10 -「私は在る」を体験するには?
「『私は在る』を体験するには?」は、10 になりました。
悟りを開いた人 (真我実現をした人) は、「ジニャーニ」と呼ばれます。根本仏教 (上座部の仏教) では、阿羅漢 (アラカン『注:阿羅漢果 アラカンカのこと』) です。
注記:阿羅漢 (アラカン) とは、サンスクリット語のアルハト (arhat) の主格形、アルハン (arhan) にあたる音写語である。「尊敬を受けるに値する者」の意味である。
悟りの段階を、「悟りの階梯」といい、上座部では、「四沙門果」(ししゃもんか) といいます。
参考サイト:
悟りの段階 1 - 預流 (よる) | 道 (way)・アドオンスポット
http://way.add-spot.com/wordpress/satori
悟りの段階 1 – 預流 (よる)
釈迦から始まった仏教の上座部では、悟りの段階があります。4つの「果 (成就した段階) 」を合わせて、「四沙門果」(ししゃもんか) と言います。
さらに、4つの果得 (定) を、「向 (進み入る段階) 」と「果 (成就した段階) 」に分けています。向と果の名称が同じで、八種の段階にある人という意味で、八種の段階のことを、四双八輩 (しそうはっぱい) と言います。
◎ 預流 – 聖者の流れに入ることで、最大7回欲界の人と天の間を生れかわれば悟りを開く位。須陀洹(シュダオン)を指す。
◎ 一来 – 一回人と天の間を往来して悟りに至る位。斯陀含(シダゴン)を指す。
◎ 不還 – 欲界には再び還らず色界に上って悟りに至る位。阿那含(アナゴン)を指す。
◎ 阿羅漢 (応供) – 供養を受けるにふさわしい者で、今生の終りに悟り涅槃に至り再び三界には生れないとされる位。
注記:
「ジニャーニ」は、「在るがまま」に宇宙 (世界) を見ます。個は、消滅しています。「ジニャーニ」は、皆、「存在を同じ」に見ています。
「ジニャーニ」が見ている、宇宙 (世界) は、完全であり矛盾がありません。
「十牛図」に当てはめると、
阿羅漢 (応供:アラカン・オウグ) は、今生の終りに、悟り涅槃に至り、再び三界には生れないとされる。
8. 「人牛倶忘」 - すべてが忘れさられ、無に帰一すること。悟りを得た修行者も特別な存在ではなく本来の自然な姿に気づく。
9. 返本還源 - 原初の自然の美しさがあらわれてくること。悟りとはこのような自然の中にあることを表す。
10. 入鄽垂手 - まちへ ...悟りを得た修行者 (童子から布袋和尚の姿になっている) が街へ出て、別の童子と遊ぶ姿を描き、人を導くことを表す。
になります。
不還 (フゲン) は、欲界 (注:人間界) には再び還らず、色界 (注:神界) に上って悟りに至る。
6. 騎牛帰家 - 牛の背に乗り家へむかうこと。悟りがようやく得られて世間に戻る姿。
7. 忘牛存人 - 家にもどり牛のことも忘れること。悟りは逃げたのではなく修行者の中にあることに気づく。
一来 (イチライ) は、一回、人と天の間を往来して (注:1回、人間界に生まれる) 悟りに至る。
4. 得牛 - 力づくで牛をつかまえること。何とか悟りの実態を得たものの、いまだ自分のものになっていない姿。
5. 牧牛 - 牛をてなづけること。悟りを自分のものにするための修行を表す。
預流 (ヨル) は、聖者の流れに入ることで、最大7回、欲界の人と天の間を生れかわれば (注:多くて7回、人間界に生まれる) 悟りを開く。
1. 尋牛 - 牛を捜そうと志すこと。悟りを探すがどこにいるかわからず途方にくれた姿を表す。
2. 見跡 - 牛の足跡を見出すこと。足跡とは経典や古人の公案の類を意味する。
3. 見牛 - 牛の姿をかいまみること。優れた師に出会い「悟り」が少しばかり見えた状態。
個が消滅していない人は、「在るがまま」に宇宙 (世界) が見えません。「ジニャーニ」は、皆、「存在を同じ」に見ていますが、個が消滅していない人は、その人のマインド (心) が、想像した宇宙 (世界) を見ています。
一人一人が、自分のマインド (心) が、想像した宇宙 (世界) を見ています。その人が、亡くなると、その想像した宇宙 (世界) も消滅します。その想像した宇宙 (世界) は、矛盾に満ちています。
そのため、「自分や家族や知人や地域や社会や世界の問題を解決する」には、「まずはじめに、自分が『真我実現』をしなさい」と、ラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジは、言っています。
禅における「十牛図」
十牛図 (じゅうぎゅうず) は、禅の悟りにいたる道筋を牛を主題とした十枚の絵で表したもの。十牛禅図 (じゅうぎゅうぜんず) ともいう。
中国宋代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵 (かくあん) 禅師によるものが有名。
