エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

一行三昧

2014-08-30 06:54:32 | エリクソンの発達臨床心理


アインシュタインの創造主 : 遊びとイメージ

2013-08-30 02:00:55 | エリクソンの発達臨床心理

  「夢のスクリーン」、いかがでしたでしょうか?夢も集団のヴィジョンの影響を受けやすいけれども、たほう、患者のヴィジョンは、集団のヴィジョンを超越する新しい人間を示すヴィジョンたりうることに、ハッとさせられる思いです。

  さて、今日からは、第三章 「『共に見る』ヴィジョン」 第3節 「アインシュタインのパズル」に入ります。


 仏教に「三昧」という言葉がありますね。サンスクリット語のSamādhiの音写、すなわち、音を漢字に当てはめた言葉だそうですね。

 サンスクリット語のSamādhiは、「集中する」ことを意味するようです。インドで行われていた瞑想で、精神集中が深まっている状態を示す言葉であるようです。仏教やヒンドゥー教、あるいは、ヨーガでも用いられる言葉でもあるようですね。

 その三昧を用いた言葉に、今日のタイトルでお示しした「一行三昧」があります。もともとの仏教的な意味は、「90日間、全身全霊で只管打坐、座禅に集中すること」だと言います。そして、「これは私がやっている『約束に基づいた遊び』セラピーとも共通するなぁ」と感じました。「約束に基づいた遊び」セラピーも90日してもらっているからです。したがって、「約束に基づいた遊び」セラピーは、仏教的でもある、ということですね。

 ところが、お母さんの中には、次の次くらいまで段取りが決まった状態で「絵本の読み聞かせ」をする場合があるんですね。それが「能率的」なことかもしれません。しかし、それは文字通り、心を失っている状態「忙」そのものです。

 こういう場合は、「○○さん、次の段取りに気持ちが言っていると、『眼の前の子どもさんよりも、次の段取りの方が大事だ』と子どもさんにメッセージすることになりますけれども、それでもいいんですか?」と問うことにしています。さらに、「全身全霊で、絵本の読み聞かせをすると、眼の前の子どもに対して、『大事です』とメッセージすることができます」とも伝えます。

 「絵本の読み聞かせ」セラピー、それは只管打座と同じような全身全霊の心的態度「一行三昧」が、何よりも大事ですね。

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一元論で生きましょう

2014-08-29 12:06:01 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 矛盾律の一元論、実は「人間皆兄弟」、「みんな違ってねみんないい」にも繋がります。

 p71の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 矛盾律には、神の概念に関する意味があります。神が究極的な現実を示す限り、そして、人の心が否定の中で現実を受け止めている限りは、神様のことを肯定的に申し上げることはありません。ベーダーンタ学派の中には、全知全能の神という考えが、無知の究極的な形であるとみなされてきました。ここで私どもが気付かされるのは、この二つの無名性の関係です。この二つと言うのは、モーセに姿を示した神様に、お名前がなかったことと、マイスター・エックハルトの言う「絶対的無」です。人が知りうるのは、否定性だけですから、究極的な現実の肯定的部分を知ることはできません。

 

 

 

 

 途中ですが、今日はここまで。

 人は否定的側面しか知ることができないのは、不思議ですね。どうしたら、肯定的な側面を知ることができるのでしようか?

 

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≪私≫は、大事な母なる≪他者≫が繰り返し継続的に世話してくれるから生まれるのです。第六弾 

2014-08-29 11:04:27 | アイデンティティの根源

 

 もうすでにお判りでしょうね。ここでもエリクソンとフロムはシンクロナイズドしているんですね。エリクソンはが「日常生活の中の礼拝」を大事にしますよね。それは≪私≫の発達に不可欠ですからね。かたや、フロムも日常生活と宗教生活が不可分に結びついています。2人はなぜこうまで、日常生活に宗教性を取り戻そうとするのでしょうか?

 p340下から11行目途中から。

 

 

 

 

 

 しかし、キリストでさえ、この時点では、ユダヤの日常生活にある「現象」には触れていません。その「現象」とは、≪神様のように、手応えのある生き方≫という支配的な男らしさを信条として強調することをよしとしないし、補いもしません。いかにして、「ユダヤの母」が、毎日の暮らしで、毎週の暮らしで、パレスチナで、民族四散を通して、合点のいく、非常に現実的な女神としての役割を果たし続けたか、それをハッキリとさせるには、詳細な文化史が必要でしょう。その詳細な文化史は、旧約聖書に出てくる、いくつかの特別な章を、基盤にするものでしょうけれども、それはユダヤの歴史に中で、一番一貫している傾向を1つを示すものでもあるでしょう。キリスト教神学においては、キリストの受難と対になること、すなわち、キリストの誕生に栄光があります。私どもの文脈では、母なるものの特別な性質は、バランスの取れた歴史解釈にとっては、他に選択肢のないものです。と申しますのも、≪私≫という感じのまさに根源は、赤ちゃんが、大事な母なる≪他者≫とのやり取りに源があるからですし、この母なる≪他者≫から繰り返し、継続的に世話をされ続けるものなのだからですね。

 

 

 

 

 

 ここも、実に大事な部分です。≪私≫は一人では生まれない。≪私≫が生まれるのは、大事な母なる≪他者≫がやり取りとし続けてくれるからですし、この大事な母なる≪他者≫が繰り返し、継続的に世話を焼いてくれるからなのですね。

 そう言う日々の具体的なやり取りが何よりも必要なんですよね。友愛は母よ!

