
平安時代後期のものとされる庭園を持つという珍しい神社ですが、鬱蒼としげる楓に囲まれた参道など神社境内もとても広く、3万4千平方メートルを図るその境内は、とにかく「大社」と呼ぶにふさわしい重厚感を感じました。ただ、「大社」と呼び始めたのは最近らしく、入口前の案内表には「兵主神社」の記載のままになっています。
・一の鳥居。神社入口はまっすぐ行って左に折れた先で、やはり車で行くような距離です
【ご祭神・ご由緒】
ご祭神は大己貴命、別名八千矛神。つまり、出雲の大国主命です。当社の創祇は、1604年の「兵主神社縁起」(「続群書類従」所収)の記述によります。以下、「日本の神々 近江」の木村史宏氏の記述より記載します。
゛養老二年(718年)に、金色の異光が兵主十八郷を照らした。五条資朝は稀代の思いをいだき、いかなる神の影光かと八崎浦へおもむいて、少しまどろむうちに、夢に衣冠をつけた神が現われ、「われは不動明王で衆生を済度せんがために百二十年前に衿迦羅童子を薬師如来に、制多迦童子を愛染明王に現じて天降らせた。いまわれも降臨して兵主大明神とならん」と告げたので、資朝は北をさして進み行くと、湖中を大亀に乗った白蛇が多くの鹿に護られながら・・・・・・
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・二の鳥居と神社入口。すぐ奥に見出し写真の翼廊を持つ楼門があります
大和岩雄氏は、同書の「大和」での穴師坐兵主神社の項で当社に触れており、社伝によればとして、古くは景行・成務・仲哀天皇の近江国志賀穴穂宮に社地があり、欽明天皇の時代に琵琶湖を渡って現在地に鎮座したと書かれていました。これが元になって上記の由緒譚になったのでしょうか。
木村氏は、兵主神社は新羅の王子天日槍の伝承との関係が無視できないと言われる事にも触れ、「日本書紀」に記載の、・・・・・・
【神階・幣帛等】
史料上の初見は「三代実録」の・・・・・・
【中世以降歴史】
上記の「縁起」に記述に不動明王が兵主神として降臨したとあるように、当社も神仏習合の形態をとるようになり、その形跡として拝殿の隣に・・・・・・
【境内】
本殿の裏手にひろがる約千四百平方mの広い回遊式池泉庭園が有名で・・・・・・
【祭祀・神事】
当社は古社にふさわしい祭礼や神事が継承されていると言われますが、特に最も古式を伝えるのが八ツ崎神事です・・・・・・
【伝承】
記紀で四道将軍の一人とされる・・・・・・
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・本殿向かって左の池泉庭園周辺を少し伺う事が出来ました