「レスター・レヴェンソンのリリーシング」- I'm trying to show you the entire way.

Lester:「私は、あなたに全ての道を案内しようとしています。」 2015-10-04-09:45JST

幸福とは、真我の本性そのものである。- 01

2016-10-19 05:16:06 | Surest way to Love
幸福とは、真我の本性そのものである。- 01

 教えの精髄 - Sri Ramana Maharshi

 誰であれ実践した人であれば、その教えの威力を身をもって知ることができます。

 『ラマナ・マハルシとの対話』の対話 80 の中で、マハルシはこう語っています。

 「想念とは誰のものなのか考えてみなさい。それはどこから現れたのでしょうか? 
 それは意識である真我からに違いありません。それについて漠然と理解するだけでも、自我の消滅を助けるのです。
 そうすれば、無限の存在を実現することも可能になります。
 その境地の中には、個人は存在せず、ただ永遠の存在があるだけです。それゆえ、そこには死についての想いも嘆きもないのです」。

 「心を静かに保つ」

 真我は、五つの鞘の内にある。

私は誰か? - Sri Ramana Maharshi PDF日本語版ダウンロード

 『幸福とは真我の本性そのものである。 幸福と真我は別のものではない。 世界のいかなる物事の中にも幸福はない。 無知ゆえに物事から幸福を得るものだと思っている。

 心が外へ出ていくと、不幸を体験する。 心の願いが満たされた時、実は、心は自己本来の場所に戻っており、真我である幸福を楽しむのである。

 同じように眠りの状態、サマーディ、失神状態、あるいは、得たいと思っていたものが得られたり、嫌っていたものが消えたりした時は、心は内面に向かい、純粋な真我ー幸福を楽しむのである。

 このように心は休むことなく動き回り、真我から彷徨い出ては、また戻ってくるということを繰り返している。

9.心の本性を理解する探究の道とは何でしょうか?

身体の中に
「私」
として立ち現われるものが心である。

もし身体の中のどこに
「私」
という想念が最初に現われるかを探究するなら
それはハートの中に現われることが発見されるだろう。

そこが心の起源となる場所である。

絶えず
「私」、「私」
と考えても、人はその場所に導かれていくだろう。

心の中に現われるすべての想念の中で
最初に現われるのは
「私」
という想念である。

この想念が現われたあとにのみ
他の想念が現われる。

二人称と三人称の人称代名詞が現われるのは
一人称が現われたあとのことである。

一人称がなければ
二人称、三人称も存在しないだろう。

10、どうすれば心は静かになるのでしょうか?

「私は誰か?」
と尋ねることによってである。

「私は誰か?」
という想念は他のすべての想念を破壊するだろう。

そして燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒のように、ついには
「私は誰か?」
という想念そのものも滅ぼされてしまうだろう。

そのとき真我は実現されるだろう。

11.「私は誰か?」という想念を絶えず心に保つにはどうすればよいでしょうか?

他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、
「この想念は誰に起こったのだろうか?」
と尋ねるべきである。

どんなに多くの想念が起ころうとかまわない。
想念が起こるたびに
「この想念は誰に起こってきたのか?」
と入念に探究すべきである。

それに対して現われる答えは
「私に」だろう。

そこですぐに
「私は誰か?」
と探究すれば、心は源に引き戻され、起こった想念は静まるだろう。

このように修練を繰り返せば、
心は源にとどまることに熟達するだろう。

微細な心が脳や感覚器官を通って外に出ると
粗大な名前や形が現われる。

心がハートの中にとどまっていれば
名前と形は消え去る。

心を外に出さずにハートの中にとどめておくことは
「内にあること」(アンタール・ムカ)
と呼ばれる。

心をハートから外へ出させることは
「外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)
として知られる。

このように、心がハートの中にとどまっているとき
すべての想念の源である「私」は消え去り
永遠に存在する真我が輝き出す。

人は何をするときにも
「私」という自我性なしにそれをすべきである。

もしそのように行動すれば、
すべてはシヴァ神の本性として現われるだろう。

12.心を静かにする他の方法はないのでしょうか?

