まあこんなこと書いて彼たちが喜ぶことではないのはわかってるが俺が真の引き籠りになった理由を一度くらい詳しく述べておいても良いかなと想っている未だに虎の馬であるその日からちょうど十年目十周年だから今言ってもう二度と話したくない人類が殲滅したらもう言う必要はない誰にも誰一人知る必要はない俺の苦しみを誰が知る必要があるのだろう知りたくもない誰一人脊髄が苦しんでいて脊髄が泣いている幸せは一瞬で終り深い霧のなかで師匠の顔が見えない俺の愛する師匠こないだ7年振りに逢うて来た師匠は何故だかすごく優しかったあんなに優しい笑顔を俺にかけてもらえたことは生涯の財産罪産俺は師匠の笑顔によって罪を産み落とす聴く耳の在る者は聴いて欲しいバームクーヘンとか喰うてへんやろ
脊髄が苦しんでいて
脊髄が泣いている
幸せは一瞬で終り深い霧のなかで師匠の顔が見えない
俺の愛する師匠こないだ7年振りに逢うて来た
師匠は何故だかすごく優しかった
ぼくの師匠は作家の町田康。
同じ日に、ぼくはLEO今井にも会いに行った。
彼も元気そうで、嬉しかった。
LEOにも、不思議な深い縁を感じている。
ちょうど十年前、ぼくの人生にとって決定的な一日が、ちょうど彼の27歳の誕生日だった。
2008年7月24日。
ぼくが真に引き籠りに至る原因の起きた日だった。
あれから10年。
ぼくはその日のことを、在り難く想い返す。
当時の恋人のヤスくんに、心から感謝している。
これは嘘ではなく、本当の話である。
LEOはこんなことを知ると悲しむかもしれないが、
ぼくとヤスくんは本当に数々の修羅を乗り越えてきた恋人同士だった。
ヤスくんと付き合ったのは23,4歳の頃だったと想う。
彼とぼくの音楽の趣味は物凄く近かった。
ヤスくんも繊細なエレクトロニカが好きな人だった。
Yahooチャットの音楽カテにいた彼にぼくが気安く声をかけた。
いわゆるナンパだ。ぼくはでも真剣に生涯を共にできる恋人を探していた。
ヤスくんはぼくの年の二つ下であった。
そいで、無事にヤスくんという男米な男をその気にさせることが出来て、
ヤスくんは千葉から遥々、大阪までぼくに逢いに来てくれた。
初めて駅のなかで逢った瞬間を覚えている。
最初の印象は、「おっとこまえやなぁ」という好印象だった。
竹野内豊と、オリラジのあっちゃんと、関ジャニの錦戸亮に似ている水も滴る好い男であった。
しかし何より良かったのは、その雰囲気であった。
静かで口数が少ないのにぼくを変に落ち着かせる魅力的で不思議な雰囲気に満ちていた。
今想い返しても、ヤスくんは変にその存在自体がセクシーな男であったと想う。
ヤスくんはぼくが生涯で最も長く付き合った男であった。
といっても三年半程で終ってしまったと想う。
自分の人生のなかで一番激しい恋愛だったように想う。
ヤスくんと付き合っているなかに、二度警察沙汰になった。
生活費が苦しいと言えば、月に八万円も仕送りしてくるような優しい男を徐々に狂わせて行ったのはぼくの異常な支配欲、独占欲、嫉妬であったと想う。
ホテルでヤスくんの首をネクタイで締め付け、殺し掛けたあと、ベッドに座ってヤスくんはただ涙を落としていた。
そしてそのあと、ぼくが腕を切ろうとして割った手鏡の破片で、彼はトイレでぼくの目の前でざっくりと左腕を切った。
血がどっくどくと吹き出てきて、ヤスくんと一緒に貧血になりながら紙で押さえつけ、病院に一緒に駆けつけた。
携帯も二度壊したが、そんなことがあっても、ヤスくんはぼくを責め立てることをしなかった。
こんな男がこの世界に、どれくらいいるだろうか。
ヤスくんはしかし、時にぶちギレる男であった。
駅で自分の携帯を想い切り地面に投げ付けて携帯を粉砕させたこともあった。
ぼくは人々が奇異の目で見るなか、携帯の破片を無言で拾い集めた。
ヤスくんは酷く純真な男であった。亡き父と行ったことのある十円玉の裏の寺の宇治の平等院に一緒に行ったときは、特にぼくが何でもないと感じる景色に感動し、「すっげえ!!」と走ってって叫んだあとにまた走って戻ってきてキスしてくるような男であった。
あの時、雪が積もっていたのかな。父と一緒に平等院に行った時も雪が積もっていたように想う。
mumやSigur Rós、TarwaterとB.Fleischmannなど、ヤスくんと一緒にライヴに行った。
