おみかけしたところ、お年寄りはどうも見えませんでしたが・・・・・
亭主: あッ、大変だ。じつは、おやじは三年前から中気で寝ておりますが、二階へ寝かしたまま忘れてきちまった
隣人: こりゃァ驚いた。どんなにそそっかしいといって、自分の親を忘れで来る人がありますか?
亭主: なァに、親をわすれるぐれえはあたりめえでさァ。酒を飲むと、ときどき吾(ワレ)を忘れます