探究以外に適切な方法はない。

他の方法で静めても、心は制御されたように見えるだけで
再び勢いを増して現われるだろう。

呼吸の制御によっても心は静められるが、
それは呼吸が制御されている間のことだけであり、
呼吸が元に戻れば心もまた活動を始め、
潜在する印象に駆り立てられて さまよい出すだろう。

心も呼吸も、その源は同じである。

想念とは、実は心の本性である。

「私」という想念が心の最初の想念であり
それが自我性である。

自我が生まれ出る同じ場所から呼吸も生まれる。

そのため、
心が静かになれば呼吸も制御され
呼吸が制御されれば心も制御される。

けれども深い眠りの中では、
心は静かでありながら呼吸は止まっていない。

これは、身体が維持されるように
そして死んでしまったと他の人々が思わないようにとの神の意思によるものである。

目覚めの状態とサマーディにあっては
心が静まっていれば呼吸は制御されている。

呼吸は心の粗大な姿である。

死の時までは、心は身体の中に呼吸を保っている。

身体が死ぬと、心は呼吸と共に出て行く。

それゆえ、呼吸を制御する修練は心を静める(マノニグラハ)助けに過ぎず
心の消滅(マノナーシャ)をもたらすことはない。

神の姿に瞑想することや、マントラの復唱、断食などの修練も
心を静める助けに過ぎない。

神の姿に瞑想することや、マントラの復唱を通じて
心は一点に集中される。

心は常にさまよい続けるだろう。

鼻を鎖でつながれた象が、他の何もつかまえられないように、
心も神の御名や姿に満たされていれば、他の対象をとらえることはないだろう。

心が無数の想念へと拡散しているとき、
そのひとつひとつの想念は弱いものとなる。

だが、想念が決意を固めて一点に集中すれば、強いものとなる。

そのような心にとって、真我を探究することは容易になるだろう。

すべての規則制限の中でも
適度な量の清らかな(サートヴィック)な食事を摂るという方法が
最上のものである。

これを守ることによって、心の清らかさは増し、
真我探究の助けとなるだろう。

13.心に残ったものごとの印象が、海の波のように際限なく現われてきます。
   いつになったらそれらすべてがぬぐい去られるのでしょうか?

真我への瞑想が高まれば高まるほど、
それらの想念は破壊されるだろう。

14.数知れない過去生から蓄積されてきた、心に刻まれたものごとの印象が取り除かれ純粋な真我としてとどまることは可能でしょうか?

可能か、可能でないかという疑問に屈することなく
真我への瞑想を続けるべきである。

たとえ、人が大罪人であるとしても、
「ああ、私は大罪人だ。どうすれば救われるのだろう?」
と思い悩み、嘆き悲しむべきではない。

「私は罪人だ」という想念を完全に棄て去り、
真我への瞑想に強烈に集中するべきである。

そうすれば、確実にうまくいくだろう。

ひとつは善く、もうひとつは悪いという二つの心があるのではない。

心はただひとつだ。

幸運と不運の二種類があるのは、心ではなく
心に刻まれる印象である。

心が幸運な印象の影響を受けたとき、それは善と呼ばれ
不運な印象の影響を受けたとき、それは悪と見なされる。

心は世間のものごとや他の人々に関することへさまよい出ぬよう
戒められなければならない。

他の人がどれほど悪くとも、
彼に対して憎しみを抱かぬようにしなければならない。

欲望と憎しみは、どちらも避けなければならない。

人が他の人々に与えるすべては、実は自分自身に与えているのだ。

もしこれらの真理が理解されるなら、人々に施しをしないでいられようか。

自己が現われると、すべてが立ち現われ
自己が静まれば、すべては静まる。

謙遜を忘れないならば、それに応じてよい結果が現われるだろう。

心が静寂に帰すれば、人はどこででも生きていくことができる。

15.探究はどのくらいの期間 修練されるべきでしょうか?