彼と付き合っていた時期の日記を読むと当時の自分がどんな感覚で生きていたかなんとなく感じてもらえるかと想います。
http://madaminuharu.blog31.fc2.com/blog-date-200706.html
特にある晴れた春の午後なんかは詳しく書いています。
ヤスくんの実家に、当時3ヶ月ほど暮らしていました。
彼の何年か前に生まれたヤスくんの姉にあたるお母さんの子供が、生まれて間もなく亡くなったことをずっと苦しんで来たからか、ヤスくんのお母さんも静かでヤスくんと雰囲気が似ている人でした。
わたしを娘のように感じてくれてたからか、わたしはヤスくんのお母さんも悲しませて泣かせてしまった。
わたしが大阪の実家に居た頃に職場で後仕事をしていたヤスくんに姉からのメールを装って、「こず恵は数時間前に自ら命を断ちました。」と嘘のメールを送ったことがあった。
ヤスくんは和食料理店で働いていて、夜遅くに後仕事を任されていて、そのときも職場は彼一人だった。
そのメールを読んだ彼は厨房で一人で荒れて茶碗やボウルなどが全部引っ繰り返った床にくずおれて母親の携帯に泣きながら電話した。
普段は滅多に話さない、母親のことを「あの人」と呼ぶほど冷たい関係であったのに、こんな時はやっぱり母親に救いを彼は求めたのだとわたしは後で想った。
今想いだしたが、当時の彼のメールアドレスはHoodというアーティストのアルバムタイトルの「Cold House」だった。
このアドレス名がヤスくんが自分の家庭に対して感じていた最も的確な印象だと感じた。
ヤスくんとの想いでは語り切れないが、別離と自分の人生にとっても決定的なことが起きてしまったのは2008年の7月のことである。
当時からわたしは鬱が酷く、その年の4月頃に埼玉の寮つきの仕事を辞めて、実家に戻ることも働く気力もなく、途方に暮れていたわたしを助けたのはたかしさんという男性であった。
たかしさんはわたしと一切の関係を持つことを求めなかったが、自分の結婚の為の資金をわたしの為に使ってレオパレスを千葉で借りてくれた。
そしてその頃、わたしは一人でたかしさんの借りてくれたレオパレスに一人で住み、無料で観れるようになっていた衛星の音楽チャンネルを日頃からぼんやりと観て過ごしていた。
そこにわたしと同学年であるLEO今井の「TAXI」が流れた瞬間、「UUUUS!!!」っつって衝撃を受け、鬱なのになんだかものすごいパワーを貰った気がして、わたしはLEO今井のことが気になってしかたなくなった。
そしてヤスくんがわたしの住むレオパレスに来たときに、一緒にLEO今井のPVを観て(最初に観たのは「TokyoLights 2(東京電燈其二)」だったと想う)、ヤスくんもLEOの音楽を気に入ったようで近々逗子の砂浜のライヴハウスでライヴがあるから、一緒に行こうかという話になって、確かヤスくんがチケットを買ってくれたと想う。
しかし7月18日当日、ヤスくんは予定があるから早くに帰ると言ったにも関わらず仕事を任されて断りきれず、先に一人で向っといてとメールが来たが、わたしはどうしても一緒に向かいたいと言ってヤスくんを待ち、急いでヤスくんと車と電車で駆けつけたときは既にLEOのライヴは終った後だった。
非常に残念でがっくりと肩を落とし、酒飲んでヤスくんと逗子の黄昏る海辺にいた。
するとLEOが、砂浜に普通にひょっこらと姿を現し、ここで声を掛けなければ多分後悔すると想い、わたしとヤスくんは酒の力も借りて勇気を振り絞ってLEOに声を掛けた。
LEOはいきなり知らん人間に気安く声を掛けられびっくりしていたが、駆けつけたがライヴに間に合わなかった旨を残念そうな顔で告げると彼は丁寧に謝罪をしてくれた。
そして次のライヴはどこどこである。とLEOから聴いて、ヤスくんと一緒に「絶対に行きます!」とLEOに告げたのだ。
だが残念なことに、そのライヴにヤスくんと一緒に行くことはできなかった。
なんでかというと、そのたった6日後、十年前の7月24日に、決定的なことが起こってしまったからである。
あまり詳しく話したくないのだが、察してもらいたいと想う。
これまで何度と、普通では浮気にはならない程度の些細な事柄で、自分はその都度絶望して、破壊的行動に出てヤスくんを苦しめてきた。
