エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ヴィジョンの様々な可能性 開かれた心

2013-08-11 04:17:53 | エリクソンの発達臨床心理

 

 赤ちゃんとお母さんが、2人共に宇宙の中心で、2人がやり取りをしていけば、相手が「宇宙の中心」であることをお互いに認め合える関係ができます。これが、2つの中心を持つ、楕円形の儀式化です。 それに対して、あのバカ・でっかい電力会社や「指導者達」の自己中心は、普通非難の対象となる「自己中心(省略形で自己中」と呼ばれる場合もあります)」です。なぜなら、彼らの「自己中心」は、市民とのやり取りは乏しく(「ない」と言った方が真実に近いと思います)、市民に対して一方的に自分たちの「自己中心」を押し付けてくるからです。その自己中心の押し付けの典型が、あの大災害ですし、その災害に対して誠実に対処していないことですし、その事実を隠ぺいし続けていることです。このように厚顔無恥に自分の自己中心を市民(国民)に押し付けられる心理的背景はいったいどういうものでしょうか?

 それは、彼らが「人間を上下2つに分けるウソ」を信じて、自分たちを「上」と位置づけ、市民(国民)を「下」と見下しているからです。これは、許しがたい自己中心なのです。これは、誤れる自己中心誤れるオリエンテーションと言うべきです。これはまずい母子関係とまったくおんなじ構造です。

 

 

 

 しかしながら、世界の全体的な見通し(この[ヴァン・ボルジッヒの]小さな絵は、前途有望な初めしか、描いていません)を網羅するためには、また、「普通の」積み木遊びで認められる、あらゆる次元を想像するためには、どんなアトリエ、どんな教会、どんな美術館であれ、その壁に掲げてある1枚の「受胎告知」の絵の周辺にある、他の絵も何枚か考慮に入れなくてはなりません。ある絵は、その子どもを成人した「神の子」として描くかもしれません。その場合、彼は片手を高く上げて、祝福を人に与える格好をしているかもしれません。別の絵では、彼は最後の叫びをあげて、両手は十字架に釘づけにされた、ゴルゴダの恐ろしい夜を描いているかもしれません。さらに、ある絵では、「神の子」は、救われた者と選びに与った者とを、慈愛に満ちて天国に迎えているかもしれませんし、また別の絵では、地獄に落ちる運命の者を、何の躊躇もなく見捨てているかもしれません。さらに別の絵では、王冠を戴いた頭を描いているかもしれません。その王冠を戴いた人は、厳かな光を帯びて、歴史を通して、聖別された大工の子を表しています。また、そのほかの絵では、私どもは、目の前に1つの戦場が広がっているのが見えるかもしれませんね。この戦場は「錦の御旗の下で(この御印の下) in hoc singo」聖別されているけれども、倒れた異教徒たちが、怪我と死の苦悶にあえぐなか、うずたかく積み上げられています。

 

 

 

 

 「神の子」1人描く場合でも、様々な可能性があるようですね。世界に対する展望と、積み木遊びで子どもが描く展望も、同様に様々な可能性に開かれているのでしょう。ですから、子どもが積み木遊びに、無意識に投影した展望を、私どもが読み取る際には、私どもも様々な可能性にひらかれていなければなりません開かれた心が大事です。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 世界の中心に意識がある。そ... | トップ | 「生きている不思議 死んで... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