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忙中閑話

四季の移ろい、花鳥風月を楽しみつつ
趣味はミニチュア木工、電子工作、旅行など

国宝・三重塔めぐり (常楽寺:滋賀県湖南市)

2018-09-26 | 旅行
国宝に指定されている三重塔は全国で13基ある。
 
連れ合いの趣味のひとつが寺社めぐりであり、これまで多くの名刹古刹の参詣に付き合った。そうして付き合っているうちにこれまでに国宝13基のうち11基を訪れている。
残りは滋賀県湖南市にある常楽寺と兵庫県加西市の一乗寺の2基。
 
そして今回訪れたのは滋賀県湖南市の常楽寺。国道1号線から5kmほど外れた山のふもとに
あるためこの国道を何度か行き来したことはあるが、拝観時間が合わないなどでこれまで行き
そびれていた。
 
今回、名古屋を昼前に発ち京都どまりの予定なので思い切って立ち寄ってみることにした。

道の駅”関宿”で遅い昼食に念願の伊勢うどんを摂りながらネットで調べてみると
「拝観は事前予約が必要」とある。当日ではダメなのかとなかば諦めながら電話で確認
してみると、午後三時半までに入山すれば参観可能との返事。
事前予約が必要なのは 「三山の住職を兼務していて常駐していない」ためとのことだった。

関宿から車を走らせること約1時間。十分時間があると思ったのだが、意外と距離があるのと
国道からの脇道に予想以上に時間がかかったため残り約10分というぎりぎりの到着となった。

山門はなく、大型駐車場から小川を渡るとすぐに受付がある。舗装はしてないがバスが何台
も駐車できるほどの駐車場なので行楽シーズンには参観者で溢れるのであろうと予想される。
 
【三重塔】
三重塔は高低差10mほどの石段を登った先にあった。
 

 
【本堂】
 常楽寺は三重塔のほか、本堂も国宝に指定されている。
本堂には高さが5,60cmほどの小ぶりの28部衆の立像が27体納められており、これが
三重塔以上に見応えがあった。また千手観音坐像(筆者のお守り本尊)、釈迦如来像も
なかなかいい。(残念ながら、当然ではあるが写真撮影不可)
 
ちなみに28部衆のうち1体が掛けているのは、かなり前に2体が盗難に遭い、1体はその後
戻ったもののもう一体がまだ見つかっていないとのこと。国外にでも流出したのであろうか。
非常に残念である。
 
cf.国宝の三重塔リスト
 法起寺三重塔(奈良県斑鳩町): 飛鳥時代。高さ約24m。現存最古。
 薬師寺東塔(奈良県奈良市): 奈良時代。高さ約34m。一見すると六重塔に見える。
 当麻寺東塔(奈良県葛城市): 奈良時代
 当麻寺西塔(奈良県葛城市): 平安時代
 浄瑠璃寺三重塔(京都府木津川市): 平安時代
 一乗寺三重塔(兵庫県加西市): 平安時代、和様建築の三重塔
 安楽寺八角三重塔(長野県上田市): 鎌倉時代
 大法寺三重塔(長野県青木村): 鎌倉時代
 明通寺三重塔(福井県小浜市): 鎌倉時代
 西明寺三重塔(滋賀県甲良町): 鎌倉時代
 興福寺三重塔(奈良県奈良市): 鎌倉時代、高さ18.4m。
 常楽寺三重塔(滋賀県湖南市): 室町時代
 向上寺三重塔(広島県尾道市): 室町時代

面倒な充電アダプターの配線を纏めてみた

2015-05-14 | 旅行

 旅に出ると旅先のホテルで毎晩携帯機器に充電しなくてはならない。

携帯電話、モバイルルーターにタブレット、そしてデジカメ、ビデオカメラ。それぞれに充電
アダプターが付属していて、そのままコンセントに差し込むタイプもあれば電源コード付きの
タイプのものもある。

この度ほぼ2週間の長旅に出て、毎日これらの配線、解線を繰り返してきたら少々面倒に
なってきた。ただでさえ狭いテーブルが配線だらけで一杯になるうえ、解線してバラバラに
したコードやアダプターの収納も面倒である。

