日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

牧 会 通 信

2017-05-23 00:21:04 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 16歌(カッコ内は筆子、その15)

◯わたしは見たのだ、濃く暗い大気を通して、どんなに落着いた心をもびつくりさせる一つの姿が、泳ぎ昇るやうに浮び上つてくるのを、

  それは、よくあることだが、岩かなにか海中の隠れたものに、ひつかかつた錨を解き放ちにもぐつていつたものが、

  上へ手を伸ばし脚を締めて泳ぎ上つてくるのにそつくりだつた。(前回ここまで)

ダンテの「神曲 地獄」編 17歌(カッコ内は筆子、その1)

◯尾鋭いこの獣を見ろ、山山を横切り、城壁と武器を破壊し、世界ぢうを悪臭で満たすこいつを!」

  先達はまづわたしにさう言つて、獣に合図した、わたしらの通つてきた石堤の端に近く、崖つ縁に来るやうに、と。

  するとこの不潔な欺瞞の化身は近づいて、頭と胸を緑に載せたが、尾は緑に引上げずにゐた。 (つづく)

 

◯本日、5月21日の日本聖書協会の、「聖書愛読こよみ」の主題は「キリストの体なる教会」という。聖書は

コロサイの1章9~20節である。その20節、「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであ

れ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、ご自分と和解させられました。」という。「その十字架の血

によって」というところが、わたしたち罪人には大事である。しかし場合によって当事者に罪はない、分け合う責

任もないという時が起こる。話は別。平和という名の下に争い、多くの犠牲者を出す。世の戦争はこの類。

 

◯写真は、隣の県立美術館で5月21日まで開催中の「県美展」である。時に、講師が解説してくれる.

 

 

 


プロテスタントとカトリック

2017-05-19 03:47:15 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(411) 近代から現代へ(宗教改革とその後)

 

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その51)

  33.ローマ市の陥落によっても矯正され得なかったローマ人の悪徳について

あなたがたは何と狂っていることだろうか。わたしたちの聞知するごとく、東方人があなたがたの破滅を嘆き、

遠い世界の偉大な町々が公の喪に服しているというのに、あなたがた自身は劇場を捜し歩き、そこに入り浸

り、それを満たし、以前にまさって法外な行ないを続けているというのは、過ちというよりは全くの気違い沙汰と

言わなければならない。これはこころの疾病、廉直さと(前回はここまで) 美徳の覆滅である。スキピオ(前18

5頃~前129年、前146年、カルタゴを破壊、元老院、大祭司、30.参照)が劇場建設を禁じたとき、彼が恐れ

ていたのはこれであった。なぜならば、彼はあなたがたが反映の結果として、容易に堕落するだろうことを見抜

いていたのである。それゆえに、彼は敵の脅威が全くあなたがたから取り除かれることを望まなかったのであ

る。 

  スキピオは、市民の志気・道徳が崩れ去っているのに、市の城壁が堅固なのは慶賀すべきことではないと

考えた。しかし、あなたがたの場合には、先見の明のある人物の警告の声よりも、不信の悪魔の誘惑の声の

方が強かった。ここからして、あなたがたが自分の行った悪の責任を回避しようとし、いまの苦難をキリスト教

の責任にしようとしている。繁栄と安全の時代に、あなたがたは国家の平安ではなく、逸楽・放縦の機会を求め

た。今や繁栄が失われても、あなたがたは~(つづく)(「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2017-05-19 03:33:19 | 大分中央ウィークリー

創世記24章35節である。「主はわたしの主人を大層祝福され、羊や牛の群れ、金銀、男女の奴隷、らくだやろばなどをお与えになったので、主人は裕福になりました。」と。アブラハムの僕はリベカのことを一言も言わず、主人アブラハムのことを語り始めた。おそらく17章のアブラハムが99歳の時の神の祝福の言葉を思い出していたのであろう。17章6節、「わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。~」ということを。

「主はわたしの主人を大層祝福され、羊や牛の群れ、~」と語り始めた。旅の十頭の羊を思い出させながら、主人のアブラハムにあったままを語り始めました。聞き手の信頼を勝ち取る話法である。使徒言行録の2章、ペンテコステの時のペトロの説教も同じように「今は朝の9時ですから~酒によっているのではありません。」と語り始めた。 

