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合間の博物館旅日記

博物館を回りながら日本各地を旅をする過程の壮絶な日記。(2005.4-9月)
旅終了後は適当に随時更新の予定。

近況

2011-08-24 03:44:01 | Weblog
ほぼ一月ぶりの更新となります。取り敢えず生きてるのでそのご報告。

この間なんもなかったかというとそんなこともなくて、まあつらつらと書いてみましょう。ブログが書けなかったのは私の精神状態があまりよくなかった証拠でもある。うつ病というわけでもないが、あまり思わしくない。


まず、夏の暑さに死にそうな思いをし、七万も出してやむを得ずエアコンを買った。まさに天国と地獄。エアコンの有り難みを日々感じている。お金がもったいないから、夏が終わるのが今は惜しいくらいだ。


次に地デジ化。私は一切対応しなかったので、7月22日以降はテレビとおさらばするつもりで腹を括っていたのだが、なんか住まいがケーブルテレビに加入してた関係で、そのまま見れていたのだ。先日は工事に来た業者にいいように丸め込まれ、何とケーブルテレビの契約までしてしまった。ただでさえゲルピン(死語)なのに、月々四千円も追加で払うはめになった。しかしそのおかげで今は家にいる時は毎日テレビばかり見ている。一億総白痴化万歳!


あとはまあ取り立てて書くような内容はないのだが、久々に江戸東京博物館に行って相変わらず展示がつまらないことを再確認したことや、みんなの検定の検定づくりにハマっていることぐらいであろうか。
洗濯機がとうとう動かなくなり、直すお金もないので毎週コインランドリーに通っているし、なんかもうしょうもない日常が続いている。
ちなみに旅は日帰りのものも含めてここ一年していない。つまりどこへも行ってないのだ。今はかつての自転車旅行などの思い出に浸る日々。40歳ぐらいの頃は月に二回は泊まりがけでどこかに出かけていたのにな…。


あと最近有名人が次々に亡くなっている気がする。震災や原発事故と無縁ではないだろう。放射能による健康被害ではなく、心的ストレスが病気の人にダメージを与えてると見た。
アタックチャンス司会の児玉さん、ジョー山中、日吉ミミ、二葉あきこ、マエタケ、原田芳雄、他にも何人か死んでんじゃないか。時代の流れとはいえなあ。
自分らもいつ死んでもおかしくない。最近同年代の知人が脳梗塞か何かで亡くなってしまった。


またも暗い話になったが、三平じゃないけど「体だけは大事にしてくださいよ」と言いたい。(そう言ってた三平さんがさっさと逝っちゃったけど…)

日本人の知的レベルも

2011-07-27 05:34:47 | Weblog
つくづく落ちたなあと思う。

例えばそれはドラマ『JIN-仁-』のこと。
こんな突っ込みどころ満載なご都合主義的ドラマに、感動したという人が山のようにいて、あまつさえ「後世に残したいドラマ」の一位をとったりする。
おいおいそれはないだろう。あんたら過去に名作と呼ばれたドラマを見てこなかったのか?…と思う。
いつだったか「昭和を代表する歌手」のアンケートをとったら、美空ひばりを押し退けて宇多田ヒカルが一位になってしまった。唖然としたが、当時宇多田に票を投じた人は今でもそう思ってるのか聞きたいもんだ。

まあそれだけならまだいい。低レベルなドラマに感動できる自分の感性のなさを暴露するだけなら……。彼らはよりによって原作漫画の『JIN-仁-』を見ながら、漫画はつまらない、ドラマの方がいい、とのたまうのだ。開いた口が塞がらない。
およそ現代に描かれた漫画の中で最高峰の技術と取材と構成力と高い志で描かれた奇跡のような作品を前にして、「つまらない」と誹謗できるのだ。


まあ一例を挙げてみましょう。
『JIN-仁-』のドラマ最終回を前にして、最終回がどんな話になるか予想して、という質問が知恵袋でありました。
そこで私は、現代に戻った仁が、パソコンで仁友堂のホームページにアクセスし、創業者:橘咲の書いた文章を読み、彼女の真意を知った仁が号泣する、という展開を書きました。原作漫画と違いアンハッピーエンドになるという展開は予測していたからです。彼女の文章にはパスワードがかかっており、そのキーワードはずばり「agedashidofu(揚げ出し豆腐)」。

いわばドラマ版の手紙を読むパターンと中身は一緒です。
直接手紙にしなかった理由は以下の二つ。手紙だと入手方法がいろいろ困難なこと。手紙だと仁が解読するのに時間がかかること。
後者について説明します。当時の手紙は龍馬の「日本を今一度洗濯したく申し候」のように、いわゆる候(そうろう)文が一般的だったでしょう。話し言葉と書き言葉が一致を見るのはまだ先の話。さらに字体も草書みたいな崩した文字でしょうから、特別な勉強をしてない現代人には読むことさえ不可能です。視聴者を感動させた「咲は先生をおしたい申しておりました」という一文は、当時の手紙には書かれる筈の無い文章、ということになります。


私は何も三田村えんぎょばりに屁理屈をつけてドラマを誹謗するつもりはありません。私自身エキストラをやってきた経験から、監督が監修の先生の指摘を無視して、本来はおかしなシーンを撮っている現場を見たことがあります。
しかし村上漫画の手法は、大きな嘘をつくために徹底的にリアルさにこだわるというもの。江戸文化、現代医療、歴史ファンらの専門家が見ても正確さに舌をまくのが原作の『JIN-仁-』でした。その点ドラマは感動を優先し、その弊害はストーリーの不自然さに及び、細かなリアリティも失われています。

