摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

百舌鳥古墳群散策2 ~古市の誉田御廟山古墳 から遠く離れた河内王朝王墓の謎~

2018年12月29日 | 大阪・南摂津・和泉・河内

仁徳陵に続いて、正面の大仙公園内にある堺博物館を見学しました。さ
すがの堺ですから、常設展示は古代だけでなく、中世以降の展示も充実
しています。あと、館内には百舌鳥古墳群シアターがあり、約200イ
ンチの巨大スクリーンで10分強の映像が見れます。まあ、特に感動す
るというほどでもありませんでした。。。また別に、360°VR疑似
体験ツアーなるものもあるようです。



仁徳陵は、江戸時代から墳丘の様子が確認されており、以前の「宮内庁、
堺市による共同調査」の紹介記事
で、堺博物館で掲示されていた18世
紀初頭の絵を掲載しましたが、もう一つ、19世紀後半の「文久の修復」
の前の様子を描いた絵も掲示されています。



これらの絵からも感じられる事ですが、とにかく墳丘表面がデコボコで
けして整ってないです。これは、近年の航空レーザー測量でも等高線が
乱れている事が確認されていて、未完成説、城郭改造説、地滑り説など
の見解がありますが、はっきりとは分かっていません。

コチラは、同じく堺博物館で掲示されていた、日本の考古学の父と言わ
れるウィリアム・ガウランドが、明治5~21年の滞在中に撮影した
写真です。デカいですが、なんとなく素朴に映っていますね。



江戸時代にあっても、中濠や中堤が新田開発されるなど、結構民間人が
入り込んでいたようです。しかし、前記の文久年間の公武合体の影響で
徳川家の費用で各地の陵墓が大改造されていった頃から様子が変わって
いったといいます。仁徳陵は、三重濠の再掘削など手が加えられ続け
明治30年代にようやく現在の立派なかたちになりました。今の陵墓
とされる古墳の姿は、あくまで幕末~明治政府の意思の入った姿だと
認識するのが良いのでしょう。


続いて、大王墓から離れて、中規模のいたすけ古墳に向かいました。
中規模といえども、この古墳はある意味百舌鳥古墳群を代表する古墳
とも言え、ここの後円部から出土した衝角付冑型埴輪は、堺市の文化財
のシンボルマークのモチーフとなっています。



NHK-BSプレミアムの番組「新日本風土記」の堺の回で、このいた
すけ古墳の保存に至るエピソードが取り上げられていました。堺はそ
れなりの都会なので、戦後の宅地開発の勢いの中で陵墓以外の多くの
中小古墳が潰されていきました。今では信じられない事です。その波は
このいたすけ古墳も襲い、なんと周囲に池を持つ住宅地として開発され
ようとしたのです。土取り工事の橋げたまで造られ、危機が迫っていま
した。

それに対して立ち上がったのが、最近「よみがえる百舌鳥古墳群―失われ
た古墳群の実像に迫る」を出版された、学生時代の宮川 徏氏らを中心
とした市民運動でした。「ここがなくなると、陵墓以外のまともな古墳
がなくなる、という切羽つまった気持ちだった」と宮川氏は語ってい
ます。その運動は功を奏し、昭和31年に国の史跡に指定され保存され
ることになりました。先記の工事用の橋げたを残そうと提案したのは、
宮川氏だったそうです。「文化財保存の”原爆ドーム”として」との思い
からでした。なお、宮川氏の本職は歯医者さんで、番組でも治療されて
る様子が紹介されていました。


最後に、御廟山古墳をぐるりと廻りました。ここの墳丘は応神天皇の陵墓
参考地として宮内庁が管理しています。平成20年に、墳丘と濠の中で、
宮内庁と堺市がそれぞれ同時に調査をされたことが有り、成果を上げてい
ます。



墳丘は3段に築かれ、第1段テラスには高さ75cm前後の円筒埴輪が
隙間無く並べられていました、葺石は第1段、第2段斜面ともに葺かれ、
石の大きさが5~15cm程度で、この200mを超える古墳としてはかな
り小さいようです。南側だけ造り出しがあり、その西側付近で見つかった
囲形埴輪とその中に収められた家形埴輪の一部が、祀りの様子を知る上
で大変重要な発見とされています(以上、参考文献「堺の文化財 百舌
鳥古墳群」堺市文化観光局)。



記紀の記述により、仁徳天皇は応神天皇の皇子と理解されています。
ただ、それぞれの陵墓が所属する百舌鳥古墳群と古市古墳群が9kmも
離れているのは不可解との意見もありますね。

東出雲伝承は、オオサザキ大王はホムタ大王の皇子ではない、として
います。この時代から飛鳥時代にかけて、武内宿祢の子孫の大王や豪族
が活躍していく時代になります。そして、ホムタ王の後継を争った宇治
川の戦いは、史実に対して人物を入れ替えて書かれており、実際は、敗
れたのが菟道稚郎子、勝利したのがオオサザキ命だという説明です。そ
の前段で、ホムタ王にまつわる、名前を交換する話が出てきますが、前
記の編集方針をほのめかしたのでしょうか(「お伽話とモデル」)。

また、別の伝承では、ホムタ王の長男、大山守命はその戦いで亡くなっ
てはおらず、父の故郷である東方へ逃れたという古伝も存在します。
そこで姓を宮下に変え、古文書の一つ、宮下文章の管理者の祖にな
ったという話です(前田豊氏「徐福と日本神話の神々」)。大山守命
が亡くなっていない、という事では話が通じます。関東の王国の存在
を隠す為に、記紀では大山守命を亡くなった事にしたのでしょうか。




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