36節である。「奥様のサラは、年をとっていましたのに、わたしの主人との間に男の子を産みました。その子にわたしの主人は全財産をお譲りになったのです。」という。「サラは、年をとっていましたのに、」というところは、17章1節に、三つの契約を一方的に立てられた。その一つは、先週の「多くの国民の父」となること。第二は、「カナンの土地を、与える。」と。第三は、彼の妻サラによって「あなたに男の子を与えよう。」というもの。このときに、「百歳の男に子供が~」といって笑ったと(17:17)ある。 

第三の神の約束が実現して、今ここで僕がいう。「奥様のサラは、年をとっていましたのに、わたしの主人との間に男の子を産みました。」と。神の実行力は不思議である。人には実現不可能と思わせて、笑わせられるが、それは人間の神実存についての不明の愚かさを知らせるためのものであった。ここでは神の実行力を淡々と僕に語らせる。


牧 会 通 信

2017-05-19 01:33:11 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 16歌(カッコ内は筆子、その14)

◯師は言つた、「わたしが待ちそなたが想像してるものがすぐ上って来て、そなたの眼に見られるだろう。」

  嘘の外観をした真実については、つねにできるだけ口を閉じてゐるべきだ、言へば罪もないのに恥しい思ひをさせられるから。

  だがここで黙つてはゐられぬ、読者よ、長く好意をもって読みつがれるやうにと願つてゐる、この喜曲(コメディア)にかけて断言する、

(前回ここまで)

◯わたしは見たのだ、濃く暗い大気を通して、どんなに落着いた心をもびつくりさせる一つの姿が、泳ぎ昇るやうに浮び上つてくるのを、

  それは、よくあることだが、岩かなにか海中の隠れたものに、ひつかかつた錨を解き放ちにもぐつていつたものが、

  上へ手を伸ばし脚を締めて泳ぎ上つてくるのにそつくりだつた。 (つぎ第17歌、つづく)

 

◯本日、5月14日の日本聖書協会の、「聖書愛読こよみ」の主題は「みことばを語る者」という。聖書はイザヤ

書の6章1~8節である。その1節、「ウジヤ王の死んだ年のこと~」という。預言者イザヤが、自分が召命を受

けたときの状況を語り出している。預言者は歴史家ではないので年代的意識はないが、ここは歴史家のように

前736年と明記しているようなものである。激動の時代の始まりに立つのであった。従って、預言者イザヤは、

字通り彼は預言者としての活動がここに始まった。それゆえ彼の預言の多くは、審判の言葉である。とりわけ

エルサレムの内政上の問題および外交の問題に関する神の厳しい批判の言葉を伝えるのであった。

 

◯写真は、季節の変わり目のたっぷりと降った雨の後、五月一一日(木)、雨が上がって、開花した。朝6時

半、きれいに真横からの朝日に輝いている、牧師館東側の数々の薔薇と薔薇である。


プロテスタントとカトリック

2017-05-12 15:07:35 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(410)   近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その50)

31.どのような邪悪な過程を経て、支配欲がローマ人民の間に生長したか。

32.舞台劇の導入。

肉体的な患いが下火となったのは、これまでサーカス競技に慣れ親しんでいた戦い好きの人民が、今や柔弱

な舞台劇のヒステリの波に巻き込まれたからではない。狡猾な悪霊どもは肉体の疾病の終焉の間近いことを

予見し、はるかにもっと憂うべき病をはやらせている。それは肉体だけではなく人間のあらゆる行動の領域を

侵食するもので、悪霊どもは大いに喜んでいる。この病に取りつかれた全ての犠牲者のこころは盲目となり、

(前回はここまで)

また汚されている。その暗黒・邪曲さのあまり(後世の人々がそれを耳にしても信じ難く思うであろうが)、ロー

マが後輩に帰したときカルタゴに逃れることのできた者も、この病によって汚染され、気違いのように競ってそ

の地の見世物に日夜入り浸ったほどであった。

33.ローマ市の陥落によっても矯正され得なかったローマ人の悪徳について

あなたがたは何と狂っていることだろうか。わたしたちの聞知するごとく、東方人があなたがたの破滅を嘆き、

遠い世界の偉大な町々が公の喪に服しているというのに、あなたがた自身は劇場を捜し歩き、そこに入り浸

り、それを満たし、以前にまさって法外な行ないを続けているというのは、過ちというよりは全くの気違い沙汰と

言わなければならない。これはこころの疾病、廉直さと (つづく)(「神の国」出村彰訳)