「神は乗り越えられない試練を与えない」
ドラマ「JIN‐仁‐」にやたらと流れてくるこのフレーズ、皆さんはどう思うだろう?
地震と津波と原発事故で打ちのめされている日本だが、この言葉を聞いて勇気を奮い立たせている人もいるだろう。が、それこそ家や家族、仕事を失ったような被災者に「神は乗り越えられない試練を」などと言い出したら、一体相手はどう感じるだろうか……。
ドラマの熱烈なファンには申し訳ないが、聖書由来と思えるこの言葉は、実は村上もとか原作の漫画には一行たりとも存在しない。脳外科医である主人公は、これまでにも救えない命を幾つも見て来た筈だが、その人たちに投げ掛けるのにこれほど酷な言葉もないだろう。さらにいえば、この違いこそ、原作者と脚本家のスタンスの違いだということができる。
では先週放送された初回の内容から見ていこう。この回に詰め込まれたエピソードは三つ。
・橘栄は重い脚気にかかっており、仁は道名津を開発して脚気を治す。
・龍馬の依頼で佐久間象山の命を救いに京都へ行く。
・蛤御門の変で焼け出された人々を治療中、新選組に拉致され、西郷隆盛の虫垂炎を手術する。
これらのエピソードは原作にも無論あり大きくは変わらない。もっとも漫画ではこのあと京都で仁は猫の手術をしたり、沖田総司が人知れず猫の車椅子を作ったり、龍馬と仁とお龍が祇園に遊びに行ったりという場面があり、血なまぐさい仁の京都出張に一服の清涼剤のような爽快感を与えている。西郷の手術のせいでペニシリンが足りなくなり、民衆を火傷から救えなかったドラマ版とは随分後味が違っている。
そもそも龍馬に象山救命の依頼を受けた時点で、ドラマの仁は栄の容態を理由に「2、3日考えさせてくれ」と間抜けなことを言っている。危篤な患者に間に合う筈がない。真意は、歴史を変えることを未だ恐れている(江戸に来てもう2年も経つのに!)ためで、咲に「命を救わないのは医者として違うのではないか」と説得される。もうこの時点で私などは、仁は医者としてダメだな、と思う。
漫画ではすぐに出発し、ペニシリンは蒸気船の中で製造、大阪港から和紙に定着させ運ぶのだが、ドラマでは仁友堂で和紙に定着している。これで京都へ着くのはさらに遅くなるのだが、あとでペニシリンを足らなくするために漫画と違えたのだと容易に推測できる。
象山が幼少時にタイムスリップしていたのは原作通りだが、火事によって死ぬのは違う。漫画では静かに息を引き取っている。これも視聴者の感動を煽るためだろうが、せっかく助けた命を、器具を優先して火事で死なせるのはやはりないと思う。
このあと、原作にはない龍馬と久坂玄瑞の切腹の件があって、西郷との対面シーン。
虫垂炎で開腹手術をしなければ助からないという仁は、長州の暗殺者ではないかとまで言われ、一旦は帰ろうとする。が、象山に言われた「救え!」という言葉を思い出しこんなことを言う。
「ここであなたを見捨てたらあなたがたと同じ命を差別する者になってしまう。だからあなたを助けさせてくれ」
妙な理屈である。まるで薩摩藩が悪者と言わんばかりだ。まあドラマの仁が歴史に疎いのは仕方ないとしても、果たしてこんなことを言われた患者が、「はいそうですか」と命を預ける気になるだろうか?
原作では病状を説明し、その上で手術をするか否かは西郷の判断に任せている。いわゆるインフォームド・コンセントだ。現代の脳外科医としては当然のことだろう。
ここで「仁」のタイトルに言及しておきたい。
主人公の名前であるのは無論だが、「医は仁術」という言葉に由来するのは言うまでもない。
確かに主人公は、江戸時代から見れば驚くべき医療の知識と神のような手技で人々に驚きを与え、尊敬を集めていく。だが仮に、あなたの前に驚くべき技で治療を施す医者がいても、彼の性格が傲慢で人間的に未熟な人間だったら、そんな者に命を預ける気になるだろうか?
咲や野風や勝や龍馬や新門辰五郎や緒方洪庵が、仁に全幅の信頼を寄せているのは、単に彼の知識や技量が優れているからではなくて、富や名声など顧みず、時には自らの命さえ投げ出す覚悟で目の前の命を救おうとする、その心に打たれたからだ。
ドラマの仁にはそれが感じられない。未だにうじうじと悩み、相手のことを思いやらず、自分の都合ばかり考えている。未来という現代の恋人を救うため野風を見殺しにする仁では、周囲の人間の尊敬や信頼を集めることはできない。
ドラマでは栄を説得するのは喜市だが、人生経験豊富な栄が年端もいかない子供に「生きてなきゃ笑えないんです」と言われたぐらいで自殺を思いとどまるだろうか。
漫画では栄を説得するのは仁である。栄に自分の母親の姿を重ね合わせ、ぼうだの涙を流しながら安道名津を頬張り、「せめて美味しいものを食べながら死んでいくというのは如何でしょう」と提案する仁。その姿に、(わざわざ美しいパッケージまで添えて)菓子を作って来た仁に、栄はやっとかたくなな心を動かすのだ。
自分を治療しようとしない患者の前には、如何なる薬も手術も無力である。まさに「心」しかない。ドラマでは子供を出して感動させようと試みているが、ある意味仁は心の治療を放棄しているかに見える。そのため敢えて順番を替えて京都に行かせ、江戸を留守にさせたのかもしれない。
仁の治療の精神はその後の話でさらに昇華してゆく。
自分を二度も殺そうとした牢名主の心臓が止まった時も、「この男を助けるのか」と自問しながら見殺しにはできず、助けてしまう。
お初ちゃんという女の子の手術では、彼女を救うと歴史が変わって自分の存在そのものが消えてしまう。にもかかわらず仁は手術をやめない。たとえ自分がこの世から消えることになっても、助かってほしいと祈るのだ。まさに究極の「仁の心」ではないか?