村上もとかが細部にこだわるエピソードにこんな話があります。漫画の第一話を読んだ村上氏の父がこういいました。
「何で草履なんか履かせてるんだ?」
当時武士が立ち会う時、滑りやすい草履は脱いで戦ったというのです。村上氏の父は、映画の美術の仕事をしていたことがあり、経験から知っていたのでしょう。
しかし漫画は書き直しできません。こんな一見何でもないようなシーンにもこだわり、戒めとする作者の水準の高さを知ってほしいのです。

漫画のラストは教会を前にした仁と咲。次のコマでは二人は老人に変わっています。
この教会は御茶の水にあるニコライ聖堂。それも震災で倒れる前の建物です。このニコライ聖堂には、坂本龍馬の子孫(親戚)が深く関わっています。村上漫画は調べれば調べるほど奥が深い。
ドラマとは比較にならぬほどです。


なお、私が見たベストワンのドラマは、市川森一脚本の『淋しいのはお前だけじゃない』です。

ハダカデバネズミ

2011-07-08 04:06:44 | Weblog
上野動物園にハダカデバネズミがいる。
場所は西園の小獸館。ここは全体に照明が暗く、ショウガラゴとかトビウサギなどの可愛らしい動物がいっぱいいるのだが、ハダカデバネズミはあまり可愛くない。
何しろ体毛のないハダカで、ピンク色の皮膚には皺までよっており、まるで生まれたてのように見えるが立派な成獸である。目は退化した黒い点でほとんど見えない。出っ歯で穴を掘りモグラみたいに暮らすネズミ。違うのは集団生活をする点。
しかもこいつらは哺乳類だというのに、アリやハチみたいな振る舞いをする。すなわち、群れを率いる女王デバが一頭いて、彼女はひたすら子を産む。
繁殖のためのオスのデバが2~3頭。巣を作ったり、餌を取ったりの働きデバ。さらに外敵から群れを守る兵隊デバ。(もっとも動物園には外敵がいないのでこいつらは暇らしいが)
役割が分担しているのは恐ろしい。哺乳類はみな少しでも自分の子孫を残そうとやっきになっていると思ったが、こいつらは群れ単位で考えてるのだ。変わった奴等である。
進化の過程で間違ってアリやハチの社会的遺伝子を取り込んじゃったのではないか?



話は全然変わるが、書店で村上もとかの「終わりなき旅 僕はマンガをこう創ってきた」を見掛け、速攻で買いました。
こんな本が出ちゃう時点で彼が並の漫画家でないことがもう証明されてると思う。
最近は「JIN-仁-」のドラマのファンが原作に触れ、肌が合わないからか漫画をこき下ろしている意見が目につく。自分の読解力や理解力、感性の悪さを棚に上げて馬鹿にしているのを見て呆れているのだが、こうゆう本が出て少し溜飲を下げている。しかもこの本、小学館でも集英社でもなく、徳間書店。
少し引用してみる。

〈『龍-RON-』の取材は、実際の関係者が生きているわけだから慎重を心がけた。『赤いペガサス』の外国人レーサーのように、「俺が出てるぜ、わっはは」と笑い飛ばしてはくれないだろう。それに時代も違う。
だから、本を読むのは当たり前として、その時代を経験された方のお話をずいぶんと聞いた。マンガでは描けないような話もいっぱい聞いたし、それは喋っちゃまずいだろうということも「あなたに聞いて欲しい」といきなり遺言を渡されるような感じでたくさんの貴重な話を伺った。〉

ううむ…凄い。「龍」がそれまでにない大河マンガであることは薄々勘づいてはいたが、関係者に直接取材して話を創っていたとは…。もはや一漫画家の範疇を超えている。凡百の作家や脚本家に見せたいくらいだ。
また、しれっとこんなことも書く。

〈20歳の時に具体的に構想をはじめてから20年。ずいぶん時間がかかったが、自分にスキルがつくまで20年はかかると当時から予想していた。ようやく描けるようになって臨んだ作品だ。〉

遠大過ぎる! 当初から足掛け12年かかるとふんで連載を開始したというから、人気が出なきゃ「即打ち切り」ぐらいの感覚で描いている連中には想像もできまい。(実際には16年かかっている。)

しかしこうしてみると「仁」の成功は、やはり「龍」の経験があったればこそ、ということになるのだろう。

あかん……また「龍」が読みたくなってきた…。


ドラマ「JIN‐仁‐」最終回を見て

2011-06-30 01:53:12 | Weblog
ああ、なんてベタなタイトルなんだ…。

それはそうと

これまで漫画とドラマの「JIN‐仁‐」について散々書いてきたわけで、今回も書かねばならないだろう。何しろ、「Yahooみんなの検定」で一人で仁関係の検定を四つも作っている私である。もっとも私の場合、原作漫画および村上もとかの大ファンで、ドラマに対しては極めて批判的な立場であることを明言しておかねばならない。

ちまたでは
良かった、感動した、号泣した、サイコー、後世に残したいドラマ
と絶賛の嵐だが、
その人たちと私の温度差は、タクラマカン砂漠とグリーンランドほどにある。
まあこれで泣けるなんて、便利でいらっしゃいますわね。オホホホホ。ってなもんで。

多分この人達は「ALWAYS 三丁目の夕日」でも大泣きしたクチなんだろう…。


前置きが長くなった。
最終回のことを書こう。

最終回のあの展開は半ば正確に予測していた。

恭太郎が上野戦争に参加し、咲がその煽りを受けて怪我。緑膿菌に感染し、仁がホスミシンを探す。
までは原作の展開と、一回前の予告から容易に予想できた。
このあと仁が何らかのトラブルに巻き込まれ、怪我をして現代にタイムスリップ。一話のシーン(手術~階段でのタイムスリップ)を繰り返す。

大方の原作を知ってる読者は、この後原作通りの展開を予測してたのではなかろうか?
が、自分は、仁(この場合包帯男の)は江戸に戻れず現代に取り残され、咲からの手紙を読んで号泣するところまで予測していた。