そこでこれらを一つにまとめてみてることにした。
左から、モバイルルーター、携帯、デジカメ(電池パック充電器)、ビデオカメラ用。

材料は安上がりにウーロン茶のペットボトルの空き箱。見栄えはあまり良くないが人に見
せるものでもないので良しとしよう。

電源コードをテーブルタップに差し込み、箱から伸ばしたUSB充電コードをそれぞれの機器に
接続すればいい。箱を閉じたまま充電できるので省スペースにもなる。

アダプターが熱を持つこともないので近接させても大丈夫と見たが、熱がこもるようであれば
蓋を開けて使うことにする。

ちなみにタブレットは枕元で使うため別にした。


東北 ぶらり 車旅 (1)

2015-05-04 | 旅行

 先月20日から一昨日(5/2)までの約2週間、家人とふたり、東北ぶらり旅をした。
主な目的は青森・弘前城の桜見物である。

 一昨年の春に車で福島県三春町の滝桜を訪ね、満開の枝垂れ桜を堪能した。
さらに車を北に向け、岩手・平泉の中尊寺、そして更に盛岡の石割桜、秋田・角館の桜を
観ようと車を走らせたものの、いずれも蕾の状態であった。当初、弘前城の桜も見たいと
思っていたが、さらに北になる弘前は桜は望むべくもなく、角館でUターンして帰った経緯が
ある。改めて東北は南北に長くということを実感した次第」。

 また昨年は例によって地区の自治会長の役を急遽引き受ける羽目になり、長期に留守に
することがかなわなかったので今年は満を持しての再挑戦である。

今回の行程は次の通り。(緑の太字は立ち寄った場所)
4/20    山陽道~播但連絡道~北陸道(小矢部SA)
〃 21    北陸道(小矢部~朝日まほろば)~象潟(きさかた)鶴岡城桜
          ~酒田・鐙屋(北前船廻船問屋)~秋田
〃 22    秋田~角館八郎潟干拓地弘前城(ライトアップ)~弘前
〃 23    弘前城長勝寺太宰治・斜陽館(五所川原)三台丸山遺跡(青森)~八戸
〃 24    八戸朝市蕪島(ウミネコ繁殖地)櫛引八幡宮(南部藩の総鎮守)
           
石川啄木記念館(盛岡・渋民)石割桜、盛岡城跡~一関
〃 25    一関~東北道~瑞厳寺、松島多賀城~仙台
〃 26    仙台~青葉城(仙台城)ニッカウイスキー仙台工場立石寺山形城跡~米沢
〃 27    米沢~米沢城跡飯盛山、鶴ヶ城(会津若松)大内宿~宇都宮
〃 28    宇都宮~日光東照宮、華厳の滝~松本
〃 29    松本~松本城大王わさび農場(安曇野)白馬~糸魚川~金沢
〃 30    金沢駅(北陸新幹線)~永平寺~京都
5/1     京都・佛光寺
寺町通り電気街~岡山
〃 2     岡山~自宅

総走破距離は3801.4kmにもなった。

車の旅は列車などの公共交通と違い予約や乗継の心配がないので自由な旅が楽しめる。
概略の行路は頭に描いてはいたものの翌日の計画を宿泊先のホテルで決めて次の宿泊先を
予約するといった按配の全くのぶらり旅である。

7日目のニッカウィスキー工場見学はこの旅の典型といえる。仙台から立石寺へ向かうR48
号線(作並街道というらしい)の途中で入口の看板が目に入り急遽予定を変更して立ち寄った。
ニッカウィスキーといえばNHK朝ドラ「マッサン」で脚光を浴びた。ドラマは仙台工場建設以前で
幕が降りて仙台工場は登場しなかったが、マッサンの養子である威氏が陣頭指揮して建設
したという予備知識は持っていた。赤煉瓦の建物群やホットスチルなどの製造設備はドラマの
余市工場を彷彿させてくれて全くの余得であった。

タイムスケジュールできちんと組み込んだ旅もいいが性格的にあまり好きではない。心残りの
ない、ほどほどのところで適当に切り上げる、これがぶらり旅のいいところである。

