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雑感  ー皆さんからの投稿をお待ちしていますー

日々感じたこと、思ったこと、なんでもよいのでこちらまでご投稿ください。

あほうの相

2007-11-18 22:05:25 | インポート

ある雑誌の文章に目が留まった。タイトルは「あほうのご人相」

岡山の町へ、上方から有名な人相見が来たことがあった。とてもよく見る、よく合うと大評判。ある日、町へ出たついでに一人の神官が人相を見てもらった。しかしその人相見は、かなり詳しく見ても小首をかしげたままで、しばらく何も言わない。「いかがですか?」と催促すると「どうも、少し申しかねますので。」と当惑した様子。「いや、何でもかまいません。どうか遠慮なくおっしゃってください。」というと、「はぁ、それでは申しますが、あなたの御相は全く『あほう』の相になっています。どうもはなはだ失礼ではございますが」するとその神官は、「そうですか。それはありがとうございます。実は多年『あほう』になる修行をしておりましたものですが、あなたのしっかりした観相の上にそれが現れたとしますれば、成就したわけですね」と大層喜ばれた、というお話だった。

面白い文章に笑ってしまったが、おかしいだけではなく何か心に残った。人は(私は)よく完全ぶる。知っているふりをしたり、かっこつけてみたり、良いところをみせようとしたり・・・。持っていないものまで持っているように振舞ってしまう。そんなものにとらわれなくなって心が自由になったとき、きっと「あほう」になれるのだろうな。まだまだ修行がたりないな。めざせ、『あほう』                                                                                                                                                    YOU


すれ違い事件

2007-11-16 15:59:42 | インポート

うっかり八平さんが、いつも「事件」なので私も「事件風タイトル」にしてみました。

事件ではないのですが・・・

折に触れて思い出し、自分は果たして大丈夫か・・・?と、ドキドキ、ヒヤヒヤしてしまうことがあるのです。

「言った」「伝わった」ということ。

そして、伝わった後に続くもの。

例えば・・・の職場での話になるが、
「この薬が始まるから家族の人に説明して渡してね」
と新人さんに言ったとしても、家族の人に薬は手渡されていても、飲み方、注意点が伝わっていないこともある。そしてトラブルへ発展・・・。
いや、相手が新人さんでなくてもスタッフ同士でもおこること。
「ちゃんと説明した?」
「言いました!」
と返事はするものの、
「なんて説明したの?」と話を聞くと、
それじゃぁ伝わらんて・・ということしばしば。


看護師患者(家族) の時点でも伝わっていないが
看護師看護師    の時点でも伝わっていないんだろうなぁ・・・と思うのよ。

医者看護師     でも伝わらないこともある。

こう言ったら伝わるだろうと思って口にする私の言葉も足りないのでしょう。


「私はあの子に言ったのに、あの子がきちんと説明しなかった」とか

「私はきちんと説明したのに、家族の人がちゃんと飲ませなかった」とか。

言ったのに相手がしなかった。
「言ったの?」
「言ったのに」というのはしばしば自分を守るときに使う言葉だな・・・とよく思う。悪い意味で。
うん、よくないなと思う。
やっぱり独りよがりだ。
来月になると魔のリーダー週がやってくる・・・。
リーダーをするたびに、えらそうに(笑)毎朝のカンファレンスで口を酸っぱくして言っているのが
「とにかく誠実に」
従順になる・・・というわけではなく、頼まれたことはきちんと応える。忘れそうならメモを取る。

心配だといわれたらきちんとその気持ちを受け止めて誠実に何かを必ず返す。

口では「分かりました、大丈夫」と言われても、表情に少しでも影があればもう一回確認する。
そして、「言った」じゃなくて「伝わったかどうか」をちゃんと確認しましょーね。

自分自身にも再確認。

そして、仕事では比較的神経質になっているこのことも、

ひとたびプライベートとなると、案外忘れがちだ。


「話し合い」って大事だと思う。
人間に与えられた言葉。
言葉なしで伝わるもの、伝えるものもあるのだが・・・。
伝える、伝わる・・・の次に続くものはきっと「話し合い」なんじゃないかしら?と思う。
それを放棄したら途絶えてしまうのだろう。
義務・・・でもあるな・・・と思う。

「分かってくれているだろう」では、「分かってくれてると思っていたのに」と。

「分かっているつもりだ」では「そんな人じゃないと思ってたのに」となってしまう。
たくさん話し合ってひとつひとつ決めていく。
ひとつずつ作っていく。
日々、誰かと向き合う毎日が、怠ることなくそうでありたいな・・・と思う。

                                          11/15  み


湯けむりお風呂焼酎喧嘩事件

2007-11-12 10:48:42 | インポート

 私は面倒くさがりやの平和主義者です。喧嘩は、あまり好きではありません。しかし、一時期、よく友人と衝突していました。そんな喧嘩上等全盛期の数年前、友人と電話で話をしている内に、今となっては原因不明なのですが、喧嘩になりました。「八平なんか知らん!」と捨てゼリフを吐かれ、ガシャンッと電話を切られました。「もう、私だって知らんわっ!」となげやりになった私は、当時は家に焼酎を置いていましたので、一人で、やけ酒をしました。むしゃくしゃしながら焼酎ロックを5杯くらい一気した私は、完全に酔っぱらいました。(真似をしないでください。)泥酔した私は、何故か、「お風呂に入らねば。」とう強烈な使命感に燃え、ふらふらとお湯をいれて、お風呂にはいりました。(危険です!真似をしないでください。)案の定、うっかり湯船の中で、すやすやと寝てしまい、おぼれかけました。自分の命の危険を感じた私は、「このまま死んだら絶対に後悔する!!仲直りをしよう。」とお風呂をでて、即、友人に電話をしました。私が「私は全く悪くないけれど、このまま死んじゃったら後悔するから、仲直りをしよう。」と言うと、友人も「私も絶対悪くないけれど、仲直りをしよう。」と言い、めでたく仲直りをしました。
 今も、当時のことが話題にでると、お互い「自分は悪くない」と言い張ります。が、二人とも原因を覚えてないということは、おそらく、二人とも悪くなく、二人とも悪かったのでしょう。要するにどっちでもよかったのでしょう。それ以後、くだらない苛立ちを感じ、いざこざになりそうな時、「これは、命をかけて争うべきことなのか?」と自分に問いかけるようにしています。(思い出せた時だけですが。)必ず、「いや、ではない。」という答えが自分から返ってきます。「命をかけて・・・」というのは、少しオーバーなように感じるかもしれません。しかし、命にはタイムリミットが設けられていて、それがいつ訪れるか分からないということは、全人類共通のまぎれもない事実です。普段は、その大事なことをうっかり忘れて、しょうもない自分のエゴに振り回されてしまいがちですが、その事実を判断基準にできた時、本当に自分が求めている正しい道を選べ、余計な苛立ちは少なくなると実感しています。(と偉そうに書いていますが、先日も「五本指靴下の戦い」を勃発させてしまい、帰宅後「うぎゃ~っっっ、くだらない~、恥ずかしい~」と顔を覆いました。)
 ある本に「本気で生きる人間は、なすべきことは命を張ってでもなす」と書かれていました。きっと、人生には、命を張ってでも、通すべき主張や言うべき事、なすべき事は、あるのでしょう。そんな時は、どんな反対にあっても、自分の意見をまげず正しいと信じることを貫きとおす、しかし同時にどっちでもいいことは、笑って楽しく譲れる、そしてその両者を瞬時に見分けられるような人間になりたいもんだと思いました。
                                                                うっかり八平