(2022.5.24写真更新)
地元では「いくたまさん」の愛称で親しまれ、難波大社の堂々たる別称も持ち、大阪の総鎮守とも称される、いくくにたま神社です。江戸時代には幕府の保護もあり、神社境内から数多くの上方文化芸能が花開き、近松門左衛門の「曾根崎心中」の舞台となったり、井原西鶴がここで矢数俳諧4000句の大イベントに成功したという歴史も残っています。そして現在も、御神前で能や狂言が催される8月の”大阪薪能”や、上方落語の祖・米澤彦八の遺徳をしのんで上方の落語家総出演で催される9月の”彦八まつり”などの芸能に関わるお祭りが毎年開催されているのです。(なお、ご参考ですが、奈良にも生國魂神社が鎮座します)
・生玉北門坂の鳥居
【ご由緒】
神社は、初代神武天皇が九州より東征し難波津に着いた際、現在の大阪城を含む一帯に、日本国の御霊である生島大神・足島大神を祀られたのが創始だ、と御由緒を説明します。しかしこの話は記紀にはなく、「日本書紀」の孝徳帝時代に”生国魂社の樹を伐りたまふ”と、難波宮造営に関係すると思しき記述が有るのが初出になります。850年の「文徳実録」には、天皇の即位儀礼に関わる生国魂大神の祭祀である”八十島祭”を斎行した記録があり、以後約400年の間、この天皇即位の国家祭祀は斎行され続けます。859年の「三代実録」では”難波大社”、932年の「延喜式」では”難波坐生國咲國魂神社二座”と呼称されました。
・天王寺七坂の一つ、真言坂
【旧鎮座地と祭祀】
旧鎮座地は、「嘉元四年御領目録」には”生魂新庄”の地名があり、1496年に本願寺の別院を生玉庄内石山の地に草創し、そこに生國魂神社の社殿を造替したとあります。その後豊臣秀吉が大阪城を築城する為、当社を現在地に遷して今に至ります。戦前までは、7月の夏祭で旧社地である大阪城の一廓へ神輿が渡御し、天満宮の”船渡御”に対して”陸渡御”と並び称されるほど盛大だったのだとか。2014年から一部復興し、伝統は受け継がれています。
・真言坂の先にある北門
【ご祭神】
それにしても、現在も主祭神である生島大神・足島大神とはどんな神様なのか、という事です。谷川健一編「日本の神々」での、大和岩雄氏の説明では、「延喜式」によると当時、神祇官西院で御巫祭神八座、御門巫祭神八座、そして近くの”ざまさん”の坐摩巫祭神五座と共に、生嶋巫祭神二坐が祀られてると記載されています。「延喜式」には、八十島祭では生嶋巫の派遣も規定されていて、一緒に祭祀を掌っていた住吉大社の神官よりも生嶋巫の方が、国から支給される物品が多かったのです。この事から、宮中の生嶋神・足嶋神は、もと難波地域に祭られていた神々であり、八十島祭への吸収と相まって、その神を宮中にも祭るようになったと推測できるようです(吉田昌氏)。そういえば、坐摩神も同じように難波の地から宮中に祭られただろう、という話でしたね。
・井原西鶴の像
【八十島祭と鎮魂祭】
そして、留意すべきが、その神を祀る八十島祭と、天皇の最も重要な皇室祭祀である新嘗祭の前日に行われる鎮魂祭との共通性です。八十島祭とは、天皇の即位儀礼である大嘗祭の翌年または前年に行われます。勅使が天皇の”御衣”を納めた箱を持って船で難波まで下り、難波の熊川尻の海浜で海に向かって”御衣筥”を開き、御琴弾が琴を弾く間、女官が”御衣筥”を振り動かす、という儀礼です。これに対し、「江家次第」や「儀式」の鎮魂祭についての記載にも、”琴師和琴を弾く”間に”女官蔵人御衣筥を開き、振動する”とあり似ています。大嘗祭とは、つまり新天皇が初めて行う新嘗祭です。その新嘗祭の前日に行われる鎮魂祭について「令義解」に、鎮魂とは”離遊の運魂を招き、身体の中府に鎮む”事だとあります。
・拝殿
【生魂・足魂は荒魂・和魂】