今回はGW直前ということで宿は比較的空いていて宿泊費も手頃であった。また道路の方も最終日に岡山、広島で若干の渋滞に巻き込まれたがそれ以外はスムーズであった。

有難いことに天気の方は約2週間雨一つ降らず快晴であったこと、初日の移動日が全国的に
土砂降りであっただけにこれは感謝しなくては居られない。

当たり前のことだが、道は全国つながっている、そしてまた道は同じであることを実感した
旅であった。利用頻度がそれほど高くないと思える山間部の道路も立派に整備されていた。

余談だが、各地で道路工事に出くわした。また立派なバイパス道路も広がっている。北陸の
黒部、入善ではgoogleマップにさえ載っていないバイパス道路を走っていて驚いた。自車の
カーナビは'05年製のDVD方式であり地図は’00年前後のものだから軌跡は時折住宅の
上や空中を飛ぶことがある。東北地方はこの10数年間で道路整備が進んだらしくこの”空中
散歩”に度々出くわした。だがgoogleマップでは初めての経験である。
(入善黒部バイパスの南半分が3/1に開通。google改訂が遅れているらしい)
安倍政権は”アベノミクス”を盛んに喧宣しているが、実態はこういった道路補修工事、建設
工事ではないかと思えて仕方がない。こういった財源は復興税だの赤字国債であるはずな
のだ。余談である。”ぶらり旅”にとってはこのテーマは全く無粋であった。


今回の旅で撮った写真や動画の数が半端でない。多過ぎて整理がまだつかないので今回は写真抜きで、写真は整理がつき次第次回以降に順次紹介したい。

 

 


木曽御嶽山噴火

2014-09-30 | 旅行
 昨日あった木曽御嶽山の突然の噴火のニュースは本当に驚いた。

毎年5月になると車で信州へ出かける。その時行きまたは帰りのどちらかで
木曽路を通ることにしている。たとえば行きが伊那谷なら帰りは木曽路。
逆に行きが木曽路なら帰りは伊那谷。

木曽の御嶽山は名古屋方面から向かうと木曽で最初に迎えてくれるアルプスの
山である。また清酒「中乗りさん」の看板が目立つようになる。あの「木曽節」
に「木曽のなぁ中乗りさん、木曽の御嶽山はなんじゃらほい」と歌われるあの
「中乗りさん」から名前を取ったのにちがいない。

余談だが最近まで「中乗りさん」とは「御嶽山」のことだとばかり思っていた。
「なかのりさん」が「中乗りさん」で、そのむかし山で伐採した檜材を木曽川に
流し筏(いかだ)に組んで下流まで運んだ時の筏師のことで、長い筏の中央に
乗る人を「中乗りさん」と呼ぶということを最近になって知った。


今年5月の信州ドライブでは帰りに「道の駅・木曽福島」に立ち寄ったが、残念
ながら山全体が雲に隠れて見えなかった。


ニュースによるとまだ頂上付近に30人以上もの被災者が「心肺停止(つまり死亡)」
のまま回収できずに火山灰にうもれたままになっているという。もう既に2日以上
経過している。有毒ガスである硫化水素の濃度が高くまた再爆発の可能性があること
ことから回収が進まないらしい。

悲惨というより外はない。

日曜でなかったら…、正午ちかくでなかったら…、雨だったら…、あるいは雪に
閉ざされた冬だったらこれほど多数の被害者は出なかっただろうにと悔やまれる。

また奇跡的に助かった人の中には、負傷した友人や家族、恋人を已むなく置いたまま
避難した人もいる。自分の事だけで精一杯でとても救護どころではなかっただろう。
部外者からみれば「仕方ない」と言って慰めることができるが自分一人助かったこと
を深く悔やんで「心の傷」にならなければいいがと願う。

今日(書いている途中で日付が変わり昨日になった)の夕方のニュース番組で
被災者の1人がスタジオ出演していた。山頂直下で被災したものの、無事下山でき
ライトバンで避難している途中でインタビューを受けていた人だ。

