親と子の夜
子が親の手を離れ独り立ちしていく、この誰もが辿る生育過程において、障害を負った、親と子が潜らなければならなかった葛藤の切なさを書いた文章があります。
翌日、母親から私のところに電話が入った。受話器をとるなり、母が困った声をだしている。私のことで、厚生課のケースワーカーが明日、家に来るというのだ。とりあえず、今日の晩に実家に戻らなくてはならない。ここで、親に弱音を吐かれたら、生活保護が取れなくなってしまう。なんとしてでも踏ん張らなあかん。今は必死に頼み込むしかなかった。「お父ちゃんお母ちゃん、役所の人は愛情を押しつけて、色んなことをいうて泣き落としをかけてくるけど、勝手に出て行った娘のことなんか知らない、面倒見れないいうてほしいんや、おねがいや」「親としてそんなこと言えるか、今まで苦労してお前を育ててきて、いまさらなんでそんなこといわなあかんのや。情けない。楽してお金なんかもらわれへん」父母の言葉は、私にはとてもきつい。どんなに泣きつかれても、もはや私に賃金労働なんかできるはずがない。
私は、ケースワーカーが明日何を言ってくるのか、およそ予想ができた。たぶん、親が私に言った「世間の常識」を、今度は親自身が見ず知らずのそれも役所の人間から言われるのである。本当に屈辱以外のなにものでもない。それを、あえて私は親に頼んでいるのである。考えれば、なんと親不孝なことをしているのかと思う。しかし、ここがなければ私自身をがんじがらめに縛っているものから、私自身解き放たれないし、親自身もまた障害を持つ子供を産んでしまった罪責感から、一生子どもの面倒を見なければならないという義務意識から、逃れることができないと思う。
「私は、お父ちゃんお母ちゃんが死んだ後、施設へは絶対行きたない、弟に面倒見てもらうのは死んでもいやや!自分で決めたことやから、どんなことがあっても泣き言はいわん。迷惑かけん」。私は、親たちの何とも言えない辛そうな悲しい表情の前で、何度も何度も頭を下げて頼み込んだ。
(志智桂子『蓮根放浪記』)
重い障害を持った者にとっての「行き場のない行場」、養護学校や施設(それも長い障害者の歴史から見れば、闘いとられてきた側面を持つのでしょうが)の壁を内側から破り、その障害の姿のままに世間、社会に向かって出て行こうとするとき、そこにどれほどの闘いがあったのか、どれほどの切ない親と子の夜を彫り刻まねばならなかったのか、その遠い心の奥行きまでをも、この一文は私たちに語りかけています。
生き方の転換
かつて私たちは、「地域」で、より私たちの実感に即して言えば、世間の真っ只中に、生きる場、人と人とのつながりを作ろうとして、いくつもの小さな闘いをたたかってきました。そこにはつねに、親たちの勇気をふりしぼっての、ささやかでひかえめな開き直りがありました。生き方の転換がありました。
障害児学級から普通学級への転級を決意したときのことを、一人の母親はこう綴っています。
篤史の入学当初、私達は篤史がほっとできる場も必要だし、先生と一対一なら学力もつく。又、クラスの友達に迷惑がかかる。どうしても迷惑をかけてしまうけれども、それでも最低限にしたいという思いで障級を選んできました。でも、入江智哉君の高校受験を通して、親のつながりが深まりいろいろなお母さんの体験を聞いて、私が人に迷惑をかけないで生きていこうとすることは、簾史の世界を狭くすることになるのではと気づいて、やっばり篤史の世界をひろげようとおもったら、人に迷惑をかけていくのも仕方ないかな。親以外のひとに迷惑をかけた時点で、注意してもらったり叱ってもらったりして、成長していくことも大事だと、あつかましい事かもしれませんがそう思うようになりました。どうせ普通の子のようにはいかない。迷惑をかけな生きていかれへん。少し開きなおりました。
もちろんその後の道が平坦であったわけではありません。中学校卒業後の生きる場、同年代の子と一緒に居て学べる最後の時を求め、叩き続けた定時制高校の門は、ついに開くことはありませんでした。一年目落とされ、それでも翌年ふたたび、落とされるのがわかっていてなお立ち向かっていくに際し、父親はこう語っていました。