その理由は以下の三つ。
①製作スタッフの談話として漫画とは違うラストとなることが明言されていた。
②第二シーズンの冒頭に現代の仁が公園のベンチで手紙を読んで泣いているような映像があった。
③原作者村上もとか氏の話。

最後の③については少し説明を要する。
村上もとかが講師を勤める漫画の講義があり、その参加者が書いたブログを読んだのだ。その中で村上氏が「仁」の話題に触れ、
1 ドラマのプロットを見せられたがお涙頂戴的な終わり方であったので、漫画では変えたこと。
2 映画「トイ・ストーリー3」を見てハッピーエンドにしようと思ったこと。
が語られている。この証言は重要だ。

大方の視聴者は、原作が先に終ってることから、脚本家がそれを踏まえた上で、敢えて違うラストを採用した、と思っているだろう。

違う。
ドラマ化が決まった時点でエンディングも決められていた。(その時は2シーズンやる予定はなかったから、恐らく第一シーズンの最終回として考えられたはずだ)
勿論、咲が緑膿菌に感染し、仁がホスミシンを取りに現代へ戻るという設定は、村上氏から聞いていたのだろう。何しろ第一話の映像にはしっかりとホスミシンの瓶が映っている(はず)。
しかし脚本家はその先のラストを知らないので(当たり前だ。村上氏本人が決めてないのだから)、仁が現代に取り残され、咲と離れ離れになる悲恋モノのストーリーを採用した。
時代を越えて手紙で真意(「おしたい申しておりました」)を伝えるというのは、タイムスリップものではよくあるパターンだ。
さらにここで脚本家は反則技を使う。
「歴史の修正力」というのを拡大解釈し、「仁のいなかった幕末」を作り上げ、何故か仁友堂やペニシリンはあるものの、関係者全員が仁についての記憶を無くしている。文献にも写真にも南方仁の存在はどこにもない、という設定にしたのだ。
これには驚いた。だって無理あり過ぎでしょう。俺は一瞬、優秀なタイムパトロールがいて、彼らが関係者全員に接触し、記憶や証拠を消して歩いたのかと思ったよ。ならば恭太郎が偶然拾った薬を一か八か投与したら咲が助かった、という無茶苦茶な説明も、タイムパトロールの連中が咲を治療したあと恭太郎の記憶を改ざんしたと説明がつくからね。

で、咲だけは仁に対する想いが強いからか、顔と名前は忘れても、揚げ出し豆腐が好きな涙脆い先生と呼ばれる人がいて、自分はその人が好きだったことを微かに覚えている、というのだ。
顔も名前も思い出せないが好きだった…。う~ん、記憶喪失並みに重症ですね。
さらには、仁を現代で手術したのは別の先生で、仁は普通の洋服を着ていて、腫瘍も胎児じゃなかったと……。もう、何が何だかよく分からない。
で、仁は橘医院を突き止め、野風の子孫になる未来そっくりな女(名前も橘未来)から「揚げ出し豆腐はお好きですか?」という質問に「はい」と答えただけで、先祖から伝わる大事な手紙を(コピーでなしに)何故か貰っちゃうんだが……。

仁自身の江戸や龍馬についての記憶までやがて消えて行くことまで暗示されている。ホント、歴史の修正力って怖い。

っていうか、歴史の修正力って何なの!?
誰か具体的においらに説明してくれよ!



まあ興奮は収めて…。
この大事な人の記憶をなくしちゃうってのも、「アルジャーノンに花束を」や「私の頭の中の消しゴム」など、よくあるパターンです。

で話を元に戻すと、せっかく咲が残そうとした仁友堂は単なる医療結社扱いで咲の手元を離れ、彼女は産婆に毛の生えた程度の扱いで、女手一つで安寿を養女にし(ルロンさんはどした? 没落したか? それとも単に野風の体目当ての結婚だったのか?)、育てあげたわけである。かつては「ワルチン腫瘍」など、高度な医療知識を学んでいた筈なのに、あまりに淋しい展開だ。

思えば原作と違って、野風の子どもを進んで取り上げると言い出して産婆の勉強をしたのも彼女なら、第一シーズンの冒頭で大名行列を横切るため「産婆にございます」と嘘をついたのも彼女だ。この脚本家はよっぽど咲を産婆にしたかったのに違いない。


話はコロッと変わりますが、先日「もやもやサマーズ」を見てたら浅草の今戸神社が出てきた。
ここは招き猫発祥の地なのだが、同時に沖田総司終焉の地でもあるという。
ドラマでは出てこない沖田は原作では極めて重要な役どころ。彼が近藤が処刑されたことを知らずに手紙を待っていたのは漫画にもあるが史実通り。また、黒猫を斬ろうとしたのも実際のエピソードにあると知って、つくづく村上もとかの漫画は凄いと関心した。沖田が猫の車椅子を作るのは無論フィクションだが、幕末マニアや新選組マニアをも唸らせる展開ではないか。ここまでくると、やまなみさんを描いてくれとか、いやいや芹沢鴨を出してよとか注文したくなってくる。


えーと話が脱線したが、ドラマみたいな悲恋モノの終わり方と、年老いた仁と咲が二人並んで歩く漫画の最後と、どっちを選ぶかは見る側の自由だ。

つくづく、漫画の「JIN‐仁‐」は読み手を選ぶなあ、と思ってしまう。

(ああ……今回のブログはいつにも増してまとまりがない)

包帯男≠南方仁説

2011-06-24 01:29:14 | Weblog
いよいよテレビドラマの「JIN-仁-」も次回二時間スペシャルで最終回である。
私はこの作品については以前からことあるごとに触れてきたから、今回も書かねばなるまい。