まだ山頂に被災者が放置されたままにいるのになんと無神経な人だと思っていたら
最後に「一人で逃げて来て申し訳ない」といった意味の詫びがあって救われた気がした。

やはり山を愛する人なのだろう。

それにしても火山学、地震学の権威、火山噴火予知連絡会委員の何と無力なことか。
火山学、地震学から「学」の字を取るべきだろう。はっきりいって学問とは言えない。
光学顕微鏡、電子顕微鏡が出現することにより細菌やウイルスの存在が認められ
その結果医学が格段に進歩したようにやはり見えないということが最大のネックなの
ではないだろうか。

※後注
木曽節の歌詞は「なんじゃらほい」でなく正しくは「なんちゃらほい」だそうです。
長い間間違って思い込んでいました。

白馬・青鬼(あおに)の”カミツキガメ”

2014-06-05 | 旅行
 今年も先週23~25日にかけて信州へ行って来た。
遠くには頂に雪を被ったアルプスの山々、眼下の里は新緑の若葉という組み合わせが
何ともいえず毎年この時期に飽きもせず訪れ続けており、かれこれもう10年以上にも
なる。

本当のところは、桜、桃、コブシの花など平地では開花時期が異なる樹木が一斉に咲き乱れる5月の連休あたりが最高ではある。宿の空き具合などの都合で去年あたりから
少しずらすようにしたのである。

毎年、雄大な景色を眺めながらのんびりした時間を楽しんでいるのだが今年は白馬にある青鬼
(あおに)集落で嫌な経験をしたため旅の思い出が台無しになった。

青鬼集落は白馬駅から車で20分くらいの所にあって、姫川から100m位登った
高台にある戸数20軒ほどの集落である。昔は戸隠から白馬に抜ける街道筋だったと
いう。正面の谷間に白馬連峰が広がり、最近隠れた観光名所になって訪れる人が増え
ているようである。

観光客が増えて、田の畦に勝手に入り込んで土手を荒らすのだろう。今年はとうとう
観光客が入り込みそうな場所の入口が木の柵やスキーのストックに釣り糸のテグスを
張ったものでブロックされていた。

【マナーを守った観光客】



【青鬼からの白馬連峰の眺め】


上の写真をカメラに収めたあと、坂道を集落の方へ下って行く途中で事件が起こった。

写真に写る棚田の先端の田圃(水を張っていない)はちょうど岬のように突き出して
いて両側は石垣になっている。
石垣の上部が先の方までコンクリで平に固められていて、石垣が始まるところから2m
位行った先に木の柵がしてあった。
(拡大するとこれ)


木の柵には「この先立ち入り禁止」と書いた板が打ちつけられていた。普通、「この
先…」とあればそこまでは大丈夫と理解する。ましてやコンクリであり土手を荒らすこ
ともない。田圃ののり面である土手はこのコンクリとは別にある。
と、深く考えもせずに柵のところまで行って引き返したところで坂道の下から上がって
来た住民と思しき若者に激しく叱責された。多分昼の休憩を家で過ごし田仕事に戻って
来たのだろう。

ただ注意をするといったものでなくいきなり激しい剣幕でかみついてきた。
畦に立ち入らないようにとの注意書きがあっただろう。見てないのか。といった激しい
口調で始めから喧嘩腰なのである。

残念ながら当方は石垣の所の分岐を直に上って来たので石垣の反対側にあるという注意
書きは見ていない。

落ち着いて考えると、柵が入口から2m位先にしてあるというのは、石垣から上れ
ない高さのところなのだろうとは予想がつく。田圃の入口に柵をすると石垣を上って
入り込む不届き者がいるためなのだろう。それにしても「この先立ち入り禁止」の
表示は紛らわしい。


青鬼は景色が素晴らしく何度行っても心が洗われる想いがしていた。
数年前には年配のお婆さんと話を交わし、子供のころに麓の小学校まで長くそして
標高差がある道を毎日歩いて通っていたことなどを伺って心を癒されたこともある。
そしてまた、トラクターで代掻きをしていたところを白馬をバックにして写真に
収めさせてもらったこともあるがその時は全く嫌な顔をされることもなかった。

