日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2017-05-12 15:07:35 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(410)   近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その50)

31.どのような邪悪な過程を経て、支配欲がローマ人民の間に生長したか。

32.舞台劇の導入。

肉体的な患いが下火となったのは、これまでサーカス競技に慣れ親しんでいた戦い好きの人民が、今や柔弱

な舞台劇のヒステリの波に巻き込まれたからではない。狡猾な悪霊どもは肉体の疾病の終焉の間近いことを

予見し、はるかにもっと憂うべき病をはやらせている。それは肉体だけではなく人間のあらゆる行動の領域を

侵食するもので、悪霊どもは大いに喜んでいる。この病に取りつかれた全ての犠牲者のこころは盲目となり、

(前回はここまで)

また汚されている。その暗黒・邪曲さのあまり(後世の人々がそれを耳にしても信じ難く思うであろうが)、ロー

マが後輩に帰したときカルタゴに逃れることのできた者も、この病によって汚染され、気違いのように競ってそ

の地の見世物に日夜入り浸ったほどであった。

33.ローマ市の陥落によっても矯正され得なかったローマ人の悪徳について

あなたがたは何と狂っていることだろうか。わたしたちの聞知するごとく、東方人があなたがたの破滅を嘆き、

遠い世界の偉大な町々が公の喪に服しているというのに、あなたがた自身は劇場を捜し歩き、そこに入り浸

り、それを満たし、以前にまさって法外な行ないを続けているというのは、過ちというよりは全くの気違い沙汰と

言わなければならない。これはこころの疾病、廉直さと (つづく)(「神の国」出村彰訳)

 


聖書研究

2017-05-12 14:04:29 | 大分中央ウィークリー

創世記24章34節である。「その人は語り始めた。『わたしはアブラハムの僕でございます。』~」と、開口一番の言葉である。先に、食事が並べられたとき、彼は、「用件をお話しするまでは、食事をいただくわけにはまいりません。」といった。一般的には失礼な話であった。しかし相手は、快く『お話しください』と受け入れた。親戚のよしみがあるといえばそうなのであるが、遠路を危険を冒してやって来た者の要望への敬意であろう。

 

開口一番、「わたしはアブラハムの僕でございます。」と、単なる自己紹介ではない。「アブラハム」の名には千鈞の重みがある。アブラハムがハランで神の召命を受けたとき、「あなたが祝福する人をわたしは祝福し」(創12・3)と。娘リベカの祖父の「ナホルの父テラを含めて、~他の神々を拝んでいた」(ヨシ24・1)ので、アブラハムの重みは異邦人の邪教の神々でない神、アブラハムに付与された真の神の祝福の力の偉大さである。

 

35節である。「主はわたしの主人を大層祝福され、羊や牛の群れ、金銀、男女の奴隷、らくだやろばなどをお与えになったので、主人は裕福になりました。」と。アブラハムの僕はリベカのことを一言も言わず、主人アブラハムのことを語り始めた。おそらく17章のアブラハムが99歳の時の神の祝福の言葉を思い出していたのであろう。17章6節、「わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。~」ということを。

 

「主はわたしの主人を大層祝福され、羊や牛の群れ、~」と語り始めた。旅の十頭の羊を思い出させながら、主人のアブラハムにあったままを語り始めました。聞き手の信頼を勝ち取る話法である。使徒言行録の2章、ペンテコステの時のペトロの説教も同じように「今は朝の9時ですから~酒によっているのではありません。」と語り始めた。その話法であった。


牧 会 通 信

2017-05-12 13:49:44 | 大分中央ウィークリー

 (原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 16歌(カッコ内は筆子、その13)

◯先達が命じるままに、わたしはそれをすつかり解き外し、結び目を作りぐるぐる巻きにして師に渡した。

  すると師は右の方を振向いて、崖縁からかなり遠く谷深くそれを投げ落とした。「師がこのやうに凝(ぎゅ)つと眼で追つてゐる、新奇な合図には、」とわたしは心の中で言つた、「新奇なものが答へる筈だ。」

  振舞いを見るばかりではなく、洞察力で深い考えまでも見破るものの近くでは、どんなに用心しなければならぬことか!(前回ここまで)

◯師は言つた、「わたしが待ちそなたが想像してるものがすぐ上って来て、そなたの眼に見られるだろう。」

  嘘の外観をした真実については、つねにできるだけ口を閉じてゐるべきだ、言へば罪もないのに恥しい思ひをさせられるから。

  だがここで黙つてはゐられぬ、読者よ、長く好意をもって読みつがれるやうにと願つてゐる、この喜曲(コメディア)にかけて断言する、

  (つづく)

◯本日、5月7日の日本聖書協会の、「聖書愛読こよみ」の主題は「一つとなるために」という。聖書はヨハネの

17章14~19である。その11節、「~聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってくださ

い。わたしたちのように彼らも一つとなるためです。」と。使徒たちのための祈りである。ご自分と十二使徒たち

との一体性を祈っておられる。イエスの十字架の死と復活、天に上げられたあと、この十二使徒に全てを託さ

れた。わたしたちが徹底的に聞いて信じて生きるためであった。トマスへの試みを残され「見ないで信じる信

仰」(ヨハ20・19)の試みの世界。わたしたちに、見ないで信じるか、信じないかと。

 

◯写真は、四月一六日、イースター墓地礼拝記念写真。上平家墓地の終消によって、故上平啓洲兄、故上平

ミサヲ姉、故上平寿子姉のご遺骨三体を、移転埋葬された。