廓庵禅師の十牛図には弟子の慈遠和尚により「どんな人にも仏の真源、仏性が備わっているが、迷いの世界に入り込みもがき苦しんでいるので、そこから逃れる方途をこれまでも示されてはきたがそれらは不十分であったので、新たに廓庵禅師は牧牛によってその方途を示された」と頌が加えられている。
巻子、画帖など、また掛幅1幅に10描いたものもある。
More at Wikipedia (JA)
1. 尋牛 - 牛を捜そうと志すこと。悟りを探すがどこにいるかわからず途方にくれた姿を表す。
2. 見跡 - 牛の足跡を見出すこと。足跡とは経典や古人の公案の類を意味する。
3. 見牛 - 牛の姿をかいまみること。優れた師に出会い「悟り」が少しばかり見えた状態。
4. 得牛 - 力づくで牛をつかまえること。何とか悟りの実態を得たものの、いまだ自分のものになっていない姿。
5. 牧牛 - 牛をてなづけること。悟りを自分のものにするための修行を表す。
6. 騎牛帰家 - 牛の背に乗り家へむかうこと。悟りがようやく得られて世間に戻る姿。
7. 忘牛存人 - 家にもどり牛のことも忘れること。悟りは逃げたのではなく修行者の中にあることに気づく。
8. 人牛倶忘 - すべてが忘れさられ、無に帰一すること。悟りを得た修行者も特別な存在ではなく本来の自然な姿に気づく。
9. 返本還源 - 原初の自然の美しさがあらわれてくること。悟りとはこのような自然の中にあることを表す。
10. 入鄽垂手 - まちへ ...悟りを得た修行者 (童子から布袋和尚の姿になっている) が街へ出て、別の童子と遊ぶ姿を描き、人を導くことを表す。
前の内容:
9 -「私は在る」を体験するには?
(2018-08-07 06:00:24 | To gain it (得る、もたらす))
「ゴールを設定する」定型文です。
「私は、私が開放するだけで、簡単に今、安らぎに満ちた豊かさにいます。それを許します」
「私は、私が欲望を手放すだけで、簡単に今、『 (ほしい物) 』を得ている。それを許します」
「私は、私が愛着を手放すだけで、簡単に今、『制御』を得ている。それを許します」
「私は、私が欠乏を手放すだけで、簡単に今、『承認』を得ている。それを許します」
「私は、私が恐れを手放すだけで、簡単に今、『安全』を得ている。それを許します」
注記:手鏡を持って、自分の目を見て、ゴールを言います。そして、表情の変化を観察します。でてきた、感情・思考・想像など、全てを受け入れて、認めます。
自分の記憶にある、反目した感情や思考や想像が、表面 (意識) にでてきます。鏡で見ることで、観察者として自分を見て、受け入れて、認めます。それを、繰り返します。
「『私は在る』を体験するには?」は、10 になりました。
悟りを開いた人 (真我実現をした人) は、「ジニャーニ」と呼ばれます。根本仏教 (上座部の仏教) では、阿羅漢 (アラカン『注:阿羅漢果 アラカンカのこと』) です。
注記:阿羅漢 (アラカン) とは、サンスクリット語のアルハト (arhat) の主格形、アルハン (arhan) にあたる音写語である。「尊敬を受けるに値する者」の意味である。
悟りの段階を、「悟りの階梯」といい、上座部では、「四沙門果」(ししゃもんか) といいます。
参考サイト:
悟りの段階 1 - 預流 (よる) | 道 (way)・アドオンスポット
http://way.add-spot.com/wordpress/satori
悟りの段階 1 – 預流 (よる)
釈迦から始まった仏教の上座部では、悟りの段階があります。4つの「果 (成就した段階) 」を合わせて、「四沙門果」(ししゃもんか) と言います。
さらに、4つの果得 (定) を、「向 (進み入る段階) 」と「果 (成就した段階) 」に分けています。向と果の名称が同じで、八種の段階にある人という意味で、八種の段階のことを、四双八輩 (しそうはっぱい) と言います。
◎ 預流 – 聖者の流れに入ることで、最大7回欲界の人と天の間を生れかわれば悟りを開く位。須陀洹(シュダオン)を指す。
◎ 一来 – 一回人と天の間を往来して悟りに至る位。斯陀含(シダゴン)を指す。
◎ 不還 – 欲界には再び還らず色界に上って悟りに至る位。阿那含(アナゴン)を指す。
◎ 阿羅漢 (応供) – 供養を受けるにふさわしい者で、今生の終りに悟り涅槃に至り再び三界には生れないとされる位。
注記:
「ジニャーニ」は、「在るがまま」に宇宙 (世界) を見ます。個は、消滅しています。「ジニャーニ」は、皆、「存在を同じ」に見ています。
「ジニャーニ」が見ている、宇宙 (世界) は、完全であり矛盾がありません。
「十牛図」に当てはめると、
阿羅漢 (応供:アラカン・オウグ) は、今生の終りに、悟り涅槃に至り、再び三界には生れないとされる。
8. 「人牛倶忘」 - すべてが忘れさられ、無に帰一すること。悟りを得た修行者も特別な存在ではなく本来の自然な姿に気づく。
