私の三丁目

映画「ALWAYS 三丁目の夕日」と共によみがえるあの頃、そして今

日本を、も一度元気にする昭和のお笑い

2008-04-07 22:11:07 | 私的「三丁目の夕日」

「サライ」はおじさんが読む雑誌ですね(苦笑)。2008年4月3日号の特集は「日本を、も一度元気にする昭和のお笑い」。新聞広告を見て、さっそくオーダーしてしまいました。

昭和というよりは「昭和前半」に活躍した芸人さんにスポットを当てているようです。私がリアルタイムで見た記憶があるのは、クレージーキャッツやてんぷくトリオくらいでしょうか?

それでも斜め読みを進めていくうちに、小学校低学年の頃、学校で「あなたのお名前なんてぇの?」という、アベック歌合戦のトニー谷の物まねがはやっていたことなどを思い出しました。

私の家では父がテレビのチャンネル件を掌握していました。

父が「水戸黄門」(TBSではなく現テレビ朝日のNETで放送されていた30分番組)を見ているため、裏番組の手塚アニメ「ワンダー3」を見ることができず、学校で友達の輪に入りにくかったことなどを覚えています。

クレージーキャッツ、特に植木等さんが好きな父の選ぶチャンネルには「お笑い」系の番組が多かったような気がします。「植木等はふざけたことばかり演っているけど、本当は歌がうまいんだぞ」という話を何度も聞かされたものです。

山下達郎さんの「サンデーソングブック」で、宮川泰さんの追悼特集が放送された際に流れた「シビレ節」を聴いて、「クレージー・キャッツ ベストコレクション」を購入してしまいました。

このCDを実家の父に聴かせたところ、ご機嫌な様子で「スーダラ節」を歌っていたのを思い出します。まさに「も一度元気にする昭和のお笑い」なのでした。

昭和の鉄道模型をつくる(36号)

2008-04-06 17:57:00 | 私的「三丁目の夕日」

久々に「昭和の鉄道模型をつくる」の話題です。実は、33号から36まで、届いたストラクチャの組み立てが滞っていたのですが、この週末を利用してなんとかキャッチアップすることができました。

全景の写真よりも、携帯電話をストラクチャの隙間に押し込んでマクロ撮影すると、臨場感を味わうことができるような気がします。


主な建物の組み立てが終わり、今後は道路や樹木、そして塗料などが届くようです。はたして私の技術で上手に組み立てられるかどうか・・・かなり不安になってきました(^^;

日本橋にかかる高速道路と汽車会社

2008-04-05 20:36:48 | 私的「三丁目の夕日」

前作「ALWAYS 三丁目の夕日」を観た直後に「昭和三十年代東京散歩」という古地図の本を購入しました。

先日、改めてその本をながめていたところ、日本橋の上に高速道路をかける工事の写真を見つけました。アヒルの親子が覗いているのはそのページです。

上の写真ではよくわからないと思いますが、高速道路の橋梁には大きく「汽車会社」という文字がペイントされています。汽車会社は歴史のある機関車メーカーで、東京都江東区南砂町(当時)の広大な敷地に東京工場がありました。

私が通っていた小学校はその工場のすぐ近くにあり、授業中の窓からは、そこで製造されていた初代新幹線車両や、パナマ運河で船を牽引するために開発されたという機関車が急勾配の小山を上下する光景などが見えたものです。

小学校の近くには汽車会社の社宅もあり、どのクラスにもその工場で働く人々の子供達がいました。こんな事情があったものですから、私にとって「汽車会社」は敏感に反応してしまう固有名詞だったのです。

日本橋にかかる高速道路の橋梁が汽車会社で製造されたものだったことを知り、日本橋と私の「かなり強引な汽車会社つながり」を誰かに聞いて欲しくなって、こんな記事を書いてしまいました。

都電最中

2008-04-04 22:12:26 | 私的「三丁目の夕日」

最中を「さいちゅう」と読んでいる人はいませんか(^^; もちろん「もなか」です。

都電荒川線の旅をした日、梶原停留所近くの「明美」さんで買い求めました。10個入りの箱には都電すごろくが描かれているのですが、さすがに賞味期限までに食べきる自信がないため、パッケージ(車両デザイン)の数=5個だけ買ってきました。

