摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

四天王寺(大阪市天王寺区)~聖徳太子のご慈悲と古代信仰からの過渡期を現した鳥居を持つ伽藍配置~

2020年06月13日 | 大阪・南摂津・和泉・河内

 

今回は珍しくお寺です。誰もが知る、聖徳太子が創建した、日本最古の官寺ですね。JR・地下鉄天王寺駅、近鉄あべの駅から徒歩で15分、地下鉄谷町線四天王寺前夕陽丘駅からは徒歩5分で着きます。

 

創建の経緯は、「日本書紀」にある通り。仏教を排斥しようとする物部守屋を討伐する戦いで蘇我馬子率いる朝廷軍が苦戦した時、厩戸皇子(聖徳太子)が゛ぬりで(霊木)゛を切り取って四天王の像を作り、゛今、自分を敵に勝たせていただけるなら、きっと護世四王(四天王)のために寺塔を建立する゛と言われ、見事勝利された事から、593年に難波の荒陵に造り始められた、と書かれています。一方の馬子も祈願しており、飛鳥に法興寺(飛鳥寺)を建立します。

 

・あべのハルカスも近いです

 

聖徳太子の時代、四天王寺のある上町台地の西側は海、そして東側は河内湖や湿地でした。つまり、大阪市で陸地だったのは上町台地だけであり、この辺りに前後期難波宮や、坐摩宮生玉宮旧の鎮座地が集まっていたのです。当時、四天王寺の有る地は交通の要衝であり、難波津から陸路で竹内街道へ向かう前にこの地を通りました。四天王寺は近畿の表玄関であり、高台に建立されたその威容は存在感があったと思われます。

 

四天王とは、帝釈天(古代インド神話、リグ・ベーダの主役であるインドラ神)の四人の武将の事で、四方を守る仏教の守護神。東を持国天、南を増長天、西を広目天、そして北を多聞天が守るとされます。四天王の一人、多聞天は毘沙門天とも呼ばれます。四天王寺の伽藍配置は、中門、塔、金堂、講堂を南北に一直線上に並べる四天王寺様式として知られます。

 

〇中門

最南端にあたり、脇の間に仁王尊像を祀っているいることから俗に仁王門と呼ばれます。東側は那羅延金剛力士、西側は蜜迹金剛力士であり、大きさでは奈良東大寺の仁王様に次いで、わが国で2番目です。

 

 

〇五重宝塔

昭和20年の空襲で七堂伽藍の大半は焼失し、現在の塔は昭和34年の8度目の再建です。鉄筋コンクリート(屋根は本瓦葺)ですが、飛鳥時代の創建当時の姿を再現しています。特に相輪(上部の九つの輪)の高さが塔全体の三分の一に達することや、棰勾配と屋根勾配が緩やかな事が特徴です。塔の総長39.2m、相輪の長さは12.3mになります。最上層部に舎利塔が奉安されています。

 

〇金堂

四天王寺の本尊である救世観音菩薩像が安置されその四方に四天王像を祀っています。現在の金堂は昭和36年の再建で、主屋裳小階式の建築・屋根は錣葺・直線的、棰の配置が扇棰である事等が特徴です。法華経の救世音菩薩普門品(観音経)によれば、観音菩薩は自在に姿を変え、衆生を救うそうで、゛聖徳太子は救世観音菩薩の化身である゛という信仰に繋がります。本尊の仏像が救世観音菩薩かどうかは、学問的には異論も有るようですが、万民を救おうとした四天王寺の本尊としてふさわしい、と、なにわ物研究会編「大阪まち物語」で古館晋氏が述べられています。

 

 

〇講堂

聖徳太子が法華経、勝鬘経を講讃された所であり講法堂とも言われます。堂内は夏堂と冬堂に分かれ、冬堂には十一面観音菩薩像、夏堂には阿弥陀如来坐像を祀っています。特に阿弥陀如来坐像は京都の松久朋琳・宗琳両四天王寺大仏師により造られたもので、基壇から頭上まで約6mあり、昭和の丈六仏として親しまれているそうです。

 

 

四天王寺には、敬田院、悲田院、施薬院、療病院という四つの院が有りました。敬田院とは仏教や学問の修行の場です。悲田院は、今も悲田院町の名が残っていますが、孤児や高齢者などの身寄りのない人の救済施設。施薬院は文字通り薬を施す場で、療病院は日本における病院の元祖でした。つまり、精神的な救済と飢えや病などの物質的・物理的な救済を目的とした一大福祉センターだったのです。四天王寺は、京都の寺院のような貴族の私物ではなく、仏教の慈悲の精神を広く実践する場であり、万民の幸せの為に建立された寺院であるので、その精神は天地の差がある、と先の古館氏は主張されていました。合掌。

 

・石ノ鳥居。重要文化財です。

 

昭和20年の空襲で、本坊通用門、六時堂、五智光院、元三大師堂、湯屋方丈らと共に戦火を免れた西門石鳥居は、創建時は木製でしたが1294年に忍性上人が勅を奉じて石造りに改めました。扁額には゛釈迦如来転法輪処当極楽土東門中心゛と浮彫風に鋳出されています。平安時代末期から鎌倉時代にかけて、四天王寺の正門は西方浄土(極楽)の東門に向かっている、或いは東門にあたる、という信仰が起ります。「今昔物語」などの古典によると、西の西側は海岸であり、往生の聖地とされました。夕日に浄土への思いをはせ、入水往生する人も多かったそうです。

 

・六時堂。重要文化財

 

四天王寺の宗派は長く天台宗に属し、戦後は独立して和宗本山となっています。お寺に関連して、四天王寺福祉事業団は四天王寺病院や四天王寺悲田院の経営など種々の福祉活動を行っています。また、四天王寺中学校・高校や四天王寺国際仏教大学などの教育活動もあり、聖徳太子の志は今も受け継がれているのです。

(参考文献:四天王寺パンフレット、なにわ物語研究会編「大阪まち物語」)

 

・石舞台。こちらも重要文化財

 

旧東出雲王国に残る、飛鳥時代を中心とした伝承を説明した「飛鳥文化と宗教争乱」では、四天王寺の伽藍配置は、推古大王と上宮太子(聖徳太子)の妥協の結果だと云います。仏教を好んでいなかった推古帝は、現在の森之宮の地に神社を建てるよう指示しましたが、仏教信仰の篤い太子はその地に(元の)四天王寺を建てていました。そこで推古帝は゛四天王寺を上町台地の荒墓に移せ゛、と指示したのです。帝はその地に迎賓館も一緒に建てて、外交の中心にしよう考えました。

 

・西側の極楽門

 

推古帝はさらに、゛夕日を拝めるよう鳥居を建て、寺の伽藍は西きにせよ゛と具体的な指示をしたそうです。太陽を拝むのは、敏達天皇の設置した日祀部(日奉部)の仕事であり、これが持統帝による伊勢のアマテラス神以前の、アマテル神信仰だったからす(大和岩雄氏、筑紫申真氏、今谷文雄氏)。これに対し太子は伽藍南向きに並べる要求をします。これは当時の百済の軍守里廃寺同じ配置で、塔は尊いので金堂の前に建てられています。さらに、大王との妥協の為、特別に西大門と鳥居が付けられたそうです。由として、゛西大門があるのは、釈迦の昇天された浄土の方向尊重するため゛という仏教的解釈が、太子により与えられました本尊は、後になって格上の救世観音に変えられた、と上記の本に書かれています。


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