「レスター・レヴェンソンのリリーシング」- I'm trying to show you the entire way.

Lester:「私は、あなたに全ての道を案内しようとしています。」 2015-10-04-09:45JST

トータルフリーダム (完全な自由) - 夢から目覚める - 04

2014-10-24 19:25:44 | 実践- (Practice)
トータルフリーダム (完全な自由) - 夢から目覚める - 04


10、どうすれば心は静かになるのでしょうか?

「私は誰か?」
と尋ねることによってである。

「私は誰か?」
という想念は他のすべての想念を破壊するだろう。

そして燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒のように、ついには
「私は誰か?」
という想念そのものも滅ぼされてしまうだろう。

そのとき真我は実現されるだろう。

11.「私は誰か?」という想念を絶えず心に保つにはどうすればよいでしょうか?

他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、
「この想念は誰に起こったのだろうか?」
尋ねるべきである。

どんなに多くの想念が起ころうとかまわない。
想念が起こるたびに
「この想念は誰に起こってきたのか?」
入念に探究すべきである。

それに対して現われる答えは
「私に」だろう。

そこですぐに
「私は誰か?」
探究すれば、心は源に引き戻され、起こった想念は静まるだろう。

このように修練を繰り返せば、
心は源にとどまることに熟達するだろう。


微細な心が脳や感覚器官を通って外に出ると
粗大な名前や形が現われる。

心がハートの中にとどまっていれば
名前と形は消え去る。

心を外に出さずにハートの中にとどめておくことは
「内にあること」(アンタール・ムカ)
と呼ばれる。

心をハートから外へ出させることは
「外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)
として知られる。

このように、心がハートの中にとどまっているとき
すべての想念の源である「私」は消え去り
永遠に存在する真我が輝き出す。


人は何をするときにも
「私」という自我性なしにそれをすべきである。

もしそのように行動すれば、
すべてはシヴァ神の本性として現われるだろう。

12.心を静かにする他の方法はないのでしょうか?

探究以外に適切な方法はない。

他の方法で静めても、心は制御されたように見えるだけで
再び勢いを増して現われるだろう。

呼吸の制御によっても心は静められるが、
それは呼吸が制御されている間のことだけであり、
呼吸が元に戻れば心もまた活動を始め、
潜在する印象に駆り立てられて さまよい出すだろう。

心も呼吸も、その源は同じである。

想念とは、実は心の本性である。

「私」という想念が心の最初の想念であり
それが自我性である。

自我が生まれ出る同じ場所から呼吸も生まれる。

そのため、
心が静かになれば呼吸も制御され
呼吸が制御されれば心も制御される。

けれども深い眠りの中では、
心は静かでありながら呼吸は止まっていない。

これは、身体が維持されるように
そして死んでしまったと他の人々が思わないようにとの神の意思によるものである。

目覚めの状態とサマーディにあっては
心が静まっていれば呼吸は制御されている。

呼吸は心の粗大な姿である。

死の時までは、心は身体の中に呼吸を保っている。

身体が死ぬと、心は呼吸と共に出て行く。

それゆえ、呼吸を制御する修練は心を静める(マノニグラハ)助けに過ぎず
心の消滅(マノナーシャ)をもたらすことはない。

神の姿に瞑想することや、マントラの復唱、断食などの修練も
心を静める助けに過ぎない。

神の姿に瞑想することや、マントラの復唱を通じて
心は一点に集中される。

心は常にさまよい続けるだろう。

鼻を鎖でつながれた象が、他の何もつかまえられないように、
心も神の御名や姿に満たされていれば、他の対象をとらえることはないだろう。

心が無数の想念へと拡散しているとき、
そのひとつひとつの想念は弱いものとなる。

だが、想念が決意を固めて一点に集中すれば、強いものとなる。

そのような心にとって、真我を探究することは容易になるだろう。

すべての規則制限の中でも
適度な量の清らかな(サートヴィック)な食事を摂るという方法が
最上のものである。


これを守ることによって、心の清らかさは増し、
真我探究の助けとなるだろう。

13.心に残ったものごとの印象が、海の波のように際限なく現われてきます。
   いつになったらそれらすべてがぬぐい去られるのでしょうか?

真我への瞑想が高まれば高まるほど、
それらの想念は破壊されるだろう。

14.数知れない過去生から蓄積されてきた、心に刻まれたものごとの印象が取り除かれ純粋な真我としてとどまることは可能でしょうか?

可能か、可能でないかという疑問に屈することなく
真我への瞑想を続けるべきである。

たとえ、人が大罪人であるとしても、
「ああ、私は大罪人だ。どうすれば救われるのだろう?」
と思い悩み、嘆き悲しむべきではない。

「私は罪人だ」という想念を完全に棄て去り、
真我への瞑想に強烈に集中するべきである。

そうすれば、確実にうまくいくだろう。

ひとつは善く、もうひとつは悪いという二つの心があるのではない。

心はただひとつだ。

幸運と不運の二種類があるのは、心ではなく
心に刻まれる印象である。


心が幸運な印象の影響を受けたとき、それは善と呼ばれ
不運な印象の影響を受けたとき、それは悪と見なされる。

心は世間のものごとや他の人々に関することへさまよい出ぬよう
戒められなければならない。

他の人がどれほど悪くとも、
彼に対して憎しみを抱かぬようにしなければならない。

欲望と憎しみは、どちらも避けなければならない。

人が他の人々に与えるすべては、実は自分自身に与えているのだ。

もしこれらの真理が理解されるなら、人々に施しをしないでいられようか。

自己が現われると、すべてが立ち現われ
自己が静まれば、すべては静まる。

謙遜を忘れないならば、それに応じてよい結果が現われるだろう。

心が静寂に帰すれば、人はどこででも生きていくことができる。

15.探究はどのくらいの期間 修練されるべきでしょうか?

心の中にものごとの印象がある限り、
「私は誰か?」
と尋ねなければならない。

想念が起こったなら、
そのとき、その起こったまさにその場で問うことによって
破壊されるべきである。


もし真我に到達されるまで、不断の真我の黙想に打ち込めば
それだけで想念は消滅するだろう。

要塞の中に敵がいる限り、敵は反撃を続けるだろう。

もし敵が姿を現すたびに滅ぼしていけば
要塞は我々の手中に落ちるだろう。

16.真我の本性とは何でしょうか?

真実、存在するのは真我だけである。

世界、個我、神は真珠貝の中の銀色の輝きのように、
真我の内に現われるものである。

これら三つは同時に現われ、同時に消え去る。

「私」という想念が絶対にないところ、
それが真我である


それは沈黙と呼ばれる。

真我そのものが世界であり、
真我そのものが「私」であり
真我そのものが神である。

すべてはシヴァ、真我である。





この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« トータルフリーダム (完全な... | トップ | 体外離脱 - 02 »
最新の画像もっと見る

実践- (Practice)」カテゴリの最新記事