 

 

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≪全身全霊の約束≫

2014-08-29 07:41:54 | エリクソンの発達臨床心理

 


十分に分析された人間?

2013-08-29 03:34:24 | エリクソンの発達臨床心理

 

 患者は、人類全体がいっそう自由に、いっそう人間らしい暮らしを実現するために、そういったヴィジョンに私どもを誘うために、身代わりに苦難を担当してくださっている、という視点は重要ではないでしょうか?


 

 「絵本の読み聞かせ」セラピー。私は良く使う方法なんですね。しかも、これは外れたことがない方法です。

 「絵本の読み聞かせ」セラピーは、「約束に基づいた遊び」セラピーの一つです。「約束に基づいた遊び」セラピーも、外れたことがないセラピーです。

 なぜ、「約束に基づいた遊び」セラピーに外れがないのでしょうか? 心理療法は、エリクソンがそうであるように、空前絶後の自分、すなわち、≪私≫を自ら育てる過程です。

 じゃぁ、その≪私≫はどのように発達するのか?

 それは、エリクソンのライフ・サイクル・モデルをご参照してください、ということになるのかもしれませんが、私なりにそれをまとめておきたいと思います。

 ≪私≫の核心には、必ず≪全身全霊の約束≫がある、ということです。≪全身全霊の約束≫は、全身全霊だからこそ、決して破られることのない約束です。考えてみていただきたいのですが、約束を誠心誠意守っている相手は、心から信頼できますよね。あるいは、自分が約束を誠心誠意守っていれば、先様は自分を信頼してくださることでしょう。そして、赤ちゃんの時の発達危機は、その「信頼」(根源的信頼感)をめぐるものでしたね。

 そして、①イメージ、②話し言葉、③出来事の三点セットの組み合わせ、結びつき。

 ≪全身全霊の約束≫は、この三点セットを細心の注意を払って、大胆に結び付けるものですね。イメージをできる限り誠実に話し言葉にし、いったん話し言葉にした以上は、「言ってること」と「遣ってること」を一致させようとするのです。そして、毎日の生活が、その≪全身全霊の約束≫を守り合うことが、エリクソンが言う「日常生活の礼拝(the ritualization of daily life)」になるのですね。

 ですから、≪私≫は、「神が死んだ」現代でも、神様が私どもに下さるような約束、すなわち、≪全身全霊の約束≫に、徹頭徹尾、貫かれているんです。それは、修道院か、お寺の修行のようですが、今という時代は、この≪全身全霊の約束≫はを、特定の宗教施設の中で行うのではなくって、自宅や職場やご近所でやるのですね。

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2つは1つ

2014-08-28 12:56:58 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 バラモン教にまで話が及んでいます。

 p70の下から7行目の途中から。

 

 

 

 

 

宇宙の中や、人の中にある究極的な力は、概念的側面も、感覚的側面も、≪超越≫します。したがって、それは「あーでもなければ、こーでもない」んですね。しかし、ジマーが言うように、「厳密に二元論に分けない理解においては、『本物とそうでないもの』の間の敵対心が全くなくなります」。多様性の背後にある連帯を求める際に、バラモン教哲学者は、いつくかの対をなす対立は、ものの性質を示すというよりも、受け止めた心の性質を反映する、との結論に達します。受け止めた考えは、変化しなくちゃなりませんが、それは、その考えが真の現実を捉えようとする場合です。敵対しているのは、人の心にある概念であって、現実の要素そのものが敵対しているわけではありません。リグ・ベーダの中に、その原理は次のように記されています。「私は2つ、生きる力と人生の素材と、同時に2つです」。二律背反としてしか受け止めきれない、この考えの究極的結論は、リグ・ベーダの哲学の中に、猛烈な力のある流れを作ってきたことが分かります。この哲学が前提とするのは、思想とは、きれいな定義があっても、「無知の、非常にハッキリしない水平線でしかありませんし、実際マヤの人々が考えた人を欺く仕掛けの中で、一番ハッキリしないものなんですね」。

 

 

 

 

 ヴェーダ哲学の「一元論」を展開している部分のようにですね。2つに分けて考えるのは、心が分裂しているからだとする見方は、心理の見方と完全に一致していることを、ここでは申し上げておきたいと思います。

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