摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

生田神社(いくたじんじゃ:神戸市中央区)~忽然として現れた稚日女尊と「日本書紀」区分論の天照大神

2022年09月10日 | 兵庫・西摂津・播磨

 

昔からエキゾチックなイメージから゛おしゃれ゛とされてきた神戸三宮(今はどうなのでしょうか)。そんな駅前の一等地に一見不釣り合いにも見える大神社です。「日本書紀」に創建由来が載るというご由緒も十分な古社ですが、人と人の縁を結ぶ神として恋愛成就を願う参拝者が多いとされますが、神社は特に厄除け・安産祈願の御利益も案内されているようです。お名前の生田についても、活き活きとした生命力あふれる場所に由来するとされていて、パワー・スポットとしても人気があります。たまたま平日に参拝したのですが、それでも神戸っ子の心のよりどころと言われるとおり参拝者がひっきりなしで、やはり女性の比率が高かったです。また、境内奥の「生田の森」でも市民の憩いの場らしく思い思いにくつろがれていました。

 

・一の鳥居を入ると右側に鎮座する松尾神社

・同じく左に鎮座する大海神社

 

【ご祭神・ご由緒】

当社のご祭神は稚日女尊で、天照大神の和魂とか妹神ともされる神です。その御由緒は「日本書紀」の中で神功皇后が創祇したと記載されています。つまり、新羅遠征を終え忍熊王との戦いに向けて船で難波に向かっている時、船が海中でグルグル回って進まなくなりました。それで、武庫の港に還って占われたところ、最初に天照大神が教えて言われました。゛わが荒魂を皇后の近くに置くのは良くない。広田国に置くのが良い゛それで、山背根子の女、葉山媛にまつらせたのが、廣田神社です。続いて稚日女(ワカヒルメ)尊が教えて言われるのに、゛自分は活田長峡国に居りたい゛と。それで海上狭茅にまつらせたのが、当社・生田神社になります。最後には事代主命が長田国に祀るように言われたので、長媛が長田神社を祀りました。

 

・楼門

 

この説話について、かの津田左右吉氏は゛単に美名を並べたものであって、何れも指すところのないところであるらしい゛と、架空譚として一蹴されてたようですが、「日本の神々 摂津」で落合重信氏は、(元鎮座と思われる砂山の)生田村の集落がおそらく弥生時代以来のものでもあり、大同元年(806年)に神戸四十四戸を奉ぜられている(そして、これが地名「神戸」の由来とされる)ほどの神社が忽然として現れたわけがない、と反論されています。ただ、稚日女とは要は斎服殿で神衣を織る天照大神のこととも捉えられ、たとえ妹神だとしてもこの地に突然現れるのは奇妙であり、考究すべきであると論考されています。

天照大神の別名としてのオオヒルメに対するワカヒルメという事で、御子神とか若宮とまでは考えられますが、生田神社のワカヒルメとは具体的にどういう神かはなかなか難問だと、落合氏は苦慮されていました。「日本の神々」執筆当時の神道史の研究状況では、皇后の筑紫での熊襲征伐の前の親征のさい神告として出てくる゛幡萩穂に出し吾や、尾田の吾田節の淡郡に所居る神゛が、その順番からこのワカヒルメがあてられるところから、伊勢・志摩の海部との関係に注目にされていました。また中世の時代の生田の神は゛青龍権現゛とされてたようですが、神が蛇体とされるのは珍しくなく、三輪山の神の場合などの例があると、あまり注目できなさそうとのことでした。

 

・拝殿

 

【祭祀氏族等】

「日本書紀」の由緒に最初の祭主として名が載る海上五十狭茅は神話上の人物とされますが、その子孫と称する海上氏は、代々室町時代まで神職を務め、現在も近郊に在住されているようです。海上氏といえば、房総半島上総国、下総国それぞれの上海上国造、下海上国造が、「古事記」や「先代旧事本紀」に見えていて、天穂日命の子・建比良鳥命の子孫であり出雲国造後裔の氏族とされています。「日本古代氏族事典」では、海上氏は敏達天皇の孫である百済王の後裔氏族(「新撰姓氏録」左京皇別)とありますが、その氏名は下総国海上郡を本拠とする海上国造他田日奉直氏から出た乳母によると推定、とありますから、やはり上総・下総の海上が元なんだろうとの理解をしています。