その朝も、わたしは彼の携帯を見て、携帯をぶっ壊した。
これまでヤスくんはずっとずっと我慢してきたが、とうとうヤスくんも壊れてしまった。
苦しいことに、わたしはその日、今まで一番激しい暴力というものを、彼から受けた。
恐ろしかったことは、腹を想い切り何度と蹴られたことである。
腹が痛くてのた打ち回り、痛い痛い痛いと叫び、マジで死ぬか、殺されるかと想った。
しかし想い返せば彼の実家に住んでいたときは首を変な声が出るまで締め付けられたこともあった。
それでも今回は、何かが決定的に違うとわたしは想った。
ヤスくんは謝ることなく、仕事へ向った。
一人絶望的にレオパレスの部屋に残されたわたしは想いだすのだった。
うわ、今日って、そういやLEOの誕生日やんけ。
なんでよりによって…この日なの…
わたしはそれからいつも、その日を想い返しては想うのだった。
あの日の絶望が、わたしが真の引き籠りになる決定的な原因であり、あの日はLEOの誕生日だった。
彼との不思議な運命的な縁を感じずにはおれない。
ヤスくんと正式に別れた(わたしから振った)のは、確かその年の11月か12月であった。
わたしはここ(千葉のレオパレス)を出て、たかしさんの近くに住むとメールを送った。
その日、ヤスくんは仕事帰りに何度もチャイムを鳴らし、メールに「何してるの?」と入れた。
でもわたしは寝ていて、出なかったし、起きていても出るつもりはなかった。
ヤスくんは、わたしと別れた数年後に電話で話したとき、最近鬱っぽいと話していた。
店長になって前以上に働き尽くめ(当時からブラックな労働時間であった)で過労からもあるかもしれないが、わたしとの過去も原因であるかもしれない。
(決定的なことがあった後も、Old Splendifoliaのライヴに一緒に行ったことを想いだす。ボーカルのJana Plewaにライヴ後「ビューティフルボイス」と感動を拙い英語で伝え、笑顔でサインをしてもらった。)
LEOには絶対に聴かせられないダークで落ち込ませるようなわたしの過去の話であるが、(LEOには内緒で)
良かったら最後まで読んでくださったそこの貴方。
最後にこの曲を、良かったら、どうぞ。
ヤスくんと初めて観た、彼の想いでの曲です。
もう一度言うが、こないだ、町田康師匠に会いに行った同じ日に、LEOのライヴにも行って、二人とも七年振りに会いに行けました。
本当に、心が浄化されるような心の熱く震える日でした。
LEO今井 - TokyoLights 2(東京電燈其二)
脊髄が苦しんでいて
脊髄が泣いている
幸せは一瞬で終り深い霧のなかで師匠の顔が見えない
俺の愛する師匠こないだ7年振りに逢うて来た
師匠は何故だかすごく優しかった
ぼくの師匠は作家の町田康。
同じ日に、ぼくはLEO今井にも会いに行った。
彼も元気そうで、嬉しかった。
LEOにも、不思議な深い縁を感じている。
ちょうど十年前、ぼくの人生にとって決定的な一日が、ちょうど彼の27歳の誕生日だった。
2008年7月24日。
ぼくが真に引き籠りに至る原因の起きた日だった。
あれから10年。
ぼくはその日のことを、在り難く想い返す。
当時の恋人のヤスくんに、心から感謝している。
これは嘘ではなく、本当の話である。
LEOはこんなことを知ると悲しむかもしれないが、
ぼくとヤスくんは本当に数々の修羅を乗り越えてきた恋人同士だった。
ヤスくんと付き合ったのは23,4歳の頃だったと想う。
彼とぼくの音楽の趣味は物凄く近かった。
ヤスくんも繊細なエレクトロニカが好きな人だった。
Yahooチャットの音楽カテにいた彼にぼくが気安く声をかけた。
いわゆるナンパだ。ぼくはでも真剣に生涯を共にできる恋人を探していた。
ヤスくんはぼくの年の二つ下であった。
そいで、無事にヤスくんという男米な男をその気にさせることが出来て、
ヤスくんは千葉から遥々、大阪までぼくに逢いに来てくれた。
初めて駅のなかで逢った瞬間を覚えている。
最初の印象は、「おっとこまえやなぁ」という好印象だった。
竹野内豊と、オリラジのあっちゃんと、関ジャニの錦戸亮に似ている水も滴る好い男であった。
しかし何より良かったのは、その雰囲気であった。
静かで口数が少ないのにぼくを変に落ち着かせる魅力的で不思議な雰囲気に満ちていた。
