モリッシーはパン、ポテト、パスタ、そしてナッツしか食べない。「レストランに行くと、いつもすぐにキッズ・メニューを見る」
ぼくは動物を食べない。鳥も、魚もね。それから、自分のことをヴィーガンやベジタリアンや肉食といった型にはめてもいない。ぼくはぼくでしかないからね。
母親がいる生き物は食べないっていうこと。単純なことさ。だから食事には苦労している。ぼくはパン、ポテト、パスタ、ナッツしか食べないからね。胃にもたれる食べ物ばかりさ。それから、香りが強いものも食べられないんだ。カレーやコーヒー、ニンニクは一度も口にしたことがない。
レストランに行って、メニューを渡される時ほどしょんぼりした気持ちになることはないよ。いつもすぐにキッズ・メニューを見る。メニューの中にベイクド・ビーンズを見つけられた夜は上出来だね。そういうことだから、ぼくをレストランに連れて行く時はトースターを忘れないようにしなきゃだめだよ。
実際のところ、ヴィーガンというのは高尚な人間だと言える。
最近、イギリスのどこかの養鴨場のドキュメンタリーを見たんだ。保育器から出てくるひな鳥が鳴き声をあげるたびに、プレゼンターが「あらら、本当にかわいいですね、とっても綺麗。見てください、なんて小さな顔なの?」なんてコメントしているんだけど、次の瞬間カメラに向き直して、冷静な口調で「このひな鳥たちは8週間しか生きることを許されず、すぐに食肉処理されるのです」なんて言っているんだよ。
それで思ったんだ。ああ、人間というのはなんて頭が悪い生き物なんだろうってね。これが、ぼくたちが今直面していることなんだよ。ひな鳥たちが美しいと認識していながら、その内臓にしゃぶりつきたい人間が存在するがために8週間しか生かさない。
なんて野蛮なんだ。自分達がどれほど残忍なことをしているのか、自認しているのだろうか?
モリッシーの叫びっていつも物凄く率直で感動するんですよね。
普通、こういったことを公で言うと必ず嫌われて嫌がらせされたりとかリスクを被りますから、できるだけ我慢している人は多いと想うんです。
でもモリッシーは自分の命すらくれてやると言わんばかりにいつも社会に対する悲しみを素直に発言してくれるから本当に感動するし励まされます。
「Vegan(ヴィーガン)」と言う言葉はこの日本でも着々と広がっているように感じています。
ベジタリアンとどこが違う? 最近よく聞く「ヴィーガン」の定義
ヴィーガンは卵、牛乳、ゼリーも食べない
完全菜食主義者を意味するVegan(ヴィーガン)という言葉が生まれたのは1944年のイギリス。
もともとは「酪農製品(卵・牛乳・チーズなどの乳製品)を食べないベジタリアン」を指す言葉として、一般的なベジタリアンと区別するために使われるようになりました。
徹底した菜食主義を貫くヴィーガンの思想は、一言でいうと「人間は動物を搾取することなく生きるべきだ」という考え方です。
そのため、肉や魚はもちろん、卵、チーズ、バター類、はちみつ、ゼラチンなども一切口にしません。
なぜなら卵や乳製品は、それを生み出す鶏や牛を苦しめたり、早すぎる死をもたらしたりするものだから。
そう、ヴィーガンという生き方の根底にあるのは動物愛護の精神であり、ここが健康志向から生まれたベジタリアンとの大きな違いなのです。
ヴィーガンはウールや毛皮も着ない
ヴィーガンの思想は食生活だけに限りません。着るものや住まい、衣食住すべてのライフスタイルにおいても、動物性の素材を使用しないのが彼らのポリシー。
革製品の靴やバッグ、ウールの服などは決して身につけません。
シルクの下着やファーのコート、革の財布なども当然NG。
また、洗顔料やボディーソープ、コスメ用品も動物性油、ハチミツ、牛乳、卵の成分が抽出されていないものを使うなど、生活全般において「動物性の素材を使わない」のがヴィーガンの生き方なのです。
そうはいっても、ストイックで質素な料理ばかりではありません。
最近では日本国内にも完全菜食をうたったヴィーガン・レストランが登場。見た目にも華やかで、体に優しいメニューが評判を呼んでいます。
普段の食事でも、肉の代わりに大豆や豆腐、牛乳の代わりに豆乳やココナッツミルクを使えば、お手軽にヴィーガン食を作ることができます。