9. 返本還源 - 原初の自然の美しさがあらわれてくること。悟りとはこのような自然の中にあることを表す。
10. 入鄽垂手 - まちへ ...悟りを得た修行者 (童子から布袋和尚の姿になっている) が街へ出て、別の童子と遊ぶ姿を描き、人を導くことを表す。
になります。
不還 (フゲン) は、欲界 (注:人間界) には再び還らず、色界 (注:神界) に上って悟りに至る。
6. 騎牛帰家 - 牛の背に乗り家へむかうこと。悟りがようやく得られて世間に戻る姿。
7. 忘牛存人 - 家にもどり牛のことも忘れること。悟りは逃げたのではなく修行者の中にあることに気づく。
一来 (イチライ) は、一回、人と天の間を往来して (注:1回、人間界に生まれる) 悟りに至る。
4. 得牛 - 力づくで牛をつかまえること。何とか悟りの実態を得たものの、いまだ自分のものになっていない姿。
5. 牧牛 - 牛をてなづけること。悟りを自分のものにするための修行を表す。
預流 (ヨル) は、聖者の流れに入ることで、最大7回、欲界の人と天の間を生れかわれば (注:多くて7回、人間界に生まれる) 悟りを開く。
1. 尋牛 - 牛を捜そうと志すこと。悟りを探すがどこにいるかわからず途方にくれた姿を表す。
2. 見跡 - 牛の足跡を見出すこと。足跡とは経典や古人の公案の類を意味する。
3. 見牛 - 牛の姿をかいまみること。優れた師に出会い「悟り」が少しばかり見えた状態。
個が消滅していない人は、「在るがまま」に宇宙 (世界) が見えません。「ジニャーニ」は、皆、「存在を同じ」に見ていますが、個が消滅していない人は、その人のマインド (心) が、想像した宇宙 (世界) を見ています。
一人一人が、自分のマインド (心) が、想像した宇宙 (世界) を見ています。その人が、亡くなると、その想像した宇宙 (世界) も消滅します。その想像した宇宙 (世界) は、矛盾に満ちています。
そのため、「自分や家族や知人や地域や社会や世界の問題を解決する」には、「まずはじめに、自分が『真我実現』をしなさい」と、ラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジは、言っています。
禅における「十牛図」
十牛図 (じゅうぎゅうず) は、禅の悟りにいたる道筋を牛を主題とした十枚の絵で表したもの。十牛禅図 (じゅうぎゅうぜんず) ともいう。
中国宋代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵 (かくあん) 禅師によるものが有名。
廓庵禅師の十牛図には弟子の慈遠和尚により「どんな人にも仏の真源、仏性が備わっているが、迷いの世界に入り込みもがき苦しんでいるので、そこから逃れる方途をこれまでも示されてはきたがそれらは不十分であったので、新たに廓庵禅師は牧牛によってその方途を示された」と頌が加えられている。
巻子、画帖など、また掛幅1幅に10描いたものもある。
More at Wikipedia (JA)
1. 尋牛 - 牛を捜そうと志すこと。悟りを探すがどこにいるかわからず途方にくれた姿を表す。
2. 見跡 - 牛の足跡を見出すこと。足跡とは経典や古人の公案の類を意味する。
3. 見牛 - 牛の姿をかいまみること。優れた師に出会い「悟り」が少しばかり見えた状態。
4. 得牛 - 力づくで牛をつかまえること。何とか悟りの実態を得たものの、いまだ自分のものになっていない姿。
5. 牧牛 - 牛をてなづけること。悟りを自分のものにするための修行を表す。
6. 騎牛帰家 - 牛の背に乗り家へむかうこと。悟りがようやく得られて世間に戻る姿。
7. 忘牛存人 - 家にもどり牛のことも忘れること。悟りは逃げたのではなく修行者の中にあることに気づく。
8. 人牛倶忘 - すべてが忘れさられ、無に帰一すること。悟りを得た修行者も特別な存在ではなく本来の自然な姿に気づく。
9. 返本還源 - 原初の自然の美しさがあらわれてくること。悟りとはこのような自然の中にあることを表す。
10. 入鄽垂手 - まちへ ...悟りを得た修行者 (童子から布袋和尚の姿になっている) が街へ出て、別の童子と遊ぶ姿を描き、人を導くことを表す。
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9 -「私は在る」を体験するには?
(2018-08-07 06:00:24 | To gain it (得る、もたらす))
「ゴールを設定する」定型文です。
注記:手鏡を持って、自分の目を見て、ゴールを言います。そして、表情の変化を観察します。でてきた、感情・思考・想像など、全てを受け入れて、認めます。
自分の記憶にある、反目した感情や思考や想像が、表面 (意識) にでてきます。鏡で見ることで、観察者として自分を見て、受け入れて、認めます。それを、繰り返します。