ところで、漫画の最終巻を読んでいて驚くべきセリフに出会った。
とそれを書く前に、漫画の最終巻がどんな展開かを整理しておこう。

仁たち一行は龍馬を暗殺から救うべく京都に赴くが、結局助けることができず失意の内に江戸へ戻ってくる。薩摩と長州、土佐は官軍として討幕のため江戸へ向かう。
上野戦争の砲火が響く中、仁は咲に求婚。会津へ向かう仲間たちを尻目に、恭太郎は外国へ留学する道を選択する。

この頃、仁を原因不明の頭痛と吐き気が襲う。自分が現代で手術した身元不明の男(ドラマでいう「包帯男」)が自分自身であると考える仁は、自分の脳内に胎児型腫瘍があり、それが頭痛を引き起こしていると確信する。この時代、誰も彼の脳内の腫瘍を取り出すことはできない。

一方、仁に恨みを持ち、彼がいなくなれば新政府下の医学界を一気に牛耳れると画策する医師・三隅は、仁友堂に出入りして恭太郎に短銃を手渡した後、仁らを襲わせる。銃は暴発し恭太郎は死亡。咲も巻き添えを食って傷を負う。

咲の傷を負った腕は緑濃菌に感染する。これは龍馬を髄膜炎にしたのと同じ菌で、ペニシリンが効かない。
咲の容態は悪化し、また仁の頭痛や吐き気、錯視の状態も酷くなる。まさに八方塞がりだ。
そんな中、三隅の罠にはまった仁を三人の暗殺専門の武士が襲う。絶体絶命。頭部に一撃を浴びる仁。その時暗殺者たちが仲間割れを始める。何とそのうちの一人は、龍馬を斬ったあと行方をくらましていた東修介だったのだ。東に斬られる三隅。
が、その直後、龍馬の声に導かれ、崖から転げ落ちる仁。そして現代へタイムスリップ。

気が付くと病院のベッドに寝ている仁。彼は胎児型腫瘍の標本と医療キット、そして緑濃菌に効くホスミシンという薬を持ち出し、非常階段へと向かう。
もみ合う二人の仁。そして……見事幕末へ戻った仁は、ホスミシンを手に咲の治療へと向かう。



ここまでが最終巻の途中までの大まかな流れだ。脳内の腫瘍を摘出し、咲の治療に必要な薬を入手するという奇跡のウルトラCを成し遂げるわけである。

ところで冒頭に記した凄いセリフとは、緑濃菌に冒され病床に伏している咲のセリフである。

「私、頑張ります。人は死ぬまで一生懸命に生きるのが仕事ですものね」

こんなセリフをサラッと書いてしまう村上もとかは凄い!
ここで言う「仕事」とは、勿論我らが日常的に使う仕事ではない。敢えて訳すなら、つとめ、使命、責務とでもいったところか。
死ぬまで一生懸命に生きる。
死ぬことは分かっている。避けられない。しかしその時まで、あがきながら、ジタバタしながらも、その時その時を一生懸命に生きることこそ、人間が取るべき行動なのだとこの作者は言うのである。



さて。閑話休題。
よく誤解されているのは、仁が二人に分裂した、と思われていることだ。現代の仁は、一人は文久三年の江戸へ。もう一人は現代に残っている。仁という名前はにんべんに二だから、二人に分かれることをそもそも暗示しているんじゃないかと……。
違う。分裂などしていないのだ。
それはタイムスリップに、あの胎児型腫瘍が必要だと考えれば理解できる。
最初の身元不明の患者、すなわち包帯男は、脳内に腫瘍があったから、幕末からタイムスリップした。
その標本を手にして現代の仁がタイムスリップ。
数年後、龍馬の血液や脳髄液を浴びて成長した脳内腫瘍を持った仁が現代にタイムスリップ。
そして彼が、その標本を手に再び幕末へと戻る。
胎児と共にタイムスリップできるのは一人だから、最後現代の仁が現代に取り残されるのは当たり前なのである。
すなわち一巻のシーンと最終巻のシーンは、よく似ているが別の次元、別の世界の話なのである。
お初ちゃんという子どもの手術の際に、お初ちゃんが死なず仁が存在しない世界がある、ということが暗示されていた。つまり、様々な可能性を持つ無数のパラレルワールドの存在を漫画は投げ掛けている。
だから最初のタイムスリップと二度目のタイムスリップは別の世界でそれぞれ起こっているのだ。
その証拠に、一巻の包帯男は階段からダイブせず、踊り場の壁にもたれかかっている。最終巻の包帯男(すなわち江戸から来た仁)は、現代の仁より先に標本へ手を伸し階段からダイブしている。
同じことが繰り返されたわけではないのだ。


さて、そうすると、最初の包帯男は一体どこからやって来たのか、という疑問が起こってくる。パラレルワールドは無数にあるから、また別の世界の仁だったのか? ではその世界の最初の包帯男は?
考えるとキリがなさそうだ。


そこで私は、包帯男は実は仁ではなかったのだ、という新説を唱えてみたい。漫画の中で、仁本人が認めていることを、敢えて本人の思い違いだったと仮定してみたいのだ。

仮にあれを仁本人だったとしよう。そうするといろいろ無理が生じる。
包帯男は身元不明で、そのために手術を執刀した仁のとこにまで刑事が聞き込みに来ているくらいだ。ところが、あれが江戸から来た仁だとすると、着物を着ている上に紋付や袴なども着用している。およそ現代人の服装ではない。そのことに刑事が全く触れてないのは何故だろう。実は普通の洋服を着てたのではないか?
手術を担当した仁は服など見てないだろうが、もし患者が江戸から来た仁なら、右肩甲骨のあたりに刀で斬られて縫合した傷を見ている筈である。これは身元を割りだすのに相当有力な証拠である。しかし仁はそれを刑事らに語っていない。何故か? それはつまり、傷なんかなかったからだ。
結論を記そう。最初の包帯男は、仁とは縁もゆかりもない単なる浮浪者か何かで、たまたま手術後に胎児の標本や医療器具なんかを持ち出した頭のおかしい人だった。
それを江戸へタイムスリップした仁が自分だと思い込み、そしたら本当に脳内に胎児型腫瘍ができて、あまつさえ現代の自分に手術されてしまった。同じような行動をとったのは、たまたま最初の包帯男がした行為をなぞったためだった…。

