ピアノと海と花との生活 Ⅱ

~創造する芸術~

新・ショパン考 2  ジョルジュ・サンド ②

2010-02-13 | 音楽

 

             

        そもそも、サンドが男装を始めたのはいつからなのだろうか。

       サンドの最初の男装は、この著書によると、4歳の時になっている。当時、一家は、

       父モーリスのスペイン戦線で、かつて「従軍」の経験のある母とともに、一緒にマド

       リードの戦地の前線で生活していた。そのころ、子供服というものは全くなく、当時は

       少女でさえ、胸を大きくあけ、コルセットで胴をしめつけ、ハイヒールをはいていた。

       将軍への謁見のとき、母ソフィがサンドにナポレオン軍の華やかな軍服を着せて、

       将軍の前に立たせた。当時の男の子に抱く母親のあこがれの感情からだったらしい。

                        

      1810年から20年にかけて流行した第一帝政時代の女性のモード、エンパイア・

      スタイルは、革命期の簡素でゆるやかなシュミーズ・ドレスから徐々に装飾性が加わり、

      スカートは高いウエストから裾にかけてほっそりとひろがっていた。跳んだりはねたり、

      何かをとびこえるなんて出来ない。

      そして、フランス革命後19世紀の半ばになると、足首まで届く長いスカートは、たっぷり

      とフレアーがはいり、袖はふくらみ、つば広の帽子をかぶる。

      サンドは乗馬がすごく好きだった。夫と不仲になっているときも、乗馬が彼女を救って

      くれた。

                        

      自立を求めて、2人の子供と生活を始めたサンドは、ロマン主義の波が高まり、

      音楽・文学・美術・演劇の文化的息吹が熱くみなぎり、民衆の自由主義が 目覚めた

       パリの真っ只中にいた。しかし、物価は高く、生活費も少なく、そこで、ソフィに相談した

      結果、衣料費を安くするために男装を勧められるのである。

      サンドの男装は、こうした背景で生まれたのだ!

      1番上の絵が、当時男装したサンドだが、パリの音楽会、演劇、カフェ、などあらゆるサロン

      に男装し、歩き回り、あらゆるものを吸収しようとした。

      そして作家として頭角を現すと、彼女の周りには、キラ星のごとく才能を持った天才達

      があふれるように集まってくるのだ。

                

     作家ジュール・サンドー、バルザック、詩人アルフレッド・ド・ミュッセ(彼はまた重要な存在)、

     作家スタンダール、詩人ハイネ、画家ドラクロア、音楽家リスト、ベルリオーズ、

     まだまだ女優、弁護士、哲学家、政治家、ありとあらゆる才能が、彼女の元に集まった。

       そしてショパンも彼女の人生において、非常に大きな存在になるのだ。

     ショパンが初めてサンドに会った時、ショパンはサンドの印象が悪く「本当に女なのか」

     といったらしい。

     でも2人の仲は、パリのサロンの間でも周知の事実となり、2人の子供とともに、

     ショパンとサンドは、ショパンの結核の療養のため、スペインのマヨルカ島へ渡り、

     そしてそこで数々の名曲が生まれるのである。

     有名なエピソードは、一家が住居としていた僧院から、サンドと子どもたちが買い物に出かけ、

     そのあと大雨が降り、随分遅くなって3人が帰宅すると、ショパンは泣きながら、雨のしずく

     を見て、名曲「雨だれ」を作曲していたという実話。

     実際、マロルカ島でも、フランスのノアンでも、サンドは実に献身的にショパンに尽くしていた。

     病状が悪化したので、マヨルカを離れ、ノアンの館で生活を経て、そのあと別離し、ショパン

     は生きる気力もなくなり、 39歳の短い生涯を終えるのだ。

     (写真はショパンが他界する数ヶ月前に撮影)

     結局、サンドは30歳前から40代にさしかかる10年以上を、ミュッセとショパンという稀有

     な才能に恵まれた男性を愛し、彼女自身も極限まで傷ついた。

                                            

                                   上の写真はサンドのノアンの’青の寝室’

     ショパンとサンドの愛は、サンドがショパンを支える母性的な役割を果たすことが、

     前提で、それができなくなったとき、愛も破局を迎えるのである。

     芸術・文学の創造に自らをおいていたサンドの存在のもとで、貴族的でわがままな、現実

     の生活ではまるで子供のような2人の恋人、ミュッセとショパンは、張り詰めた愛の日々の

     中、多くのすぐれた作品をこの世に残していったのだ。

     私は、サンドという女性は、最も女らしい女だったと思う。彼女の愛の対象となった男性は

     すべて彼女より年下で、一流のデザイナー、献身的な看護婦、異色の作家というさまざまな

     顔を持った彼女が、母性的な愛で彼らを包んだのだ。

     ショパンとサンドが別れた時、2人の親友だった画家ドラクロアは激怒し、この冒頭のショパン

     の絵と、最後のこのサンドの絵は同じキャンパスに描かれていたのに、彼自身が2つに

     引き裂いてしまった。

                

     現在、この2つの絵は別々の美術館で保管されているわけだが、ショパンとサンドの

     運命を考える時、その時代と愛の激流の中、2人の炎のような人生が浮かび上がって

     くる。

           2人が別れ、ショパンが他界したのち、サンドはノアンでの演劇の上映など芸術的な

     生活をしながら、パリへコンサートや演劇など積極的に通い、革命の社会派運動に大きな

     役割を果たし、自らの作品も数多く発表し、72歳の生涯を閉じた。

 

     次回は、ショパンとサンドの住んだノアンの館がふんだんに描かれている映画をご紹介。

     これはショパンってこんな感じだったんだろうなあと思える貴重な映画です。

     お楽しみに

 

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2 コメント

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Unknown (あっきー)
2010-02-13 22:05:02
yoshikoさん、今晩は

引き裂かれた絵が別々の美術館に保管、なんだか切なくなります

フランス革命、男装の麗人とくればオスカル様が頭に浮かんでしまう私ですが、男装の下にはとてもとても女性らしい本性が隠されていたというところに魅力を感じます(女の私でもね)

時代背景もさるころながら、人生もそれ以上に激しかったのですね 

後世に残る珠玉の作品を作り上げることのできる人だからこそ、その感性も常人よりも鋭く繊細なのでしょうね。次回も楽しみにしております
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あっきーさんへ (yoshiko)
2010-02-14 06:05:17
あっきーさん、おはよう~
ドラクロアはショパンとサンドの両方の親友で、サンドの長男、モーリスにも絵を教えていました。
サンドが、ショパンと破局し、自らもすごく傷ついた彼は、ショパンの後ろでサンドがピアノをきいていた構図の絵を、2つに引き裂いてしまう。
これは、ドラクロアの死後、引き裂かれたという説もあるけど、私は本人だと思うなあ。
オスカルさまは、あっきーさんも大好き?
サンドの男装は、違う意味があると思う。
2人の子供と手をつないだりしてるサンドは、女性らしいたっぷりとした当時のドレスを着ているし、肖像画もドレスの絵は多い。
映画でも、ショパンの晩年のノアンの様子だけど、サンドはもう男装していません。
パリのものすごい文化の嵐の中で、男装することによって、自らの存在の意味を確信したかったのかなあ。
サンドの資料を読めば読むほど、彼女の人間性が好きになっていきます。
ショパンにとって、無くてはならない存在になったのですね。
ショパンをサンドに紹介したのは、リスト。天才通しの交流とその流れが、強くて激しくて、この時代に生きた彼らの残したものの偉大さを改めて痛感します。
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