ここで敢えてドラマの制作者に助け船を出すとすれば、悩んで未熟で不完全な主人公の方が、視聴者に親近感を呼び起こすことは確かである。もしも原作通りにドラマ化したら……。いいドラマにはなるけれども視聴率は伸びず、これほど人気を呼ぶことはなかっただろう。かつて名作と呼ばれたドラマの視聴率が如何に低いかは歴史が証明している。
最後に、村上もとかの漫画が他の凡百の漫画と何が違うのかを論じたい。
絵の緻密さ、綿密な取材、ストーリーの面白さ――それだけでも無論十分凄いことなのだが、一番私が訴えたいのは、志(こころざし)があるという点だ。
村上もとかの視点は、常に不当に人権を侵害されている弱者の方に向いている。本作でいえば、吉原で若くして梅毒などで死んでいった女郎たちの存在を知ったことが執筆の動機になっている。
「GANTZ」が如何に豊富なイマジネーションと緻密な絵で面白いストーリーを展開しようとも、この漫画には志はない。他のあらゆる漫画を見ても、高い志を持って描いている作家は数えるほどしかない。
無論志だけでは駄目で、エンターテイメント、すなわち娯楽として成立している必要があり、そこが村上もとか作品のある意味奇跡的なところだ。このことは無論「RON‐龍‐」にも共通している。
なお、一部に小説「大江戸神仙伝」とのプロットの類似が指摘されているが、江戸の素晴らしさを書いたその作者と、江戸の美しさ・素晴らしさを十分な画力で伝えながらも、なおその裏面の不合理をテーマとした村上もとかでは、そのスタートの視点がまるで違う、ということをいっておけば十分であろう。
ドラマ「JIN‐仁‐」にやたらと流れてくるこのフレーズ、皆さんはどう思うだろう?
地震と津波と原発事故で打ちのめされている日本だが、この言葉を聞いて勇気を奮い立たせている人もいるだろう。が、それこそ家や家族、仕事を失ったような被災者に「神は乗り越えられない試練を」などと言い出したら、一体相手はどう感じるだろうか……。
ドラマの熱烈なファンには申し訳ないが、聖書由来と思えるこの言葉は、実は村上もとか原作の漫画には一行たりとも存在しない。脳外科医である主人公は、これまでにも救えない命を幾つも見て来た筈だが、その人たちに投げ掛けるのにこれほど酷な言葉もないだろう。さらにいえば、この違いこそ、原作者と脚本家のスタンスの違いだということができる。
では先週放送された初回の内容から見ていこう。この回に詰め込まれたエピソードは三つ。
・橘栄は重い脚気にかかっており、仁は道名津を開発して脚気を治す。
・龍馬の依頼で佐久間象山の命を救いに京都へ行く。
・蛤御門の変で焼け出された人々を治療中、新選組に拉致され、西郷隆盛の虫垂炎を手術する。
これらのエピソードは原作にも無論あり大きくは変わらない。もっとも漫画ではこのあと京都で仁は猫の手術をしたり、沖田総司が人知れず猫の車椅子を作ったり、龍馬と仁とお龍が祇園に遊びに行ったりという場面があり、血なまぐさい仁の京都出張に一服の清涼剤のような爽快感を与えている。西郷の手術のせいでペニシリンが足りなくなり、民衆を火傷から救えなかったドラマ版とは随分後味が違っている。
そもそも龍馬に象山救命の依頼を受けた時点で、ドラマの仁は栄の容態を理由に「2、3日考えさせてくれ」と間抜けなことを言っている。危篤な患者に間に合う筈がない。真意は、歴史を変えることを未だ恐れている(江戸に来てもう2年も経つのに!)ためで、咲に「命を救わないのは医者として違うのではないか」と説得される。もうこの時点で私などは、仁は医者としてダメだな、と思う。
漫画ではすぐに出発し、ペニシリンは蒸気船の中で製造、大阪港から和紙に定着させ運ぶのだが、ドラマでは仁友堂で和紙に定着している。これで京都へ着くのはさらに遅くなるのだが、あとでペニシリンを足らなくするために漫画と違えたのだと容易に推測できる。
象山が幼少時にタイムスリップしていたのは原作通りだが、火事によって死ぬのは違う。漫画では静かに息を引き取っている。これも視聴者の感動を煽るためだろうが、せっかく助けた命を、器具を優先して火事で死なせるのはやはりないと思う。
このあと、原作にはない龍馬と久坂玄瑞の切腹の件があって、西郷との対面シーン。
虫垂炎で開腹手術をしなければ助からないという仁は、長州の暗殺者ではないかとまで言われ、一旦は帰ろうとする。が、象山に言われた「救え!」という言葉を思い出しこんなことを言う。
「ここであなたを見捨てたらあなたがたと同じ命を差別する者になってしまう。だからあなたを助けさせてくれ」
妙な理屈である。まるで薩摩藩が悪者と言わんばかりだ。まあドラマの仁が歴史に疎いのは仕方ないとしても、果たしてこんなことを言われた患者が、「はいそうですか」と命を預ける気になるだろうか?