 

・拝所から本殿を拝見。大型の一間社春日造。御祈祷中でした

 

広瀬明正氏によると、ウナカミ氏は東国のみならず伊勢北部にも勢力を張った氏族で、大和朝廷とも深い関係を持っていたようです。ここから、先の落合氏は、「海上」とは要するに海部を修して氏としたもので、海部のなかの一族と解され、生田神社はもともとは海部の祀る神だったのではないかと考えられていました。

なお、当社の社家としては海上氏、刀禰氏、後神氏の三家で務めていたそうですが、最終的には後神氏が専任していました。その後神氏の始祖・中臣烏賊津連は、その別名とされる境内社・雷大臣神社に祀られています。

 

・本殿向かって右側。右から住吉神社、八幡神社

・本殿向かって左側。右から諏訪神社、日吉神社

 

【中世以降歴史】

幕末から明治にかけての時代の転換期に、当社は大きな役割を果たします。開港するにあたり、外国人を受け入れる事になりましたが、彼らが暮らせる場所がなかったのです。そこで当社は、当時海岸線まで延びていたという参道とその周囲を一部提供、そこがいわゆる有名な外国人居留地になったのです。明治時代はフランスの領事館が境内にあったり、その境内にいち早くガス灯が設置されたりで、六車宮司は当時の宮司が外国のものを取り入れる事に積極的な方だったのだろうと、NHK「新日本風土記 神戸」でのインタビューで語られていました。番組では当社に親しんでいるドイツ人母娘が登場しますが、娘さんは子供の頃から、結婚式は活田神社で挙げたいと言っていたそうです。

 

・社殿東の三社。右から塞神社、宮司家先祖を祀る雷大臣神社、柿本人麿を祀る人丸神社

・稲荷神社。神社によると当社一の撮影スポットとのことです

 

【鎮座地、比定、発掘遺跡】

社伝は昔からの口碑より鎮座地を説明しているようです。つまり、布引の渓流が大洪水となり、砂山(布引山)の麓が崩壊して、生田の社がすこぶる危険になったとき、刀根七太夫という人が早速駆けつけて、御神体を背負い、命からがら自宅まで帰りました。しかし、なお洪水の恐れがある為、再びご神体を背負って今の地まで避難したところ、にわかに重くなり、一歩も進むことが出来なくなったので、そこに鎮座する事になった、というものです。

落合氏は、799年の畿内の大洪水にあたるのかどうかは不明としても、旧生田村に接する砂山が古代の祭祀にふさわしい場所なので、古代の生田社は砂山に有っただろうと考えられていました。その山の北側からは弥生末期の生活土器が出土していると、小林行雄氏によって昭和初期に明らかにされており、高地性集落遺跡だと認識されてることも傍証になるでしょう。なお、旧生田村と今の生田神社の地は離れていますが、「和名類聚抄」から古代はいずれも同じ八部郷に属していたことがわかるようです。

 

・社殿を後方から。左側の大きな春日造の屋根が本殿

・史跡生田の森。中央の春日造の社殿が蛭子神社で左の小祠が戸隠神社

 

 

【伝承の語るワカヒルメ】

天照大神は、別称として大日孁貴・大日孁尊(オオヒルメムチ・オオヒルメノミコト)等とも呼ばれ、皇室祖神として伊勢神宮にお祀りされています。これは奈良時代から続く信仰として歴史があり確かなものです。対して、東出雲王国伝承を語る斎木雲州氏によれば、より古代においては、弥生時代中期からの出雲・丹後を本貫とする氏族(それぞれ登美氏・海部氏)による初期大和勢力の頃から太陽女神を三輪山に祀って信仰しており、その神を祭祀する゛姫巫女を大ヒルメムチと呼んでいた、といいます(この呼称は持統天皇の頃にも使われています)。そこに、日向・宇佐の九州東征勢力が月神を擁して乗り込んできたというのです。その月神を祀る姫巫女を当時若ヒルメムチと呼んだと、斎木氏は書いておられます。今回この話を利用して、゛代入゛したいと思います。