来年どうする、うけるんかうけへんのかどうするねんと、家内と二人で夜遅くまで話をしました。まあはっきりした気持ちはその時はまだ頭になく、このままやめたら誰が一番喜ぶんやいうて、そんな話していく中で、宝塚の金さんという人が確かおられて、あの人が確か「受ける」「来年も受けます」と言う事を別の場所ではっきり宣言されまして、なんかそれがお母ちゃんの頭から離れんかったみたいで、ごっついな思て、金さんの発言は。それでしゃないなと思って、このまま受けんかったら金さんにおこられるやろ言うて、そういう脅迫観念の下で(誰が脅迫してんねん!)、来年も受けよかと言う事になりました。それで昨年落ちてからですけど、行くとこがなかったんですね。しばらくの間、ほんまの在宅の状態になりまして、その間篤史あれましてね。あれる時はものすごあれまして、あれへん時は、一日中やないけどゲタグタ笑て、そういう状態で、暴れた時は、うちマンションですんで、下に響いてたり、世間一般に迷惑かけて。家の壁を叩いて穴あけるからね。かなりボコボコあけてくれて、今でもあいています。うちだけかな思たら、キントーンでもやっているみたいで、最初行ったときは台所の扉一つだけあいていたんですね。その次行ったら、二つか三つあいていて、その次行ったら部屋の扉も一つあいてて、あそこも(あれ違う!)。まあ、そのあと篤史が出世したら払てくれると思いますので、それまでの指導をよろしくお願いします。
それよか、キントーンがものすご好きなんですよね、篤史自体が。ほんまに行けたいう事がものすご嬉しかってね、行くとこがない子が。阪神間の拠点いうことでキントーン行ったらいう事で行けて、ほんまに心の底から嬉しかって、今だにそうなんですよね。風邪ひいて休みますゆうたら、十一時頃起きて「キントーン、キントーン」言うて、それで、ほんま何がええんか、栗山さんがええんか矢野さんの色気にまいってもうとんか、どっちか知らんけど(どっちも違うんちゃう)。篤史が、ほんまにね、「明日キントーンや」言うと布団の中に入るからね。それから寝えへんですけどね。起きてごちょごちょしよるけどね。やっぱり篤史にしたら新しい世界というか、自分一人でバス乗って行けるというか、それがごっつい大きかって(略)
定時制高校という世間の一角からはじき返され、荒れ、壁をたたくわが子との日々に耐え、心で泣きながら、顔に笑いを浮かべ、仲間と一緒にもう一度立ち、こう語った父親は、今はいません。病いに倒れ、「この子を残して死ぬわけにいかない、先生、助けて下さい」という言葉を、私たちに残して……。
全面介護に支えられての独り立ち
それから十年近くの時が流れました。その間、それぞれの地域で、悪戦苦闘しつつ作り上げた、学校後の小さな行き場(小規模作業所)を足掛かりにして私たちは、子どもたちがそれぞれの暮らしを立てていける道を、闇中に模索してきました。
先陣を切ったのは大谷君でした。養護学校高等部を卒業、定時制高校入学闘争に挑み、入学、卒業後十年の時を経て、家を出ることを決意、全面的な介護体制に支えられながら、独り立ちしました。その大谷君の姿を間近に見ながら、いま彼の周辺に小さな波立ちが起こりつつあります。二年前、障害者自立支援法をめぐる問題を取り上げた宝塚市議会文教厚生常任委員会で、大谷君はこう陳述しました。
私の障害は脳性マヒで、手も足も動きません。自分ではご飯も食べれなく、介護者が居ないと小便もウンコもできず、垂れ流しです。動けない、何も出来ない、何かの拍子に体が倒れるとそのまま。そんな私が何で、こんな生活をしているのか、どんな生活をしているか想像出来ますか?「そんなに大変だったら施設に入れば」と思うでしょう。
この生活を始めるのも、簡単に始められたんじゃありません。この生活を始めるのに十五年かかりました。こんな風に「一人で暮らしたい」「自立生活がしたい」と思えたのは、色々と外へ出れたからです。それも仲間がいて、一緒にやってこれたから思えたのです。親には心配かけています。「出たい」と言った時、母親は「私は首くくる」と言いました。でも俺は自分でやっていきたい。自分で自分の生活や人生を決めて生きていきたい。そんな思いを持ち、出て行きました。
そして、やっとの思いで、この生活が始められたが、体調をこわし、点滴を打ったり、食べ物を飲み下す事が出来ず肺に入り入院したり、血の混じったタンが出る日々でした。こうやってでも、暮らしていきたいとの思いを潰すのが「障害者自立支援法」なのです。それでも、暮らしていかねばならない。この私の姿、思いが考えられますか?