この説なら、最初の包帯男の仁がどこから来たかという矛盾については解決しているように思うのだが……。


いずれにしろ、ドラマは漫画とは違うラストになるという話なので、ドラマの最終回を楽しみに待つしかあるまい。

猫の訃報

2011-06-15 04:47:47 | Weblog


一月ぶりにブログをアップします。

以前ポンタという猫の死を半年ほど前に書きましたが、今回はさらに悲しいお知らせです。

私の愛したミケのナナちゃん19歳がお亡くなりになりました。つい12日ほど前のことです。

最初は下痢をして、それが一週間も直らないので医者に連れて行った。一週間後、食欲がなくなり、食べたものも吐いてしまう。ついには餌も水も取らなくなり、静かに逝きました。

私にとってナナはただの猫でない。子どものような母のような恋人のような…。独り身の中年男がこんなこと書いてさぞかし気持ち悪いだろうが、事実なんだから仕方がない。長年猫を飼ってきて、間違いなく一番可愛がっていた猫です。
それだけに寿命とはいえ悔いが残る。自分にお金があってもっと適切な治療を受けさせてやれば、まだ死なずに済んだのではないか。最後にもう一度医者に連れてくべきだったのでは? 病気の原因さえ最後までハッキリしなかったので余計にそう思う。19歳という高齢が、かえって判断を誤らせたのではないかと…。

今日、そのナナちゃんが夢に出てきました。ナナは私にすり寄って、いつものようにゴロゴロ言ってました。ナナは自分を許してくれたのかもしれませんが、自分はまだ自分が許せません。酷い話ですが、肉親が亡くなった時より悲しい。



私は五年以上実名ではネットから遠ざかって来ましたが、最近また実名でブログを初めています。PCを昨年末に購入したのは前のが壊れたせいもあるのですが、長年書いてきた博物館の記事をアップするためです。本当は本にしたいという下心もあって、ブログ化は進まなかったのですが、今回の猫の死で、もうすべてがどうでもよくなってアップを始めました。順次、書いてきた記事をすべてあげるつもりです。

ブログのタイトルは
「清水英幸の『蟷螂の斧』」

なお、一番最近書きためたバージョンは、引っ越しのどさくさで壊れたPCのハードディスクに入っていて、BUもとっていなかったため復旧できず。なのであげている記事はすべて2008年に書かれたものに、少しだけ手を加えています。

今回は湿っぽい記事になりました。

博物館関係の記事をすべてさらすのが自分なりのナナに対する供養ではないかと思ってます。

人生に意味はない

2011-05-13 23:59:43 | Weblog
ゴールデンウィークとやらがあっという間に過ぎた。皆さんはどんな休みを過ごしたか知らないが、私は普段とまったく変わりない仕事の日々を過ごしている。ちなみに、今月は休みが三日しかない。にもかかわらず薄給なのは時給が安いからだ。先日もとある女性客に「融通が利かないからそんな仕事にしかつけないのよ!」と職業差別発言を受けた。わしらの仕事は融通を利かせてはダメなのだが、心の底では一部同意する自分がいるのも、世間と自分との休みの違いをこうして見せつけられたりするためだろう。
仕事するより寝ていたい! っつーのは本音だ。いや、やり甲斐のある面白い仕事ならいんだけどね。


話が暗くなった。
どうも真夜中に打ってるせいか全体に話が暗い。まあ今回はブログのタイトルからして暗いんだが、その件は最後に書こう。


GW中は5月2日が明けだったので、洗足まで行って、影絵作家藤城清治氏の自宅でやっていた展覧会を見に行った。
私はほんの数週間前まで藤城清治氏の名前を知らなかった。いや、絵はもちろん知っている。日本人なら一度は必ず目にしているだろう。
「赤ちゃんも夢を見るのかしら」でお馴染みの宇津救命丸のCM。わしらの世代ではむしろ木馬座アワーが鮮烈だ。あそこに出てくる、当時子供たちに人気絶頂だったケロヨンも藤城氏のキャラだ。
ことの起こりはこう。僕は爆笑問題の、特に太田が好きで、彼が司会をつとめる「雑学王」を録画して見ていた。その中のトークで、太田がファンだった藤城清治氏に自著「マボロシの鳥」をプレゼントしたところ、藤城氏が「これは自分の手で絵本にしなければならない」と強く思ったというのだ。ネットで調べてみると、「マボロシの鳥」の原画を含む展覧会が彼の自宅でやってるというではないか!

で、まあ作品なのだが、どれもこれも素晴らしい。が、一番感動したのは、すでに功なり名を遂げた、数々の勲章までもらっている齢87歳の藤城氏が、日課の血圧測定までやめて、心血を注いでこれだけの作品を作り上げたその情熱と行動力である。
失礼だが、87と言えば、世間的にはもう棺桶に両足突っ込んでそうな年齢だ。生きててもとうに仕事は引退し、趣味でもやってれば「凄いですね」「元気ですね」と誉められる年齢である。それがこの傑作……。まさに脱帽するしかない。
百を過ぎて現役だった平櫛田中、憲政の神様尾崎咢堂もこんな感じであったろうか。
絵本は今月中に出るそうなので、買わずばなるまい。


他に特筆すべきことは、村上もとかの「JIN-仁-」が第15回手塚治虫文化賞の大賞を受賞したこと。いやあ素晴らしい!
この賞、どんだけ権威があるかは知らないが、選考委員には同業者の漫画家も多数名を連ねてるのでいい加減な賞ではあるまい。かつては「バガボンド」や「プルートゥ」「西遊妖猿伝」、吾妻ひでおの「失踪日記」もとっている。一方で、去年の大賞は「へうげもの」と、受賞すれば必ずビッグヒットにつながる、というほどでもなさそうだ。
取り敢えず原作ファン、村上もとかファンとしてはめでたい。