だが、今回の件で一度に熱が冷めた。観光客が増えるにつれ住民の心情も変わった
ようである。

数年前から集落の入口の駐車場には募金箱が設けられて協力金(\500)が集められる
ようになった。(管理人はおらずあくまで任意だが)


同じような風景なら、大出公園の眺望で済まそう。


さらに足を延ばすなら鬼無里(きなさ)から大出に抜ける峠道からの白馬の眺望が
これまたお勧めである。

国宝の五重塔巡り(完結編 …… 海龍王寺・奈良市)

2014-05-07 | 旅行
 書き始めて筆が止まりすでに2月も前になってしまった。先々月12日に奈良東大寺
の”お水取り”を見に早春の奈良を訪ねた。
その序に翌日、市内北部にある海龍王寺を訪ねた。ここには国宝の五重塔のなかで一つだけ見損なっていた五重塔がある。

 昨春に東北旅行で山形羽黒山の五重塔を見て以来、国宝の五重塔でまだ見ていないの
は、ここ海龍王寺の五重塔だけとなっていた。


 これまでたびたび奈良を訪れているにも拘らずまだ見ていなかったのは、海龍王寺の
五重塔が模型のような小塔であることもある。いつでも見ることができるといった思い
があった。

 宿泊した奈良ホテルから北へまっすぐに上り、東大寺前の転害門交差点で左折して
さらにまっすぐ行くと突き当りが海龍王寺である。方向音痴の筆者でも路に迷う事は
ない。

四、五台くらいの駐車スペースしかない狭い駐車場に車を停め土塀の間を抜けると
寺の入口がある。

 前述したように、海龍王寺の五重塔は高さ4mほどの小塔である。
国宝の五重塔小塔がもう一つ元興寺(がんごうじ)にもあるが、元興寺のものは全国
国分寺建立の際にモデルとして国司に配られたものらしく実物と同じく下の層から
忠実に組み立てられたものであるのに対し、海龍王寺のものは各層ごとに作られて
それを層ごとに組み上げたものらしい。

 そのためか地層の部分は柱だけとなっている。だが、屋根を支える組木は細部に
わたって丁寧に作られている。


五重塔


納堂


説明板



 なお、作家の堀辰雄が戦前、同じルートを徒歩で訪れていて「大和路」にその時の
模様を書いている。現代と比較すると面白い。

抜粋させて貰うと、
 
    午後、海竜王寺にて
 天平(てんぴょう)時代の遺物だという転害門(てがいもん)から、まず歩き出して、
法蓮(ほうれん)というちょっと古めかしいを過ぎ、僕はさもいい気もちそうに
佐保路(さおじ)に向い出した。
 此処、佐保山のほとりは、その昔、──ざっと千年もまえには、大伴(おおとも)
氏などが多く邸宅を構え、柳の並木なども植えられて、その下を往来するハイカラ
兄貴公子たちに心ちのいい樹蔭(こかげ)をつくっていたこともあったのだそうだ
けれど、──いまは見わたすかぎり茫々(ぼうぼう)とした田圃(たんぼ)で、その中
をまっ白い道が一直線に突っ切っているっきり。秋らしい日ぎしを、一ぱいに浴び
ながら西を向いて歩いていると、背なかが熱くなってきて苦しい位で、僕は小説
などをゆっくりと考えているどころではなかった。漸(ようや)っと法華寺(ほっけじ)
村に着いた。
 村の入口からちょっと右に外(はず)れると、そこに海竜王寺(かいりゅうおうじ)
という小さな廃寺がある。そこの古い四脚門(しきゃくもん)の蔭にはいって、思わ
ずほっとしながら、うしろをふりかえってみると、いま自分の歩いてきたあたりを
前景にして、大和平(やまとだいら)一帯が秋の収穫を前にしていかにもふさふさと
稲の穂波を打たせながち拡(ひろ)がっている。
僕はまぷしそうにそれへ目をやって
いたが、それからふと自分の立っている古い門のいまにも崩(くず)れて来そうなのに
気づき、ああ、この明るい温かな平野が廃都の跡なのかと、いまさらのように考え
出した。
 私はそれからその廃寺の八重(やえ)葎(むぐら)の茂った境内(けいだい)にはいっ
て往って、みるかげもなく荒れ果てた小さな西金堂(さいこんどう)(これも天平の
遺構だそうだ……)の中を、はずれかかった櫺子(れんじ)ごしにのぞいて、そこの
天平好みの化粧天井裏を見上げたり、半ば剥落(はくらく)した白壁の上に描きちら
されてある村の子供のらしい楽書(らくがき)を一つ一つ見たり、しまいには裏の
扉口からそっと室内に忍びこんで、磚(せん)のすき間から生えている葎までも何か
大事そうに踏まえて、こんどは反対に櫺子の中から明かるい土のうえにくっきりと
印せられている松の木の影に見入ったりしながら、そう、──もうかれこれ小一
時間ばかり、此処でこうやって過ごしている。女の来るのを待ちあぐねている古
(いにしえ)の貴公子のようにわれとわが身を描いたりしながら。……(以下略)