心の中にものごとの印象がある限り、
「私は誰か?」
と尋ねなければならない。

想念が起こったなら、
そのとき、その起こったまさにその場で問うことによって
破壊されるべきである。

もし真我に到達されるまで、不断の真我の黙想に打ち込めば
それだけで想念は消滅するだろう。

要塞の中に敵がいる限り、敵は反撃を続けるだろう。

もし敵が姿を現すたびに滅ぼしていけば
要塞は我々の手中に落ちるだろう。

16.真我の本性とは何でしょうか?

真実、存在するのは真我だけである。

世界、個我、神は真珠貝の中の銀色の輝きのように、
真我の内に現われるものである。

これら三つは同時に現われ、同時に消え去る。

「私」という想念が絶対にないところ、
それが真我である

それは沈黙と呼ばれる。

真我そのものが世界であり、
真我そのものが「私」であり
真我そのものが神である。

すべてはシヴァ、真我である。

17.すべては神のなせるわざではないのでしょうか?

欲望も決意も努力もなしに太陽は昇る。

太陽がただそこに存在するだけで
日長石は火を発し、蓮の花は開き、水は蒸発していく。

磁力が存在することによって磁石の針が動くように、
人々が三つの宇宙的機能や五つの神聖な活動に支配され、

それぞれのカルマに従って行為し、そして休息するのは
ただ神が存在しているという美徳によるものである。

神は何の意思も持たず、
いかなるカルマも彼に属さない。

それは、世間の行為が太陽に影響を与えず、
すべてに遍在するエーテル(虚空)が他の四元素の長所や短所に影響されないのと同じである。

訳注3 三つの宇宙的機能
創造、維持、破壊

訳注4 五つの神聖な活動
パンチャ・ヤジュニャと呼ばれるヒンドゥー教徒の義務。
「ヴェーダ」の学習、祖霊への食物の供養、ホーマの献火、
すべての生き物への食物の供養、人間への供養

18.帰依者の中で最もすぐれているのはどのような人でしょうか?

神である真我に自分自身をゆだねきった人が、
最もすぐれた帰依者である。

自分自身を神にゆだねるとは、
真我という想念以外のいかなる想念も起こることを許さず、
ひたすら真我の内にとどまっていることである。

どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。

神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、
なぜ我々はその力に身をまかせず、
何をどうするべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?

我々は列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。

列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭に載せて苦労する必要がどこにあろう。
荷物を下ろして安心しなさい。

19.無執着とはどういうことでしょうか?

想念が起こると共に、その起こったまさにその場所で、
あますことなく完全に消滅させること、それが無執着である。

真珠採りが自分の腰に石をくくりつけて潜り、海底に沈む真珠を採るように
誰もが無執着と共に自己の内に深く潜り、真我という真珠を手に入れなければならない。

20.神やグルは、魂の解脱をもたらすことはできないのでしょうか?

神やグルは解放への道を示すだけだろう。

神やグルが人を解脱の状態に連れて行くわけではない。

実際は神とグルとは異なるものではない。

トラの顎にくわえられた獲物に逃れるすべがないように
グルの慈悲深い眼差しにとらえられた者は、グルによって救われ
見捨てられることはないだろう。

けれどもひとりひとりは、神あるいはグルによって示された道を自分自身の努力で究め解脱に達しなければならない。

人はただ自分の智慧の目によってのみ、
自分自身を知ることができる。

ラーマ神がラーマ神であることを知るために、鏡の助けが必要だろうか?

21.解脱を熱望する者にとって、意識の構成要素を探究する必要はあるのでしょうか?

ゴミを捨てたいと思っている人にとって、その中身を分析したり
それが何であるか調べたりする必要がないように、真我を知ろうとする人にとっても
意識の性質を調べたり、その構成要素を分析して数えたりする必要はない。

彼がすべきことは、真我を覆い隠している構成要素のすべてを払いのけることである。
世界はひとつの夢のようなものと見なされなければならない。

22.目覚めと夢見の間に違いはないのでしょうか?