5月2日には渋谷にある岡本太郎の壁画「明日への神話」に福島原発が描き足された。
その福島原発、昨日になってようやく東電がメルトダウンをみとめた。燃料棒が溶けて格納容器の底にたまり、容器に穴が開いて放射能に汚染された水がだだ漏れしていたわけで、さらに海水に広範囲に放射性物質が流出してしまったわけだ。
まあ酷い話である。
原子力発電は見直しましょう、という論調がテレビでも見られ始めたが、もう遅くね?という感じだ。



さて、ここでようやくタイトルの説明に入ろう。
タレントの上原美優が自殺した。彼女の自殺理由はサッパリ分からないが、そんな自分も頻繁に自殺について考える。
私に限らず、夢も希望もなく、経済的にも家庭的にも恵まれていない中高年は、生きることがつらいと、ついつい自殺を考えてしまう。

若い頃はそれでも夢があったり可能性があったりしたので何とかなったが、50を間近にして何一つ成し得ていない自分には、生きることそのものがもはやつらいのだ。

人は何のために生きているのか? 生きる目的は何か?

それが見つからないと生きること自体が無意味に思えて来て絶望してしまう。

そこで考え方を変えてみることにした。
日本人は真面目だから、意味や目的がないと生きている価値がないと考えてしまう。他者を押しのけ、命を奪って生きているのがヒトだ。だからそこに、なにがしかの罪悪感を感じている。
が、意義や意味、目的がないといけないと誰が決めたのか?
別に意味なんかなくてもいいではないか?
ただ〈生きている〉という現象があるだけでは、何故いけないのか?

生に意味を見出だそうとするから、自分が費やしている仕事のための膨大なつまらない時間は、生活費を稼ぐためのものだと割り切る。しかし心には抑圧されたストレスがたまり、それを解消するために酒を飲んだりギャンブルにハマったりする。
そうではない。生に意味はない。ゆえにどう生きようと自由なのだと捉えれば、自分が送っている一見〈無意味な〉膨大な時間も、それ自体楽しむべきユニークな経験と考えることはできないか? 今、まさにこの時間を味わうために生きてるのだ、と思えないか?


「人生に意味はない」というのは、意味などなくてもいんだ、ということ。脅迫観念に囚われて、生を限定しないための発想の転換なのだと思ってほしい。

吾妻ひでおを見る つづき

2011-04-29 23:19:50 | Weblog
前回のブログの続きだ。確か西原理恵子に言及したところだった。


西原といえば「毎日かあさん」連載中に旦那と離婚し、挙句の果てにアル中だった鴨ちゃんはガンで亡くなり、映画化までされている話題の人である。
アル中、ギャグ漫画、自分を作中に登場させる、有名な漫画賞受賞など、西原と吾妻ひでおには共通項が多いが、この二人には接点がほとんどない。
西原は画力対決で、ちばてつやや松本零士、藤子不二夫A、やなせたかしなど、上の世代の作家とも絡むし、さくらももこにも喧嘩を売ったりしてるのだが、何故か吾妻の名は上がらない。両者とも相手の漫画を読んだことはある筈なのだが…。


さて。
かくいう私は吾妻ひでおのコアなファンである。
具体的には小学生の頃、リアルタイムで「ふたりと五人」を読んでファンになった。
高校生の頃は「週刊少年チャンピオン」が凄かった。手塚治虫、水島慎司、山上たつひこを中心に、優れた作品が並んでおり、その一角に吾妻ひでおがいた。当時の作品は「チョッキン」。
その後、「やどりぎくん」という作品に出会って、当時高校三年生だった僕は、受験を控えてたのにも関わらず、せっせと吾妻作品を買い求めた。
「不条理日記」で星雲賞を受賞し、美少女漫画の教祖的存在となり、吾妻ひでおブームが訪れる。しかし自分はファンクラブなどには参加せず、ひたすら吾妻漫画を読むだけのファンだった。

そうこうするうちに時代は流れ、吾妻ひでおも他の多くの作家とともに忘れ去られていく。だが、自分はいつか復活することを信じて疑わなかった。

その時が来たのが、「失踪日記」が数々の賞を取る今から五年前のことだった。
当時私は吾妻ひでおメーリングリストを読んでおり、受賞を祝うオフ会に一度だけ参加したことがある。
しかし、これだけコアなファンであるにもかかわらず、吾妻ひでお本人を目撃したことは一度もなかった。
それが今回、わが母校の明治大学で、新井素子とのトークイベントが行われるという情報を入手した。幸い当日は勤務明けである。というわけで、吾妻ひでおを見にいくことにした。(やっとタイトルにつながりましたね)

午前中に行って博物館の「吾妻ひでお美少女実験室」の展示入口でトークイベントの整理券を貰う。(番号は52番)
床屋で髪を切ってから昼飯を食べ、米沢嘉博記念図書館の1階展示室を見る。それでもまだイベントには間があるので、カラオケボックスに入り1時間半ほど熱唱する。

いよいよトークイベントだ。二百人入る教室に空席なし。半分が新井素子ファンでも、残りの百人は吾妻ファン、ということになる。

印象に残ったのは以下の三点。
1 新井素子は年齢の割に若い。
2 新井さんは自宅に5~6千点に及ぶぬいぐるみ(「ぬいさん」と呼んでいた)がある。
3 新井さんは携帯を持ってない。
4 のた魚は「のたざかな」だとばかり思っていたが「のたうお」と言うのだそうな。


何か新井素子の印象しかないが、肝心の吾妻ひでおの方はというと、ほぼ予想どおりの人だった。
(娘の千佳ちゃんらしき人が前の方に座っていたが、だいぶイメージが違った。子供の頃の絵のイメージしかないからしょーがないか)