原作では病状を説明し、その上で手術をするか否かは西郷の判断に任せている。いわゆるインフォームド・コンセントだ。現代の脳外科医としては当然のことだろう。
ここで「仁」のタイトルに言及しておきたい。
主人公の名前であるのは無論だが、「医は仁術」という言葉に由来するのは言うまでもない。
確かに主人公は、江戸時代から見れば驚くべき医療の知識と神のような手技で人々に驚きを与え、尊敬を集めていく。だが仮に、あなたの前に驚くべき技で治療を施す医者がいても、彼の性格が傲慢で人間的に未熟な人間だったら、そんな者に命を預ける気になるだろうか?
咲や野風や勝や龍馬や新門辰五郎や緒方洪庵が、仁に全幅の信頼を寄せているのは、単に彼の知識や技量が優れているからではなくて、富や名声など顧みず、時には自らの命さえ投げ出す覚悟で目の前の命を救おうとする、その心に打たれたからだ。
ドラマの仁にはそれが感じられない。未だにうじうじと悩み、相手のことを思いやらず、自分の都合ばかり考えている。未来という現代の恋人を救うため野風を見殺しにする仁では、周囲の人間の尊敬や信頼を集めることはできない。
ドラマでは栄を説得するのは喜市だが、人生経験豊富な栄が年端もいかない子供に「生きてなきゃ笑えないんです」と言われたぐらいで自殺を思いとどまるだろうか。
漫画では栄を説得するのは仁である。栄に自分の母親の姿を重ね合わせ、ぼうだの涙を流しながら安道名津を頬張り、「せめて美味しいものを食べながら死んでいくというのは如何でしょう」と提案する仁。その姿に、(わざわざ美しいパッケージまで添えて)菓子を作って来た仁に、栄はやっとかたくなな心を動かすのだ。
自分を治療しようとしない患者の前には、如何なる薬も手術も無力である。まさに「心」しかない。ドラマでは子供を出して感動させようと試みているが、ある意味仁は心の治療を放棄しているかに見える。そのため敢えて順番を替えて京都に行かせ、江戸を留守にさせたのかもしれない。
仁の治療の精神はその後の話でさらに昇華してゆく。
自分を二度も殺そうとした牢名主の心臓が止まった時も、「この男を助けるのか」と自問しながら見殺しにはできず、助けてしまう。
お初ちゃんという女の子の手術では、彼女を救うと歴史が変わって自分の存在そのものが消えてしまう。にもかかわらず仁は手術をやめない。たとえ自分がこの世から消えることになっても、助かってほしいと祈るのだ。まさに究極の「仁の心」ではないか?
ここで敢えてドラマの制作者に助け船を出すとすれば、悩んで未熟で不完全な主人公の方が、視聴者に親近感を呼び起こすことは確かである。もしも原作通りにドラマ化したら……。いいドラマにはなるけれども視聴率は伸びず、これほど人気を呼ぶことはなかっただろう。かつて名作と呼ばれたドラマの視聴率が如何に低いかは歴史が証明している。
最後に、村上もとかの漫画が他の凡百の漫画と何が違うのかを論じたい。
絵の緻密さ、綿密な取材、ストーリーの面白さ――それだけでも無論十分凄いことなのだが、一番私が訴えたいのは、志(こころざし)があるという点だ。
村上もとかの視点は、常に不当に人権を侵害されている弱者の方に向いている。本作でいえば、吉原で若くして梅毒などで死んでいった女郎たちの存在を知ったことが執筆の動機になっている。
「GANTZ」が如何に豊富なイマジネーションと緻密な絵で面白いストーリーを展開しようとも、この漫画には志はない。他のあらゆる漫画を見ても、高い志を持って描いている作家は数えるほどしかない。
無論志だけでは駄目で、エンターテイメント、すなわち娯楽として成立している必要があり、そこが村上もとか作品のある意味奇跡的なところだ。このことは無論「RON‐龍‐」にも共通している。
なお、一部に小説「大江戸神仙伝」とのプロットの類似が指摘されているが、江戸の素晴らしさを書いたその作者と、江戸の美しさ・素晴らしさを十分な画力で伝えながらも、なおその裏面の不合理をテーマとした村上もとかでは、そのスタートの視点がまるで違う、ということをいっておけば十分であろう。
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