生まれたばかりの魂である生魂は、”身体の中府に鎮む”とき足魂になります。箱を開いて魂を招き入れることが生魂で、それを入れた箱を振る事で足魂になる、という事らしいです。荒魂・和魂という表現が有りますが、荒魂は生魂で、和魂が足魂にあたり、魂のもつ生成の呪法を示す為、対になって一体化して呼ばれているだろうと大和氏は推測されています。即位儀礼が誕生儀礼であり、”御衣筥”は生まれたばかりの日の御子・天皇の入ったゆりかごだから、(母役として)女官がゆり動かさなければいけないのです。そして、鎮魂祭が生魂・足魂を含む宮中八神の神事なのに対し、八十島祭は生島魂・足島魂の神事で国土の生成にかかわるとされます。なお、石上神宮の鎮魂祭についてもその記事で触れました。
・拝殿奥の本殿
・三重の破風がかろうじて確認できます
生魂・足魂と共に、対で使われる言葉に生日・足日が有りますが、この足日を逆に書くと”日足”。これは養育・成長を意味し、”たらしひ”と読みます。この語を名前に含む天皇は、舒明天皇、斉明天皇などの息長氏系の天皇に特に多く、それより何より難波王朝の始祖・応神天皇の母も気長足(息長帯)姫であり、坐摩神社と同じく、ここにも神功皇后がキーパーソンとして浮かび上がってくるのです。坐摩神社と生国魂神社の旧鎮座地は共に大阪城、そして難波宮の近くなので、繋がりが有った事が想像されます。
・社殿向かって右の摂社。手前から天満宮、住吉神社、そして皇大神宮
【社殿】
生国魂神社の本殿の造りは、生玉造と呼ばれ、本殿から前の幣殿まで一つの流れ造で葺きおろし、その上に千鳥破風、すがり唐破風、千鳥破風と3つの破風を備えるという他に例を見ない形式です。周りから見てもなかなかわかりにくいですが、コチラの大阪観光局のページの写真が分かり良いです。威厳溢れる造りです。
(参考文献:生国魂神社ご由緒書、谷川健一編「日本の神々」大和岩雄氏)
・精鎮社(弁財天社)。こちらの生玉の杜には多数の境内社が鎮座し、休息もできます
・鴫野神社。太閤秀吉夫人の淀君が篤く崇敬し、女性の守護神として今も信仰されます
【伝承】
既に絶版になっている、大元出版の不思議な新書「お伽話とモデル」に、「摂津国風土記」逸文の、少し笑えない話が紹介されています。
”(摂津国難波の)堀江の東に沢があった。広さは三・四町ばかりで、名を八十島といった。
むかし女が自分の児を背負って、人を待っていた。待つ間に網で鳥を獲ろうとした。すると川の鳥が一斉に飛び立ち、網に掛かった。鳥の数があまりに多かったので、鳥たちの力に引きずられて、沢に落ちて死んだ。
その時居た人が頭の数を数えたら、人の頭が二つで、鳥の頭が七十八あった。あわせて八十になるので、その沢を八十島と言うようになった”
・浄瑠璃神社。近松門左衛門など芸能の成立に功のあった神々を祀ります
その本でも説明している通り、これを古代難波王朝のたとえ話だとすれば、この母子が誰なのかは、想像がついてきますね。つまり、母が神功皇后で児が応神天皇だと、東出雲伝承は云います。そして鳥とは、鳥の名のついた人が多い、武内宿祢の多数の子孫達を喩えているらしいです。”人を待っていた”とは、本では”児が育ち、強くなるのを待っていた”意味だろうと説明していますが、”血筋を継ぐ後継者を待っていた”の方がしっくりくるような。つまり、応神天皇の後は武内宿祢の子孫の群れに圧倒された事をほのめかしているのだ、との主張です。確かにその後の天皇陵の有る地名は、世界遺産になった”百舌鳥”という鳥の名前で今も呼ばれています。
2020年暮れに出版された大元出版の「仁徳や若タケル大君」で富士林雅樹氏が、上記した「摂津国風土記」逸文の話と共に、八十島祭の起源について、いつもながら権力側へのチョッぴりアイロニカルな視点で説明されています。ご興味あれば、ご確認下さい。
・生玉の杜の立派な境内社群。手前から、城方向八幡宮、鞴神社、家造祖神社、浄瑠璃神社