甘さは控えめで、あんこだけでなく求肥も入っているため、とても食べやすくおいしいです。そうとわかっていれば、10個入りの箱を買ってもよかったのにと思ったり。

それにしても「明美」さんのある商店街の寂しかったこと。出かけたのはお天気のよい土曜日でしたが、まるでピンホールカメラで撮影したような風景でした。

手前に並んでいるのは、最中ではなく都電のペーパーウェイト。あらかわ遊園に展示されている都電の中で購入しました。

昨年、「アド街」で荒川線が特集された際に紹介され、その時から欲しいと思っていたものです。

金太郎塗装と新塗装の二種類が作られていますが、私はやはり新塗装の方を選んでしまいました。

昭和38年 -- 空から見たあの場所

2008-04-03 19:11:03 | 私的「三丁目の夕日」

空を飛べないアヒルの親子が見入っているディスプレイの中心には、私が中学一年生まで住んでいた木造三階建ての社宅が写っています。

「goo 地図」では今、東京23区の昭和38年(=私が小学一年生)当時の航空写真を見ることができるのです。

私はあの場所で、一平や淳之介のように家族と暮らし、時には母に叱られ、日が暮れるまで遊んでいたのでしょう。自宅の玄関からは目の前に東京タワーが見え、反対の廊下からは専用軌道を走る38系統の都電が見えました。

画面には、住んでいた社宅だけでなく、私が通っていた小学校もハッキリと写っています。校舎の中には、給食の生野菜を食べられずに、授業が終わっても下校させてもらえない半ベソの私がいたかもしれません。

撮影された曜日や時刻はわかりませんが、この写真のどこかに私が写っていると思うと、とても不思議な気持ちになります。

南部せんべい

2008-04-01 23:10:20 | 私的「三丁目の夕日」

ふるさとに住んでいた幼い頃、「せんべい」といえば「南部せんべい」でした。ごま塩味の、どちらかといえば地味な味付けで、子供心にもそれほどおいしいものとは思えませんでした。

それでも、(いつか機会があれば書きたいと思いますが)「干し餅」とくらべれば、落花生入りの南部せんべいは、まだおいしい「お菓子」の部類でした(^^;

草加せんべいのように醤油をつけて焼いたおせんべいを初めて食べたのは、上京してからのことです。逆に東京では南部せんべいは売られておらず、「東京ではこれがせんべいなのか」と、家族そろって驚いたものでした。

日曜日、花輪線の旅を終え帰りの新幹線を待つ間、盛岡駅ビル「盛岡フェザン」の中を歩いてみたのですが、南部せんべいの専門店「巌手屋」に並んでいるバリエーションを見たときには、本当に驚きました。

たまねぎ、ほたて、いか、納豆、かぼちゃ、味噌、唐辛子、醤油、林檎など、様々な味の南部せんべいが販売されていたのです。

親切な店員さんの気配りがまた「特筆」もので、いつの間にか何種類もの味を試食し、いっぺんで南部せんべいファンになってしまいました。

写真は何袋か買ってきた「10種類詰め合わせ」の一部です。今日は納豆を食べてみたのですが、これでもかというくらいに盛られた納豆の食べ応えには本当に驚きました。

買い込んできた在庫が見る見る少なくなるのに不安を覚えた私は、奥様にお願いして今日インターネットで、追加のお取り寄せをしてしまいました。私は酒を飲みませんが、きっとビールのおつまみにもピッタリ合うはずです。おすすめします!!

南部せんべいの巌手屋さん Web サイト: http://www.iwateya.co.jp/index.html

旅を終えて

2008-03-31 19:50:40 | 私的「三丁目の夕日」

昨夜10時前に無事帰宅することができました。24時間で1500Km近く移動したとはいえ、列車に乗ったままでしたので「寝不足」以外の疲れはなく、一晩寝て起きただけで体調は回復したようです。

このブログに旅先から記事をアップすると同時に、従兄弟や叔母の携帯にもふるさとの風景を配信したのですが、一様に「よくやるわね」という反応でした(^^; 特に叔母からは「あんたは楽しいだろうけど、○○(奥様)さんには迷惑なだけでしょうよ」と言われ、妙に納得してしまいました。私だけの「おもひで探し」に付き合ってくれた奥様に、改めて感謝しました。

旅を通じてもうひとつ再確認したのが、日本の携帯電話ネットワークの優秀なことです。日曜日に移動したのは田舎のローカル線だったわけですが、山の中の花輪線沿線を含めて、「圏外」になったのは数えるほどでした。トンネルの多い東北新幹線の方が、圏外になることが圧倒的に多いという皮肉な現実も知りました。

ただし、バッテリーは消費しました。私の携帯はD904i。旅の前に予備のバッテリを2個購入し、フル充電で臨みましたが、24時間で計3個のバッテリを見事に使い果たしました。

長いイスに横になることができるほど乗客の少ない、奥羽本線と花輪線の普通列車に乗り、想像以上に時代の移り変わりを痛感した旅でした。正直に言って、私が「懐かしさ」を感じることができる風景や出来事は多くありませんでした。何もかもが変わりすぎていました。

写真は「さよなら夢空間号」に接続されたB寝台車の連結部分にあった「北斗星」のロゴマークです。北斗星での役目を終えた車両だったのでしょうか?