目覚めている間は長く、夢を見ている時間は短い。
これより他に何の違いもない。

目覚めの間に起こることが真実に見えるように、
夢の中で起こることも夢の中では真実に見える。

夢の中では心はもうひとつの身体をとっている。

目覚めの状態でも、夢見の状態でも
想念、名前、形は同時に現われるのである。

23.解脱を願うものにとって、本を読むことにはどんな価値があるでしょうか?

すべての聖典は、
解脱を得るためには心を静かに保たねばならないと述べている。

それゆえ、心を静かに保つべきだということが聖典の最終的な教えである。

ひとたびこれが理解されたなら、際限なく本を読む必要はない。

心を静めるには、人はただ自分自身の内に、
真我とは何かと問い続けるべきである。

この探究がどうして書物の中でできるだろうか?

人は自分自身の智慧の目で、自分の真我を知るべきである。

真我は五つの鞘の内にあるが、
書物はその外にある。

真我は五つの鞘を棄て去っていくことで探究されるべきものであるため、
それを書物の中に求めるのは無駄なことである。

いずれは学んだことすべてを忘れ去らなくてはならないときが来るだろう。

訳注5  五つの鞘
パンチャ・コーシャ 真我を覆い隠す五つの身体の鞘
アンナーマヤ・コーシャ、身体の鞘。プラーナーマヤ・コーシャ、生気の鞘。
マノマヤ・コーシャ、心の鞘。ヴィジーニャーナマヤ・コーシャ、知性の鞘。
アーナンダマヤ・コーシャ、至福の鞘。

24.幸福とは何でしょうか?

幸福とは真我の本性そのものである。

幸福と真我は別のものではない。

世界のいかなるものごとの中にも幸福はない。

我々は無智ゆえに、ものごとから幸福を得るものだと思っている。

心が外へ出て行くと、不幸を体験する。

心の願いが満たされたとき、実は、心は自己本来の場所に戻っており、
真我である幸福を楽しむのである。

同じように、眠りの状態、サマーディ、失神状態、
あるいは得たいと願っていたものが得られたり
嫌っていたものが消え去ったりしたときには
心は内面に向かい、純粋な真我を楽しむのである。

このように心は休むことなく動き回り
真我からさまよい出ては、また戻ってくるということを繰り返している。

木陰は気持ちいいが、外では太陽が焼けつくようだ。

灼熱の太陽の中を歩いてきた人が木陰にたどり着けば涼しいと感じる。

木陰からわざわざ猛暑の中を行き、
それからまた木陰に戻ってくるのは愚かなことである。

賢い人はずっと木陰にとどまっているだろう。

同じように、真理を知る人の心は、ブラフマンを離れることはない。

その反対に無智な人の心は、悲惨を味わいながら世界をさまよい歩き、
つかの間の幸福を味わうためにブラフマンに戻ってくる。

実際には、世界と呼ばれているものはただの想念にすぎない。

世界が消え去ったとき、つまり想念が存在しないとき
心は幸福を体験するのである。

世界が現われると、不幸を味わうのである。

25.洞察力(ジニャーナ―ドリシュティ)とは何でしょうか?

静寂にあることが洞察力と呼ばれている。

静寂にあるということは、真我の中に心を帰り着かせることである。

過去、現在、未来の出来事を知るテレパシーや千里眼は洞察力ではない。

26.無欲と智慧にはどんな関係があるのでしょうか?

無欲が智慧である。

二つは別のものではない。

それは同じである。

心がいかなる対象物に向かうことも差し控えることである。

智慧とは、何の対象物も現われないことを意味している。

言い換えれば、真我以外の何ものも求めないことが無執着あるいは無欲であり、
真我を決して離れないことが智慧である。

27.探究と瞑想の違いは何でしょうか?