自分は此処に書いている一つを除いてすべて2015年の9月から厳守しています。(これに加えて動物実験を行なって開発された生活用品(化粧品、洗剤など)を一切買いません。西洋医薬はここ6年で歯医者で貰った化膿止めを飲んだくらいです。)
護れていないのは「蜂蜜を一切摂らない」ということです。
こないだもココイチの特定原材料を含まないカレーを出前で取っちゃいましたからね…
でも2012年の2月からココイチのカレー以外で蜂蜜の入ったものを食べたことはありません。(自分が蜂蜜をたまに摂ってしまうようになったのは一つに姉や知り合いといつも高価なベジタリアンレストランに行くことが出来ないことと、一つは農薬や化学肥料で作られた食物やお酒を買っていることと(農薬や化学肥料は大量の益虫、害虫を殺します)、蜂蜜だけは摂らないことの矛盾性に気付いたからです。それでもこれからもココイチのカレー以外で蜂蜜を摂る気はありませんし、食費の許す限りはオーガニック、自然栽培のものを買うことを心掛けています。)
でも蜂蜜たまに摂るならVeganって名乗っていいの?と人も自分も疑問に想いますし、ゆるVeganって名乗るのもちょっとなと想って、もうそれなら「完全菜食者」でいいんじゃないかと最近よく想います。
ネット上でヴィーガンに対する偏見がここ数年でものすごい増えてきているように感じるんですよね。
でもヴィーガンにもそれぞれ微妙な主張の違いがあり、言うことも性格も千差万別です。
よく「上から目線で言うな」という肉食者の反論を見かけます。
これは肉食者が勝手に下から目線でヴィーガンを見ているからではないかと想うときが多いです。
それはヴィーガンの生き方が本当は正しいんだとどこかで想っているからだと想うんですよね。
正しいと想う相手に反論するとき、同等の目線で反論できていないのです。
ヴィーガンはただ、ヴィーガンはこれほど素晴らしいんだとただ話したとしても、肉食者は「押し付けられている」と感じるのではないでしょうか。
自分が心からその生き方に対して「NO」を貫いているなら、相手が強要もしていないことに対して、「押し付けられている」と感じることはあまりないように感じます。
例えばさっきの記事では、モリッシーが肉食という行為がどれほど野蛮な行為であるのかを自認しているのだろうか?と疑問を投げています。
面と向って、これを言われた場合、押し付けられていると感じますか?
しかし実際、それが野蛮であることは確かです。
もし、全員が全員、自分の手で野生動物をその都度狩って、自分の手で殺して解体して食べていたなら、今よりも野蛮さは落ちると想います。
そこには動物と人間の、直接的な関係が生まれます。
よっぽど好きでない限り、まだ温かい動物のグロテスクなはらわたを引き摺り出す行為は精神的苦痛を伴います。
野生動物であっても、死んでから解体しては血が残って肉は不味くなります。
生きているうちに、心臓が止まっていないうちに解体してゆくことが美味しい肉を味わうにはベストです。
自分が例えば一頭の大きな猪を解体しているときに、その猪が目を覚まして悲鳴を上げたなら、どれほど恐怖でしょうか。
このような精神的苦痛と、恐怖を、工場で屠殺をする人たちは毎日味わい続けています。
「いくら殺しても、殺すという行為に慣れることは無い」と"と殺(屠畜)"業の人が言っていた言葉を憶えています。
さっきまで無垢な目で自分を見つめていた動物を殺して解体してゆく作業に人間が慣れてしまうなら、それこそ恐怖ではないでしょうか。
話を戻すと、わたしは肉食自体が野蛮なのではなく、「人に殺させて自分が楽に食べる」ことが野蛮な行為であると感じています。
そこに存在している逃げて助けを請う動物の叫び、殺されることの地獄の苦痛、解体のグロテスクさ、真っ赤な熱い血の海、血と肉の咽返る様な臭い、それを知らずに食べること、想像もせずに食べること、それが野蛮であると、かつての肉食をしていたわたし自身に対して想うのです。
でもその行為を、肉を食べ続けながら「野蛮」だと主張しても説得力がありません。
つまりそれを主張できるのは、非肉食者しかいないのです。
だからわたしたちは例え人を傷つけてでも、主張し続けていかなくてはならないのです。
人から「上から目線で言うな」「押し付けるな」と言われても、「それは野蛮な行為なのです」と言い続ける必要があります。
それは、事実だからです。