こうして私は、永年信奉してきた「神」との邂逅を果たしたのである。まあ一方的に目撃しただけなのだが……。

これで人生に思い残すことがまた一つ減った。

吾妻ひでおを見る

2011-04-27 05:25:19 | Weblog
まずは一昨日のことから。
一昨日は休みだったので朝から歯医者に行く。家賃を振込んでからふらふらとパチンコ屋へ。
近々ピンクレディの新台が出るそうだが、何故かピンクレディのハネモノに座る。やっぱパチンコの醍醐味は玉の動きだよな~とか思いながら4、5千円使ってしまう。3回V入賞したのに全部2R。ついてない。そういえば女優の田中好子が死んだが、キャンディーズのパチンコは何故出なかったのだろう? 「普通の女の子」に戻ったミキが拒否ったのか?

治療から一時間過ぎたので昼飯を食う。赤羽の、大勝軒隣りの新しくできたうどん屋がお気に入り。肉つけうどんの大盛を頼む。食って出ようとするとものすごい豪雨。やむなく雨宿りをかねて対面のパチンコ屋に避難。
新台のカイジが一台あいた。打ち始めるが芳しくない。潜伏か小当たりか分からない当たりを三回ひく。本機は69回のST機なので、潜伏をひいてスルーした可能性もゼロではない。
投資がシャレにならない金額を越えた頃、やっとパンダとイチゴ柄が出てあたりを引いた。7連荘して終了。換金したが五千円マイナスだ。等価だったらチャラだった。
それにしてもカイジは、胸に刺さるセリフが多い。
「勝とうともせずに生きていること自体無謀なのさ」
とか
「世の中には支配するものと支配されるものしかいない」
とか。
特にパチンコという、ある種無謀な(トータル的に店が勝つに決まっている)ギャンブルに手を出し、大負けしてる時にこれらのセリフを目にすると、
「ホントそうだよな、もうパチンコは止めよう」
と思うものだ。

私は都知事になった石原慎太郎は大嫌いだし、もはや老外を越えて痴呆にまで言ってるんじゃないかと最近の言動を見て思う。
私のパチンコ歴は30年。パチンコは好きだし、なくすべきでもない。また東京からパチンコを締め出すことなどできる筈もないのだが、それでももしパチンコがこの世からなくなれば、自分の生活が少しは安定するかもしれない。そう他力本願で思うのも、もはや依存症のレベルに到達しているからだ。

パチンコ屋を出たその足で銭湯に行く。いつも行く「みどり湯」が休みだったのでテルメ末広へ。
上がって脱衣所で体を拭いていると、テレビに浦沢直樹や西原理恵子が映っている。あとカイジの作者福本も。
なんでも被災地を訪れてサイン会などしてるらしい。ネットで調べてみると、他にもバキの作者や、かわぐちかいじなども参加。現地へは行ってないが、色紙のみの参加で、井上雄彦やちばてつや、江口寿史などが協力してるらしい。
ほとんど「画力対決」ではないか。これは西原がバガボンドやスラムダンクを引っ張り出す布石とみた。

しかし、ふだんしょーもない下ネタなども描いて、時には「脱税できるかな」などというおかみを敵に回した過激な作品を描いてる西原だが、こうゆう時に率先して(キャラも無視して)被災地への支援をするとは、大したものである。

よく西原はくらたまや内田春菊あたりと比べられることが多いが、作家としても人間的にも格が違うのが、これで証明できたのではないか?

もっとも、内田春菊はでんこちゃんを描いて東京電力からたくさんお金をもらってたから、被災地へ行っても喜ばれない可能性が高い。


さて、ここまで読んで来て
「ちっともタイトルと内容があってないな」
と思ったあなたは鋭い。
実はここまでが前置きなのである。

本題はこれからなのだが……。
さすがに長くなった。
本題については次回に回すとしよう。

神は乗り越えられない試練を...

2011-04-24 05:21:55 | Weblog
「神は乗り越えられない試練を与えない」

ドラマ「JIN‐仁‐」にやたらと流れてくるこのフレーズ、皆さんはどう思うだろう?
地震と津波と原発事故で打ちのめされている日本だが、この言葉を聞いて勇気を奮い立たせている人もいるだろう。が、それこそ家や家族、仕事を失ったような被災者に「神は乗り越えられない試練を」などと言い出したら、一体相手はどう感じるだろうか……。


ドラマの熱烈なファンには申し訳ないが、聖書由来と思えるこの言葉は、実は村上もとか原作の漫画には一行たりとも存在しない。脳外科医である主人公は、これまでにも救えない命を幾つも見て来た筈だが、その人たちに投げ掛けるのにこれほど酷な言葉もないだろう。さらにいえば、この違いこそ、原作者と脚本家のスタンスの違いだということができる。


では先週放送された初回の内容から見ていこう。この回に詰め込まれたエピソードは三つ。
・橘栄は重い脚気にかかっており、仁は道名津を開発して脚気を治す。
・龍馬の依頼で佐久間象山の命を救いに京都へ行く。
・蛤御門の変で焼け出された人々を治療中、新選組に拉致され、西郷隆盛の虫垂炎を手術する。

これらのエピソードは原作にも無論あり大きくは変わらない。もっとも漫画ではこのあと京都で仁は猫の手術をしたり、沖田総司が人知れず猫の車椅子を作ったり、龍馬と仁とお龍が祇園に遊びに行ったりという場面があり、血なまぐさい仁の京都出張に一服の清涼剤のような爽快感を与えている。西郷の手術のせいでペニシリンが足りなくなり、民衆を火傷から救えなかったドラマ版とは随分後味が違っている。