探究とは、真我の中に心をとどめておくことである。

瞑想とは、自己をブラフマン、つまり存在―意識―至福であると思いなすことである。

28.解脱とは何でしょうか?

束縛されている自己の本性を探究すること、
その真の本性を悟ることが解脱である。
生きとし生けるものは、いつでも幸福であることを願い
不幸でないことを願っている。

誰にとっても
そこには自分自身への至上の愛が見られる。

そして幸福だけがその愛の源なのである。

それゆえ、人間の本性である幸福、
想念のない深い眠りの中で体験される幸福を手に入れるためには、
人は自分自身を知らねばならない。

そのためには
「私は誰か?」
という問いで探究する智慧の道が最も重要な方法である。
「全宇宙がハートの中の一つの小さい穴の中に収容されています。
 ハートの中の小さな穴はいつも閉じられたままですが
 それはアートマ・ヴィチャーラによって開かれます」ramana

参考サイト:
真我の実践 カテゴリーの記事一覧 - 宇宙即我日記

 常に悩みを無くす方法  2016-07-09

 自分を真我の存在だと認めたら、ずっと継続していくことが肝要なのだ。

そこに間を空けると、もとに戻ったかのような現象が現れるのである。

 真我に覚醒したら、真我の方向に、思い切り、頭(ハンドル)を向けるのである。

間を空けない一つの方法は、「真我の実践」を心の中で常に唱えることである。』とある。

 注記:
 「真我の実践」という言葉を、意識的に唱える。
 心の中で、持続して唱える。

持ち越し苦労や取り越し苦労が生じないように、「真我の実践」を唱えるのだが、それも間を空けずに唱えることをした。

 悩みが生じてくるのなら、それは唱えるスピードが遅い。

とにかく高速で、悩みが生じないように、ひたすら「真我の実践」を唱え続ける。

 「真我の実践」の分子論的解釈  2016-07-21

 「真我の実践」に関して、心の学校の資料に、『「真我の実践」という言葉を唱えることにより、その言葉の力によって真我(心の深奥にある本当の自分)に共振共鳴を起こし、また意識を真我に合わせ続けることができる究極の手法です。

「真我の実践」を唱えることは、非常にシンプルでその効果は絶大です。

簡単なので継続しやすく、時間も場所も選ばず、お金もかかりません。

 しかし、シンプル故に、正しく理解して実行、継続することが大切です。』とある。

「真我の実践」を唱えることで、共振・共鳴するのだ。

 1日に約5万回で幸せになる  2016-08-27

 1分間に「真我の実践」を唱える回数が50回として、1日に7時間睡眠するとした場合、50回/分 ✕ 60分 ✕ 17/日 = 51000回/日になり、1日に約5万回「真我の実践」を唱えることができる。

 この1日に約5万回と言う回数だけど、調べてみると、おおよそ人が1日に思考する回数、セルフトークの回数と同じになる。

また、その回数の内容は、マイナスなものが多かったりする。

 「真我の実践」の言葉の意味 2016-09-21

 「真我の実践」の言葉の意味について、心の学校 月刊ニュースレターのVol.149に、『・・・今、まさにあなたの心臓は動き、呼吸をし、血液が血管を通って毛細血管まで流れています。

 あなたが意識しなくても、あなたではない誰か(=宇宙意識=真我)が、もう既に完璧なリズムで、動かしてくれているのです。

 つまり、あなたは既にありのままで「本当のあなた=真我」が「実践」されている・・・・・・

 初めから「完全で完璧」なあなたとして実践されている、ということが「真我の実践」の意味です。

 「真我の実践」を唱えるということは、「すでに完璧な真我が実践されている」ということを、言葉の力(言霊)で認識する意味合いが含まれています。

 唱えているだけであなたの中の神であり完璧(=真我)にフォーカスが当たるわけです。』とある。

 
続きます。
幸福とは、真我の本性そのものである。- 02
(2016-10-22 02:19:48 | Surest way to Love)


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