さらに後に現れる事になる神功皇后が、その月神を信仰していたと出雲伝承はいい、葛野の月読神社にある月延石の謂われでも語られます。また皇后は、新羅侵攻で参戦した丹波・但馬の水軍の功績を認めて、この地のアマ氏に「海部」の名前を与えられたと「海部氏勘注系図」の記述から説明します。さらにその海部氏は、西宮神社に登美氏(や後の加茂氏)の始祖に相当する事代主命を蛭子様として祀った事が、周辺の信仰と出雲伝承からうかがえます。

 

・市杵島神社

・戸隠神社奥にはかつての鳥居が設置されています

 

【「日本書紀」区分論での゛天照大神゛】

近年、森博達氏が出された「日本書紀」区分論が興味深いです。その漢文の熟達度合いなどから、各巻をα群、β郡と二つに分けられ、α群が持統朝に書かれ、β郡が文武朝以降に書かれたと考えられたのです。そして、天照大神の呼び名が、1~13巻が含まれるβ群のみに含まれ、α群には゛日神゛゛伊勢大神゛の言葉しか出てこない事から、「天照大神」信仰は文武朝以降に生成したと主張されます(かつての大和岩雄氏の「天照大神生成時期」説と同様)。神功皇后紀は、巻第九です。まだ、議論の余地はある説だそうですが、出雲伝承の語る記紀編集過程(文武朝以降に大きな変更があったらしい)の話とつながりそうで、とても興味深く思っています。

 

・生田の森

 

【廣田社、生田社、長田社の神々思案・私案】

以上から個人的に思いつく推定です。女性でもある神功皇后が、まず日神(昔から和人に一番人気が有る神)を挙げ、続いてそれに対となるような、皇后も信仰した月神を挙げ、さらに、皇后に協力した海部氏の信仰するエビス神を挙げた、と見ると、奇妙とは言えなくてあり得るのかなと感じています。加えて海部氏は、日神と月神をそれぞれ受け入れ、伊勢に遷すことにも深く関わったと出雲伝承では説明されます。だから海部氏が宮司を務める神社が元伊勢(籠神社)と呼ばれるのです。ただ、記紀製作の段階で゛女帝゛から、月神の事は書かないよう御指導が有った等の出雲伝承を前提とすると、そこには古い表現で言い換えをしたかもしれない、という想像になります。一方、日神は逆に新しい表現に変更されたと思えます。

そうなると、現在も境内に祀られる旧社家の始祖・雷大臣が、京都葛野の月読神社でも同じように祭祀氏族の始祖だと説明される事も気になります。さらに、生田神社が安産祈願の神として崇敬されてきたことも、つじつまは合うような気がしてきます。

 

・神功皇后を祀る生田森坐神社

 

【海上氏の伝承】

最後に、海上氏について。斉木雲州氏は、「先代旧事本紀」で上海上国造が天穂日命ノ孫とされるのは、西出雲王国王家の神門臣・振根ノ子孫とするのが正しいと主張します。また同じ本に安房国造家にも穂日家の後の大伴直大滝が見えますが、これも神門臣大伴の後が正確だといいます。神門臣オオトモは丹後に移動してアマ(海部)氏勢力に加わったので、そういう苗字になったらしいです。旧出雲王国王家は、神門臣氏の西出雲と、富(向)氏の東出雲で構成されており、上記した大和の登美氏は富氏の分家にあたると説明されています。出雲国造家と旧王家は、血筋的には一時婚姻関係があった程度の関係で、出雲国造になった後の優越的な立場から「先代旧事本紀」のような記述になったと述べられたいように聞こえます。

 

終盤の方は、いろいろ思うままに大昔についての想像を記載しましたが、現在に至る生田神社のご祭神や信仰に関しては、あくまで記紀の記載を前提とした天照大神の和魂或いは妹神なのであり、その心でお参り・ご挨拶をすべきだと思っております。

 

・境内

 

(参考文献:生田神社公式HP、NHK番組「新日本風土記 神戸」、「季刊邪馬台国」138号、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 姫嶋神社(ひめじまじんじゃ... | トップ | 飛鳥坐神社(あすかにいます... »
最新の画像もっと見る

兵庫・西摂津・播磨」カテゴリの最新記事