昨日で引退した「夢空間」車両だけでなく、私たちが乗車したB寝台車も明らかに老朽化していました。そして、老朽化しつつあるのは私も同じなのでした。今回の旅は、私にとって「ふるさとへのラストラン」だったのかもしれません。

飛鳥山公園の「新塗装」

2008-03-28 09:32:10 | 私的「三丁目の夕日」

今日も都電荒川線のお話です。

「あらかわ遊園」で淳之介と一平が高円寺に出かける時に乗車した金太郎塗装の「6152」と対面した日、「飛鳥山公園」でも懐かしい昭和の都電に出会うことができました。

私にとっては金太郎塗装よりも、新塗装の方が懐かしさを感じます。小さな頃、この黄色いボディは私の日常風景そのものでした。

「あらかわ遊園」の「6152」は保存状態もよく、停留所も当時のままに再現されていましたが、飛鳥山公園の新塗装は子供達が自由に出入りできるなど、解放されているだけあって、かなりやつれていました。

それにしても、荒川線を走る都電の新しいこと。都電の象徴ともいえる「チンチン」という音はするものの、もちろん実際に鐘を鳴らしているわけではありません。乗車口の設備は SUICA や PASMO に完全対応しており、日付を印字した一日乗車券をその場で発行することもできます。

私にとっては、「都電」とは違う、新しい乗り物のように思えたのでした。

昭和41年 -- Wくんのこと

2008-03-27 16:44:57 | 私的「三丁目の夕日」

都電の話題を綴っているうちに、Wくんのことを思い出しました。

小学3年生の国語の時間、先生は笑いながらこんな話をはじめました。「W、隣の○○さんの作文を写しただろ? 『ぼくは』じゃなくて『わたしは』なんてところまで真似たら、すぐにバレちゃうじゃないか(笑)」

Wくんはこんな憎めないところのあるクラスの人気者で、私は小学3年まで同じクラスでした。

別々のクラスになった4年の秋、私は友達から「Wくんが入院した」という話を聞きました。私たちはお見舞いに行くことを決め、お小遣いを出し合って文房具と漫画の本を買い、都電に乗って病院をめざしました。

ベッドの上の彼は、笑顔で私たちを迎えてくれましたが、やはり元気がなさそうでした。私たちは「友達を見舞うために、子供だけで遠出をした」という達成感に満たされていましたが、「元気に登校している友達」を目にしたお母さんを悲しませなかったか、今では少し不安な気持ちです。

数週間後、私たちは再び彼を見舞いました。

付き添っていたお母さんから、一時危険な状態を迎えたことを聞かされましたが、彼は前回と同じように私たちの雑談に付き合ってくれました。

翌朝、教室に現れた担任の先生に「昨日、Wくんの病院へ行ったのは誰だ?」と問われ、ゆっくりと手を挙げた私は「子供達だけで別の学区へ行ったことを叱られるのか」と思いました。

ところが先生は「実は、Wくんが今朝亡くなった」と告げ、教室は静まりかえりました。悲しいはずなのに、涙を流すでもなく、私は無表情のまま黙って先生の話を聞くことしかできなかったように思います。

昨日見舞ったばかりの友人が亡くなったというのに、身近な人の死を経験したことのない10歳の私は、こんな時にどう立ち振る舞えばよいのかわかりませんでした。

都電一球さん号

2008-03-26 19:34:48 | 私的「三丁目の夕日」

あらかわ遊園(都電の停留所名は「荒川遊園地前」)に屋外展示されている「都電一球さん号」の内部です。

乗車するとすぐに、前作「ALWAYS 三丁目の夕日」のポスターが目に飛び込んできます。ポスターの下には「この都電一球さん号は映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の撮影で使われたモデル車両です」との解説も。

帰宅してから早速ビデオで確認したところ、確かに、淳之介と一平が高円寺へ出かける時に乗車した都電にそっくり。というか、この車両で撮影されたのですから当たり前なのですが(^^;

お近くの方は、ぜひ休日に「あらかわ遊園」まで足を伸ばしてみてはいかがでしょう?

「6152」という車両番号、車内の様子、イスや窓の色など、帰宅してから撮ってきた写真とビデオを見比べると、かなり盛り上がると思います。