赤ちゃんとお母さんが、2人共に宇宙の中心で、2人がやり取りをしていけば、相手が「宇宙の中心」であることをお互いに認め合える関係ができます。これが、2つの中心を持つ、楕円形の儀式化です。 それに対して、あのバカ・でっかい電力会社や「指導者達」の自己中心は、普通非難の対象となる「自己中心(省略形で「自己中」と呼ばれる場合もあります)」です。なぜなら、彼らの「自己中心」は、市民とのやり取りは乏しく(「ない」と言った方が真実に近いと思います)、市民に対して一方的に自分たちの「自己中心」を押し付けてくるからです。その自己中心の押し付けの典型が、あの大災害ですし、その災害に対して誠実に対処していないことですし、その事実を隠ぺいし続けていることです。このように厚顔無恥に自分の自己中心を市民(国民)に押し付けられる心理的背景はいったいどういうものでしょうか?
それは、彼らが、「人間を上下2つに分けるウソ」を信じて、自分たちを「上」と位置づけ、市民(国民)を「下」と見下しているからです。これは、許しがたい自己中心なのです。これは、誤れる自己中心と誤れるオリエンテーションと言うべきです。これはまずい母子関係とまったくおんなじ構造です。
しかしながら、世界の全体的な見通し(この[ヴァン・ボルジッヒの]小さな絵は、前途有望な初めしか、描いていません)を網羅するためには、また、「普通の」積み木遊びで認められる、あらゆる次元を想像するためには、どんなアトリエ、どんな教会、どんな美術館であれ、その壁に掲げてある1枚の「受胎告知」の絵の周辺にある、他の絵も何枚か考慮に入れなくてはなりません。ある絵は、その子どもを成人した「神の子」として描くかもしれません。その場合、彼は片手を高く上げて、祝福を人に与える格好をしているかもしれません。別の絵では、彼は最後の叫びをあげて、両手は十字架に釘づけにされた、ゴルゴダの恐ろしい夜を描いているかもしれません。さらに、ある絵では、「神の子」は、救われた者と選びに与った者とを、慈愛に満ちて天国に迎えているかもしれませんし、また別の絵では、地獄に落ちる運命の者を、何の躊躇もなく見捨てているかもしれません。さらに別の絵では、王冠を戴いた頭を描いているかもしれません。その王冠を戴いた人は、厳かな光を帯びて、歴史を通して、聖別された大工の子を表しています。また、そのほかの絵では、私どもは、目の前に1つの戦場が広がっているのが見えるかもしれませんね。この戦場は「錦の御旗の下で(この御印の下) in hoc singo」聖別されているけれども、倒れた異教徒たちが、怪我と死の苦悶にあえぐなか、うずたかく積み上げられています。
「神の子」1人描く場合でも、様々な可能性があるようですね。世界に対する展望と、積み木遊びで子どもが描く展望も、同様に様々な可能性に開かれているのでしょう。ですから、子どもが積み木遊びに、無意識に投影した展望を、私どもが読み取る際には、私どもも様々な可能性にひらかれていなければなりません。開かれた心が大事です。
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