人が自分の手で狩って解体して食べるなら、牛乳、卵も自分で飼った家畜から搾取するなら、家畜を物のように扱い続ける畜産業の大量生産はなくなります。
畜産業の大量生産と海の乱獲をなくせたなら、環境破壊と気候変動、それによる壊滅的な自然災害、水不足と食糧飢餓、生態系の破壊、種の絶滅の歯止めを掛けることができると科学者は主張しています。
無理にいきなり完全菜食に移行する必要はないのです。
一週間に一日は全く動物性のものを食さない日を設け、それを次は一週間に二日、一週間に三日と増やしてゆく。
そして動物性の栄養の代替にとにかくあらゆる植物を摂取してみて何が自分の体調を良くするものであるかを試し続けていく必要があります。
iHerbというアメリカの輸入ネットショップではスーパーフードと呼ばれる非常にバランスの素晴らしく栄養価の高い植物商品がたくさん安価で売られています。(一部穀物類など輸入に規制がかけられているものもあります)
モリンガ、カカオ、スピルリナ、チアシード、アサイー、ゴジベリー(クコの実)など、これらをほんの少量ずつで一日の栄養素を完全に補うことのできるものもあります。
マキベリーやマカなど、まだ試したことがないスーパーフードがたくさんあるので試すことがとても楽しみです。
まだまだ知らない名前のスーパーフードも沢山あります。(マヌカハニーは動物性なのでVeganはNGです)
ちなみにわたしが今日食べたのは昼に白玉粉とこしあんで作った手作り赤福に黄粉をまぶしたもの(小二つ)、有機ホットチョコレート スパイス と 有機認定ココア & ビーツジュースパウダー + ハイビスカスエキス と豆乳を混ぜたホットドリンク。
夜はパプリカとピーマンと玉葱をオーブンで190度で10分焼いてそれにbiologicoils有機パスタソース ロッソ とすりごま、生姜の摩り下ろし、乾燥パセリ、生醤油とバルサミコ酢、チリパウダーやカイエンパウダーやターメリックパウダーを混ぜたやつを乗っけたやつです。
今小腹が少々空いてますが、食べるとしたら豆腐とトマトのサラダになると想います。
最近ずっとこんな感じの食生活です。
パスタソースはオリーブオイルが必ず入っていて、オリーブオイルは栽培に水を大量に消費するオイルなので痛いのですが、なかなか…オリーブオイルは買うのをやめられても、パスタソースは買ってしまうという矛盾に苦しんでいます。すこしずつ手作りするとかで諦めていくことを頑張りたいです。
ちなみにアボカドも好きだったのですが、栽培に水を大量に消費すると知って買うのはやめました。
肉や魚を食べることが当たり前になっている人には物足りないと感じられる食事かもしれませんが、わたしはこれで本当に満足しています。わたしにとって野菜が何よりの御馳走です。
物足りないという感覚になるときがほとんどありません。(たまになるときは異常なストレスのあるときです)
それでこれまではゴミの日にゴミを捨てに行くのも鬱が酷くて億劫だったのですが、アシュワガンダとセントジョーンズワートというハーブのサプリメントを毎日摂るようにしてから不思議と毎回それほど捨てに行くことが億劫にならなくなりました。
ハーブはこれからも色んなものを試していくつもりです。
短い記事にしようと想っていたのに、また長くなってしまいましたが、最後に言いたいのは、
非肉食者たちは、肉食者たちを苦しめたくて肉食の野蛮さ、残酷さ、非効率さ、持続不可能性を訴え続けているのではないのです。
ただただ、人間も動物も、どのような生物も、幸せにいつまでも生きて欲しいからなのです。
モリッシーの言葉に毎回感動するのも、モリッシーは動物だけを愛して言っているのではなく、人間もやっぱり愛していることをひしひしと感じるからです。
少しずつ、菜食、植物中心の食生活へ向けて、一緒にがんばって生きませんか?
そして、肉を食べながらでも、家畜の為にできることはたくさんあります。
どうしたら家畜たちが少しでも苦痛をなくしてゆけるのか、家畜の福祉(アニマルウェルフェア)について、一緒に考えて行きませんか?
「日本では一秒間に24頭の牛・豚・鶏が食用に殺されています。」
"those who control such barbarity have no interest in the welfare of the bull."
「このような野蛮性を支配する者は、牛の福祉に関心がありません。」