創世記24章34節である。「その人は語り始めた。『わたしはアブラハムの僕でございます。』~」と、開口一番の言葉である。先に、食事が並べられたとき、彼は、「用件をお話しするまでは、食事をいただくわけにはまいりません。」といった。一般的には失礼な話であった。しかし相手は、快く『お話しください』と受け入れた。親戚のよしみがあるといえばそうなのであるが、遠路を危険を冒してやって来た者の要望への敬意であろう。
開口一番、「わたしはアブラハムの僕でございます。」と、単なる自己紹介ではない。「アブラハム」の名には千鈞の重みがある。アブラハムがハランで神の召命を受けたとき、「あなたが祝福する人をわたしは祝福し」(創12・3)と。娘リベカの祖父の「ナホルの父テラを含めて、~他の神々を拝んでいた」(ヨシ24・1)ので、アブラハムの重みは異邦人の邪教の神々でない神、アブラハムに付与された真の神の祝福の力の偉大さである。
35節である。「主はわたしの主人を大層祝福され、羊や牛の群れ、金銀、男女の奴隷、らくだやろばなどをお与えになったので、主人は裕福になりました。」と。アブラハムの僕はリベカのことを一言も言わず、主人アブラハムのことを語り始めた。おそらく17章のアブラハムが99歳の時の神の祝福の言葉を思い出していたのであろう。17章6節、「わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。~」ということを。
「主はわたしの主人を大層祝福され、羊や牛の群れ、~」と語り始めた。旅の十頭の羊を思い出させながら、主人のアブラハムにあったままを語り始めました。聞き手の信頼を勝ち取る話法である。使徒言行録の2章、ペンテコステの時のペトロの説教も同じように「今は朝の9時ですから~酒によっているのではありません。」と語り始めた。その話法であった。