そもそも龍馬に象山救命の依頼を受けた時点で、ドラマの仁は栄の容態を理由に「2、3日考えさせてくれ」と間抜けなことを言っている。危篤な患者に間に合う筈がない。真意は、歴史を変えることを未だ恐れている(江戸に来てもう2年も経つのに!)ためで、咲に「命を救わないのは医者として違うのではないか」と説得される。もうこの時点で私などは、仁は医者としてダメだな、と思う。
漫画ではすぐに出発し、ペニシリンは蒸気船の中で製造、大阪港から和紙に定着させ運ぶのだが、ドラマでは仁友堂で和紙に定着している。これで京都へ着くのはさらに遅くなるのだが、あとでペニシリンを足らなくするために漫画と違えたのだと容易に推測できる。

象山が幼少時にタイムスリップしていたのは原作通りだが、火事によって死ぬのは違う。漫画では静かに息を引き取っている。これも視聴者の感動を煽るためだろうが、せっかく助けた命を、器具を優先して火事で死なせるのはやはりないと思う。
このあと、原作にはない龍馬と久坂玄瑞の切腹の件があって、西郷との対面シーン。
虫垂炎で開腹手術をしなければ助からないという仁は、長州の暗殺者ではないかとまで言われ、一旦は帰ろうとする。が、象山に言われた「救え!」という言葉を思い出しこんなことを言う。
「ここであなたを見捨てたらあなたがたと同じ命を差別する者になってしまう。だからあなたを助けさせてくれ」

妙な理屈である。まるで薩摩藩が悪者と言わんばかりだ。まあドラマの仁が歴史に疎いのは仕方ないとしても、果たしてこんなことを言われた患者が、「はいそうですか」と命を預ける気になるだろうか?
原作では病状を説明し、その上で手術をするか否かは西郷の判断に任せている。いわゆるインフォームド・コンセントだ。現代の脳外科医としては当然のことだろう。


ここで「仁」のタイトルに言及しておきたい。
主人公の名前であるのは無論だが、「医は仁術」という言葉に由来するのは言うまでもない。
確かに主人公は、江戸時代から見れば驚くべき医療の知識と神のような手技で人々に驚きを与え、尊敬を集めていく。だが仮に、あなたの前に驚くべき技で治療を施す医者がいても、彼の性格が傲慢で人間的に未熟な人間だったら、そんな者に命を預ける気になるだろうか?
咲や野風や勝や龍馬や新門辰五郎や緒方洪庵が、仁に全幅の信頼を寄せているのは、単に彼の知識や技量が優れているからではなくて、富や名声など顧みず、時には自らの命さえ投げ出す覚悟で目の前の命を救おうとする、その心に打たれたからだ。
ドラマの仁にはそれが感じられない。未だにうじうじと悩み、相手のことを思いやらず、自分の都合ばかり考えている。未来という現代の恋人を救うため野風を見殺しにする仁では、周囲の人間の尊敬や信頼を集めることはできない。

ドラマでは栄を説得するのは喜市だが、人生経験豊富な栄が年端もいかない子供に「生きてなきゃ笑えないんです」と言われたぐらいで自殺を思いとどまるだろうか。
漫画では栄を説得するのは仁である。栄に自分の母親の姿を重ね合わせ、ぼうだの涙を流しながら安道名津を頬張り、「せめて美味しいものを食べながら死んでいくというのは如何でしょう」と提案する仁。その姿に、(わざわざ美しいパッケージまで添えて)菓子を作って来た仁に、栄はやっとかたくなな心を動かすのだ。
自分を治療しようとしない患者の前には、如何なる薬も手術も無力である。まさに「心」しかない。ドラマでは子供を出して感動させようと試みているが、ある意味仁は心の治療を放棄しているかに見える。そのため敢えて順番を替えて京都に行かせ、江戸を留守にさせたのかもしれない。


仁の治療の精神はその後の話でさらに昇華してゆく。
自分を二度も殺そうとした牢名主の心臓が止まった時も、「この男を助けるのか」と自問しながら見殺しにはできず、助けてしまう。
お初ちゃんという女の子の手術では、彼女を救うと歴史が変わって自分の存在そのものが消えてしまう。にもかかわらず仁は手術をやめない。たとえ自分がこの世から消えることになっても、助かってほしいと祈るのだ。まさに究極の「仁の心」ではないか?


ここで敢えてドラマの制作者に助け船を出すとすれば、悩んで未熟で不完全な主人公の方が、視聴者に親近感を呼び起こすことは確かである。もしも原作通りにドラマ化したら……。いいドラマにはなるけれども視聴率は伸びず、これほど人気を呼ぶことはなかっただろう。かつて名作と呼ばれたドラマの視聴率が如何に低いかは歴史が証明している。


最後に、村上もとかの漫画が他の凡百の漫画と何が違うのかを論じたい。
絵の緻密さ、綿密な取材、ストーリーの面白さ――それだけでも無論十分凄いことなのだが、一番私が訴えたいのは、志(こころざし)があるという点だ。
村上もとかの視点は、常に不当に人権を侵害されている弱者の方に向いている。本作でいえば、吉原で若くして梅毒などで死んでいった女郎たちの存在を知ったことが執筆の動機になっている。
「GANTZ」が如何に豊富なイマジネーションと緻密な絵で面白いストーリーを展開しようとも、この漫画には志はない。他のあらゆる漫画を見ても、高い志を持って描いている作家は数えるほどしかない。
無論志だけでは駄目で、エンターテイメント、すなわち娯楽として成立している必要があり、そこが村上もとか作品のある意味奇跡的なところだ。このことは無論「RON‐龍‐」にも共通している。


なお、一部に小説「大江戸神仙伝」とのプロットの類似が指摘されているが、江戸の素晴らしさを書いたその作者と、江戸の美しさ・素晴らしさを十分な画力で伝えながらも、なおその裏面の不合理をテーマとした村上もとかでは、そのスタートの視点がまるで違う、ということをいっておけば十分であろう。