 昭和16年(1941年)だから70数年前の話である。当時は、海龍王寺は廃寺
で土塀を含め荒れ果てていたようだ。

また海龍王寺の門前一帯が見渡す限りの田圃であったとあるが、現在は住宅が立ち並
んでいて完全な市街地となっている。

堀辰雄は古の繁栄ぶりを、そして筆者は逆に戦前からの繁栄ぶりに思いを馳せた。

阿蘇へ

2013-07-19 | 旅行
 今夏もまた阿蘇へ行って来た。例年行くのは8月中旬頃にしているが
今年は梅雨明けが2週間も早く、家人が早くも暑さでバテ気味なので早めに
夏休みをとることにした。

都合のいいことに、この時期は学校の夏休みがまだ始まっていない。夏休み
期間中を外すと宿の予約も取りやすい。しかも料金も安い。

信州が好きでこちらの方も毎年のように行っているが、3000m級の山が
連なるアルプスは男性的で、阿蘇の方はなだらかな草原が広がっていて
女性的と言える。どちらも甲乙つけがたい。

またカルデラの中に何万人もの人々が暮らすというスケールの大きさに圧倒
され、子供たちがまだ小さい頃から夏、冬と大抵年2回訪れている。

その子供たちが進学のため家を離れて以来、殆ど家人との二人旅となってし
まった。


標高からいうと平地より5,6度は低いはずの阿蘇もやはり暑かったものの
今年は好天に恵まれ、いい休養になった。



外輪山の展望台(ミルクロード)からの眺望
眼下に内牧温泉、遠くに阿蘇5岳を望む。
阿蘇5岳は涅槃仏に例えられる。左から、仏頭にあたる根子岳、胸の部分
にあたる高岳、中岳、そして太腿の付け根にあたる杵島岳、烏帽子岳。


草千里と噴煙をあげる中岳
牧草地の中をくねるように抜ける登山道路を登る。




草千里展望台から米塚方面の眺望
杉林の先に米塚山頂が覗く。


中岳ロープウェー


根子岳(南面)



根子岳(北東面)
間近で見ると圧倒される。


高岳


阿蘇神社

三重塔巡り 重文編(3)  摠見(見)寺三重塔/安土城跡  再探訪

2013-06-10 | 旅行
 摠見寺(見寺:そうけんじ)は滋賀・近江八幡市の安土城跡にある。

 以前にも書いたが、特に五重塔や三重塔マニアというわけではなく、家人と
共にともに古刹・名刹巡りをやっているうちにいつしか多くの五重塔や三重塔、
や多宝塔を目にしてきていた。

ここ摠見寺もそういった訳で、安土城跡を訪ねて行ったら偶然そこにあったと
いう次第である。

しかしこの寺は、織田信長が安土城を築城する際に合わせて発心し創建した
という由緒ある寺である。織田信長は比叡山の焼き討ちで多数の僧侶たちを
殺戮したり、石山本願寺と長年対峙して仏教を目の敵にしてきており、城の
一廓に寺を創建したなぞということは俄かに信じがたいが、天下を平定した
あとの治世にはやはり宗教の利用が必要だったのだろう。
目の敵にしたのは仏教そのものではなく、僧兵を集めて武装化したり社領を
拡大したりして俗世化した仏門従事者だったのかもしれない。