今想い返しても、ヤスくんは変にその存在自体がセクシーな男であったと想う。
ヤスくんはぼくが生涯で最も長く付き合った男であった。
といっても三年半程で終ってしまったと想う。
自分の人生のなかで一番激しい恋愛だったように想う。
ヤスくんと付き合っているなかに、二度警察沙汰になった。
生活費が苦しいと言えば、月に八万円も仕送りしてくるような優しい男を徐々に狂わせて行ったのはぼくの異常な支配欲、独占欲、嫉妬であったと想う。
ホテルでヤスくんの首をネクタイで締め付け、殺し掛けたあと、ベッドに座ってヤスくんはただ涙を落としていた。
そしてそのあと、ぼくが腕を切ろうとして割った手鏡の破片で、彼はトイレでぼくの目の前でざっくりと左腕を切った。
血がどっくどくと吹き出てきて、ヤスくんと一緒に貧血になりながら紙で押さえつけ、病院に一緒に駆けつけた。
携帯も二度壊したが、そんなことがあっても、ヤスくんはぼくを責め立てることをしなかった。
こんな男がこの世界に、どれくらいいるだろうか。
ヤスくんはしかし、時にぶちギレる男であった。
駅で自分の携帯を想い切り地面に投げ付けて携帯を粉砕させたこともあった。
ぼくは人々が奇異の目で見るなか、携帯の破片を無言で拾い集めた。
ヤスくんは酷く純真な男であった。亡き父と行ったことのある十円玉の裏の寺の宇治の平等院に一緒に行ったときは、特にぼくが何でもないと感じる景色に感動し、「すっげえ!!」と走ってって叫んだあとにまた走って戻ってきてキスしてくるような男であった。
あの時、雪が積もっていたのかな。父と一緒に平等院に行った時も雪が積もっていたように想う。
mumやSigur Rós、TarwaterとB.Fleischmannなど、ヤスくんと一緒にライヴに行った。
彼と付き合っていた時期の日記を読むと当時の自分がどんな感覚で生きていたかなんとなく感じてもらえるかと想います。
http://madaminuharu.blog31.fc2.com/blog-date-200706.html
特にある晴れた春の午後なんかは詳しく書いています。
ヤスくんの実家に、当時3ヶ月ほど暮らしていました。
彼の何年か前に生まれたヤスくんの姉にあたるお母さんの子供が、生まれて間もなく亡くなったことをずっと苦しんで来たからか、ヤスくんのお母さんも静かでヤスくんと雰囲気が似ている人でした。
わたしを娘のように感じてくれてたからか、わたしはヤスくんのお母さんも悲しませて泣かせてしまった。
わたしが大阪の実家に居た頃に職場で後仕事をしていたヤスくんに姉からのメールを装って、「こず恵は数時間前に自ら命を断ちました。」と嘘のメールを送ったことがあった。
ヤスくんは和食料理店で働いていて、夜遅くに後仕事を任されていて、そのときも職場は彼一人だった。
そのメールを読んだ彼は厨房で一人で荒れて茶碗やボウルなどが全部引っ繰り返った床にくずおれて母親の携帯に泣きながら電話した。
普段は滅多に話さない、母親のことを「あの人」と呼ぶほど冷たい関係であったのに、こんな時はやっぱり母親に救いを彼は求めたのだとわたしは後で想った。
今想いだしたが、当時の彼のメールアドレスはHoodというアーティストのアルバムタイトルの「Cold House」だった。
このアドレス名がヤスくんが自分の家庭に対して感じていた最も的確な印象だと感じた。
ヤスくんとの想いでは語り切れないが、別離と自分の人生にとっても決定的なことが起きてしまったのは2008年の7月のことである。
当時からわたしは鬱が酷く、その年の4月頃に埼玉の寮つきの仕事を辞めて、実家に戻ることも働く気力もなく、途方に暮れていたわたしを助けたのはたかしさんという男性であった。
たかしさんはわたしと一切の関係を持つことを求めなかったが、自分の結婚の為の資金をわたしの為に使ってレオパレスを千葉で借りてくれた。
そしてその頃、わたしは一人でたかしさんの借りてくれたレオパレスに一人で住み、無料で観れるようになっていた衛星の音楽チャンネルを日頃からぼんやりと観て過ごしていた。
そこにわたしと同学年であるLEO今井の「TAXI」が流れた瞬間、「UUUUS!!!」っつって衝撃を受け、鬱なのになんだかものすごいパワーを貰った気がして、わたしはLEO今井のことが気になってしかたなくなった。