今、私の通っている小規模作業所のメンバーで知的障害者の一人が私の家に来た時、「大谷君みたいに暮らしたい」と言い出しました。ビックリしました。彼女が支援費を使い、街へ出て、色んなものを見たり感じたり、沢山の人達と出会い、そこで出た言葉だと思います。この言葉をどんな風に思いますか?こんな事が思える障害者は居てますか?宝塚市に24時間介護で自立生活しているのは何人いますか?聞けば、私一人でした。外へ出れない、人との出会いも無い、自立なんて思いもできない。これが現実なんです!
彼女が言った言葉は、そんな現実の中から出てきた言葉なのです。私自身も仲間と出会わなければ、この暮らしはありません。
そんな風に私たちが暮らしていくのはダメですか?
大谷君のような、「手も足も動かない、介護者が居ないと小便もウンコも出来ない」障害者あるいは知的障害者の生きる場は、在宅か施設しかありませんでした。彼等が「地域」に出て暮らせる道が、かすかではあっても見えてくるまでには、ほんとうに気の遠くなるような長い絶望と苦難、苦闘の歴史、夜々がありました。
またそれは障害者だけが背負ってきた歴史ではありません。
悔しさを発条に
足と手と目までも借りて生命とは
介助風呂恥部をなくするまでに病む
無為徒食国の重さの飯三度
この句は昨年暮れに亡くなった、ハンセン病療養所邑久光明園の中山秋夫さんの作品です。昭和十四年、十九歳で強制収容され、八十七歳で亡くなるまでの、実に七十年の歳月を、重い病いと障害を背負い、囲みの中に埋め込まねばならなかった人の、やるせない日々の暮らしと、その隅々にまでしみこんだ国の重さが、私たちにもまっすぐ伝わってきます。それはまた二十四時間、全面介護を受けなければ生きることの出来ない大谷君ら重度障害者と親にのしかかる国の重さであり、世間の重さと同根です。
中山さんたちハンセン病患者が闘った「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」の勝利の日、その場にいた志智桂子さんはこう詩にしました。
本当に勝ったんだ!
これまで闘われた どの人権裁判よりも
限界性をはるかにこえる
この日本にも
まだまともに おかしい事はおかしいと
はっきり判断を下せる 勇気ある裁判長がいたんだ
熱いものが じんわりと私の心をみたしていく
「やっと人間になれた」……
迫害の歴史を歩んだらいの人達の とまどう叫びと重なり
私の魂が震えた瞬間
熱い時が ゆっくり流れていく
ざわめく人々の呼吸する谷間
寂しげに背を丸め 息をひそめ
あなたたちは
人知れず 遠い目をしている
無念にも この日をこの瞬間を迎えられなかった
全国十三カ所の療養所の納骨堂に眠る
何万何千何百という先輩たちの霊に
断種堕胎された
四千四百の 愛しい子供達の霊に
瓶の中に閉じこめられ
標本にまでされた小さな命たちに
祈りを捧げているかのように
あなたたちの表情は 人々の溢れる熱気の中で
ただ 静かに沈黙している
私は決して 忘れない
あなたたちの
老いの横顔に滲んだ
透き通るような寂しさを
その祈りの深さを そして優しさを
私は忘れない
私たちは今、重い障害、とりわけ知的な障害を負った者が、それでも親元を出て、仲間と一緒に、自分たちの暮らしを立てていくため、私たちのみんなの家を作ろうとしています。
ハンセン病の人たちや障害者が、かつて、そして今も、「地域社会から追われ 職場から追われ/悔しさやみじめさを/いっぱい いっぱい かみしめて/寂しさの中で 一人赤い涙を流しながら/必至に耐えてきたもの」を発条(バネ)に、「施設」に囲い込まれて生きるのではない生活、生き方を求めて、国の制度(ケア・ホーム)も利用しながら、私たちの家を作っていきます。
よろしくご支援、ご指導御願いします。
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何かを感じ、そして立ちどまり、
周囲を見まわしていただけたなら、
幸いです。
mami