いずれにしても、安土城は築城からわずか3年半後に勃発した本能寺の変に
より光秀軍の手勢に攻められて焼け落ちたものの、寺は延焼を逃れており
三重塔および仁王門は創建当時のものであるという。
因みに寺の本堂は江戸末期に焼損したため城郭の別の位置(大手道)に再建
されていて、現在は安土城跡全体が�絶見寺の所有地になっている由である。


●’05年 最初の探訪
安土城跡を最初に訪れたのは’05年のGWで信州に行った時である。
通常、安土城跡の見学は駐車場に車を置いて大手門口から登るのが常套だが
無料の青空駐車場を探して城山の麓の道を周回してみると、大手門口から
時計周りに50mくらい進んだところに登山口があり、安土城跡の案内板
も設置されており幸いなことに道路の端に車を留めるスペースもある。
そこでここから登城することにした。しかし、後ほど触れるが城跡探訪
という意味ではこれが失敗の元となった。

正面の大手門口に対して、ここは百々橋口(どどばし)という。
百々橋(ネットから引用:最近のもの)
 橋の突き当りが登り口、右手を回り込む大手門口へ行く

登山口(’05年のもの)
 石碑の前に説明板が設置されており、石段の前にはまだ標識がない。
 写真で判るように傾斜が45度もあろうかと思える急な石段が�絶見(見)寺三重塔まで続く。

説明板

百々橋が掛かる堀
 当時の城下町に当たる。有名な”楽市楽座”が開設されたところだろう。


15分ほど急な石段をのぼると立派な仁王門に続き、三重塔が現れる。

石段と仁王門

仁王門

�絶見(見)寺三重塔


三重塔より一段高いところが平坦になっており礎石が散在する。周りを見渡す
とこれ以上高いとこころはなくどうも頂上のように見えた。このためここが
安土城跡と勘違いしてしまった。
礎石群

案内標石

実は、ここが江戸末期に焼損した本堂伽藍の跡だったようである。
確かに案内標石を拡大してみると�絶見(見)寺跡と書いてあり、石柱にも”右 安土城跡”
と刻まれている。

家人を駐車場に一人残してきており、ゆっくり探索できなかったので勘違いに
気付かなかった。

木々の間から琵琶湖が広がって見える。勘違いのまま、これがかつて信長も見た
安土城からの眺望なのだろうかひとり感激して下山した。


しかし、その後どうも様子がおかしいことに気が付いた。城跡にしては石垣
が小さすぎるし規模も小さい。往復の所要時間も30分足らずである。
後で調べるとどうも本当の安土山山頂は別にあるようなのである。


●今年(5月末)の再探訪
 以来ずっと気にはなっていたのだがわざわざ立ち寄る気にはならなかった。
ところが今年、ひょんなきっかけで再び訪れることになった。その経緯は省
くが、兎も角、今回も前回と同じく百々橋口の方へ回ることにした。

 しかし前回と何やら若干様子が違う。石段のところに立て札が立ててあり、
注意書きのようなものが書いてある。一瞬、通行止めというような文字が目に
入った気もするが、石段に柵はなく前回も登っているので気にも止めずに
登り始めた。すると20mほど登ったところで左手に神社があり、その先が
通行止めになっていた。

前回はこの道をフリーで登っており、まさかこのような山道で入山料をとる
ようになっているとは思いもよらなかった。崩壊するかなどかで危険なため
柵がしてあるのかと思ったのである。引き返すのも面倒で取り敢えず先に進む。
※帰宅して調べてみたところ、安土城跡への入山は’06年6月から有料と
 なり大手門口に料金所が設けられているとのこと。前回行ったのが’05
 年のGWだからそれから1年後に有料化されたことになる。
 入山料500円。駐車料金500円。整備するのに金がかかったとは言え
 石畳だけの山道に合計1000円はないだろうと思う。
大手門口(奥の関所のようなところが料金所:ネットから引用)



