摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

伊勢神宮 1 内宮別宮- 伊雑宮 ~「伊勢三宮説」出現の経緯~

2019年02月16日 | 伊勢、東海

昨年、伊勢神宮~外宮内宮そして伊雑宮~のお参りをしました。一応、しっかりとお国の繁栄をお祈りして、各お宮を写真に収めさせていただきましたので、何回かに分けて、関連情報を添えてまとめます。まずは、順番が逆ですが、遥宮の一つ、志摩の伊雑宮です。ご祭神は天照大神御魂。中世、近世は伊射波登美命と玉柱屋姫命とされてたようです。

・上之郷駅は無人駅です

 
伊雑宮といえば、「伊勢三宮説」の謎がまことしやかに語られる事があります。この説が出て来た経緯を、谷川健一氏編「日本の神々」(新装版)の岩田貞雄氏の記述から要点を追ってみたいと思います。

もともと大宝令では、神社の神戸(神社の収入源となる民戸)の管理は国司が管轄し、伊雑神戸は志摩国司に属していました。律令制が緩んできた後は、"総検校職"がこれに代わり、物部十千根命の一支族とする的矢氏がこの職に補されていました。戦国期になると、的矢氏が衰え伊雑宮のある神領磯部の地は無法地帯と化します。そこで郷民らは武士の九鬼嘉隆に神戸の保護を依頼しますが、嘉隆は勢力を強め、磯部の地を武家領にしてしまうのです。



伊雑宮に奉仕していた神人と磯部郷民たちは宮の管理の費用に困り、1625年に上訴を申し立てるべく移動しようとしますが、これを快くおもわない九鬼守隆は逢坂峠に新関を設置、それでも通行しようとした神人がいた事に怒り、神人50余名が神島へ流刑されてしまいました。守隆が亡くなると、関東に赴き幕府に繰り返し訴えましたが、回答は有りませんでした。磯部を神領に戻すと、豊かな石高が得られなくなる鳥羽藩の意向が有ったようです。1652年には朝廷にも訴えましたが、望む回答は得られませんでした。



そこで神人達が取った策が、伊雑宮を尊重なる神社と宣伝する事でした。1658年の朝廷への上申では、「伊雑皇大神宮は日本最初の宮で、のちに内宮ができ、次いで外宮が遷座した」と述べ、その後、伊勢三宮説を創案しました。それを補強する為、1662年には「伊雑宮旧記」なる古びた古文書の体裁の書物を偽作者につくらせます。さすがに内外両宮も見過ごせなくなり、朝廷の裁決によって伊雑宮は内宮の別宮と定められました。神人達はこれにも不満で、夜中に江戸に出向いて当時の将軍家綱公へ直訴までしましたが、結果は主だった神人47名が伊勢・志摩両国から追放されるという最悪のモノでした。

しかし、これでも話は収まらず、いわゆる「大成経事件」が勃発します。まず、1679年に江戸で堂々40巻の「旧事大成経」が刊行されます。これは伊雑の神人達が、当時有名だった神道家、儒者、僧侶に3千両という大金で、伊勢三宮説と伊雑宮の優位性を執筆させた書物でした。この書の効果はあったようで、学者のなかにこの書を信奉するものが多く出ます。そこで幕府が治安上問題と判断し、1683年、版行の書と版木の廃却を命じ、関係者は流刑・追放に処せられ、ここに50年に及ぶ一連の事件の幕が閉じたのです。

大成経事件の主謀者は神人の代表格だった中村兵大夫でしたが、鳥羽藩によって毒殺されてしまいました。後年、磯部郷民たちは兵大夫の労苦を顕彰し、観音石像を建てて追善供養したそうです。神人の子孫たちは、廃藩置県の明治4年まで、神領再興の機会を常にうかがっていたので、代々の鳥羽城主は、磯部神人の動静に気を配っていたそうです。



東出雲伝承では、昔、出雲国に伊射波神社が有ったと云います。そして、伊雑宮は出雲から勧請されたと述べています。倭姫は、伊勢から志摩国に行き、伊雑宮の社家、伊射波登美彦を頼りました。 この人は名前の通り、出雲系の大和の豪族、登美氏出身です。つまり、伊雑宮は倭姫が来た時、既に有った、ということですね。



コチラが隣接する、日本三大田植祭の一つとされる御田植祭の舞台となる磯部の御神田(他の二つは、住吉大社と香取神宮)磯部の9郷が1郷または2郷合同で、輪番制によって奉仕しています。



祭りで植えられるのは一部だけで、全体は後日田植をするようです。夏の時期で、稲穂が整然と並んでいました。





伊雑宮から少し北に歩いたところに、倭姫の旧跡地があります。千田の御池は、倭姫がこの地で真名鶴が稲穂をくわえて飛び泣くのを奇瑞とされ、この地に引水田と苗代を造った跡とされます。



その横にあるのが、天井石・鏡楠。大正末期にここの大楠を刈り倒した際に、根本から天井石が現れ、その下から鏡や勾玉などが出てきた事から、倭姫の遺跡ではないかと地元の人々は色めきたったそう。その頃、伊勢の微古館近くに倭姫宮が建設中でもあったせいか、鏡などは持ち去られ、現地調査も官憲に禁じられたそうです。掲示の散策マップには、その鏡は室町時代の白銅鏡で、現在は志摩市立歴史民俗歴史館に保管されている、と記載されていました。



・秋葉堂と庚申堂




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