そしてヤスくんがわたしの住むレオパレスに来たときに、一緒にLEO今井のPVを観て(最初に観たのは「TokyoLights 2(東京電燈其二)」だったと想う)、ヤスくんもLEOの音楽を気に入ったようで近々逗子の砂浜のライヴハウスでライヴがあるから、一緒に行こうかという話になって、確かヤスくんがチケットを買ってくれたと想う。
しかし7月18日当日、ヤスくんは予定があるから早くに帰ると言ったにも関わらず仕事を任されて断りきれず、先に一人で向っといてとメールが来たが、わたしはどうしても一緒に向かいたいと言ってヤスくんを待ち、急いでヤスくんと車と電車で駆けつけたときは既にLEOのライヴは終った後だった。
非常に残念でがっくりと肩を落とし、酒飲んでヤスくんと逗子の黄昏る海辺にいた。
するとLEOが、砂浜に普通にひょっこらと姿を現し、ここで声を掛けなければ多分後悔すると想い、わたしとヤスくんは酒の力も借りて勇気を振り絞ってLEOに声を掛けた。
LEOはいきなり知らん人間に気安く声を掛けられびっくりしていたが、駆けつけたがライヴに間に合わなかった旨を残念そうな顔で告げると彼は丁寧に謝罪をしてくれた。
そして次のライヴはどこどこである。とLEOから聴いて、ヤスくんと一緒に「絶対に行きます!」とLEOに告げたのだ。
だが残念なことに、そのライヴにヤスくんと一緒に行くことはできなかった。
なんでかというと、そのたった6日後、十年前の7月24日に、決定的なことが起こってしまったからである。
あまり詳しく話したくないのだが、察してもらいたいと想う。
これまで何度と、普通では浮気にはならない程度の些細な事柄で、自分はその都度絶望して、破壊的行動に出てヤスくんを苦しめてきた。
その朝も、わたしは彼の携帯を見て、携帯をぶっ壊した。
これまでヤスくんはずっとずっと我慢してきたが、とうとうヤスくんも壊れてしまった。
苦しいことに、わたしはその日、今まで一番激しい暴力というものを、彼から受けた。
恐ろしかったことは、腹を想い切り何度と蹴られたことである。
腹が痛くてのた打ち回り、痛い痛い痛いと叫び、マジで死ぬか、殺されるかと想った。
しかし想い返せば彼の実家に住んでいたときは首を変な声が出るまで締め付けられたこともあった。
それでも今回は、何かが決定的に違うとわたしは想った。
ヤスくんは謝ることなく、仕事へ向った。
一人絶望的にレオパレスの部屋に残されたわたしは想いだすのだった。
うわ、今日って、そういやLEOの誕生日やんけ。
なんでよりによって…この日なの…
わたしはそれからいつも、その日を想い返しては想うのだった。
あの日の絶望が、わたしが真の引き籠りになる決定的な原因であり、あの日はLEOの誕生日だった。
彼との不思議な運命的な縁を感じずにはおれない。
ヤスくんと正式に別れた(わたしから振った)のは、確かその年の11月か12月であった。
わたしはここ(千葉のレオパレス)を出て、たかしさんの近くに住むとメールを送った。
その日、ヤスくんは仕事帰りに何度もチャイムを鳴らし、メールに「何してるの?」と入れた。
でもわたしは寝ていて、出なかったし、起きていても出るつもりはなかった。
ヤスくんは、わたしと別れた数年後に電話で話したとき、最近鬱っぽいと話していた。
店長になって前以上に働き尽くめ(当時からブラックな労働時間であった)で過労からもあるかもしれないが、わたしとの過去も原因であるかもしれない。
(決定的なことがあった後も、Old Splendifoliaのライヴに一緒に行ったことを想いだす。ボーカルのJana Plewaにライヴ後「ビューティフルボイス」と感動を拙い英語で伝え、笑顔でサインをしてもらった。)
LEOには絶対に聴かせられないダークで落ち込ませるようなわたしの過去の話であるが、(LEOには内緒で)
良かったら最後まで読んでくださったそこの貴方。
最後にこの曲を、良かったら、どうぞ。
ヤスくんと初めて観た、彼の想いでの曲です。
もう一度言うが、こないだ、町田康師匠に会いに行った同じ日に、LEOのライヴにも行って、二人とも七年振りに会いに行けました。
本当に、心が浄化されるような心の熱く震える日でした。
LEO今井 - TokyoLights 2(東京電燈其二)