安土山地図(Google Mapより)
 百々橋口からの登りは等高線が密になっており急峻であることがわかる。
 三重塔のところが一つの峰になっており、安土山は更に奥にある。
 木立があって前回は奥にあるもう一つの峰が判らなかった。


今回見た三重塔


ここを一旦下ると峰と峰の間の鞍部で大手門からの道と合流する。というより
大手門口から登るとここで天主、本丸方面と�絶見(見)寺三重塔方面へと分岐する。
なので大手門口から登っていたら間違うことはなかった。
さらに進んで天守等があった安土城跡へ向かう。

天主跡
 縦横20mほどの矩形のくぼ地に礎石が並ぶ。意外と狭く感じるが、実は
 このくぼ地は天主の基礎部分にあたり、周囲の背丈ほどの高さの土手一杯
 に天主が建てられていたらしい


天主跡からからの琵琶湖の眺め



築城当時は安土山の周囲は琵琶湖の内湖になっていて湖水が広がっていた
ようで、現在とはかなり眺めが違っていたらしい。

車に戻ると散歩に来ていた地元の人らしい年配の人が居て、話をすると
「たった3年しか存在しなかった城をわざわざ見にくるとは」と言っていた。
地元の人は日常化して歴史を感じないようだ。

ともかくも、これで積年の疑念が晴れてすっきりした。


信州ドライブ 往復1,800km

2013-06-04 | 旅行
 毎年GWの恒例行事と化している信州へ今年もまた出かけた。

4月末に東北地方への桜巡りのドライブ旅行から帰ってまだ一月余りしか経って
いないが、愛知東海に住む長男夫婦が泊りがけで来るように誘ってくれたので
3日ほど厄介になり、そのついでに信州まで足を延ばしてきた。

長男夫婦には今年9月で2歳になる男の子がいる。ヨチヨチながら歩き始め、
まだ片言の単語しか話せないものの身体を使ってで表現してくるので本当に
可愛い。
この孫息子はまた肉親の贔屓眼を差し引いて第三者の眼でみても可愛い。

東北旅行の帰路にもこの孫息子に会うために立ち寄った。もともと我々の
旅行はおおまかな旅程は決めるものの、旅先の天候などの状況変化によって
予定を変更することが多い。臨機応変といえば聞こえがいいが、いいかえれば
行き当たりばったりの旅である。この時も弘前に行きたいと思っていたのを
桜の開花が遅れているので角館で引き返してきた。
そんな具合で、前日に息子夫婦の都合を確認しただけのいわゆるいきなりの
訪問だったので半日居ただけで午後には退去した。
今回はそれを思って長男夫婦がゆっくりするように誘ってくれたのだろう。

東北旅行の時もそうだが、こんないい加減な我々夫婦を長男の嫁は嫌な顔ひとつ
せず迎えてくれた。子育てについても叱ることをせずに褒めて躾をやっている。
子供のペースに合わせゆったりと育児を楽しんでいるようだ。この子はきっと
いい子に育つだろう。

長男一家のところにまだまだ居たかったのだが、長居すると嫌われる。これ
以上の長居は無用だ。
後ろ髪を引かれる思いで後にして信州に向かう。


今年の信州は5/23~25の3日間だったが、連日、雲がほとんどない快晴で
山を見るには絶好の天候が続いた。ただ欲を言えば信州はやはりGWの時期が
ベストのようだ。この時期、山の雪解けがほどよく進み、桜と桃、そしてコブシ
とまさに百家繚乱。遠くの雪山と里の春を一度に楽しむことができる。

これに対して5月の末というとさすがの信州も花は散って若葉の季節。山の残雪
も薄くなっている。


馬籠宿
毎回立ち寄ってはいるが、やっぱりここに来ると”いかにも信州に来た”
という気持ちになる。皇女和宮、篤姫も輿入れの時に通ったと言う。
島崎藤村記念館もある。

 馬籠入口

 辻にある水車

 馬籠宿石畳道


道の駅「日義木曽駒」
 中仙道の中間点にある道の駅。木曽駒ケ岳がくっきり見える。
 余談だが、一昨年ここでミニチュア木工で使う檜の板を買ってきた。

 遠方に木曽駒ケ岳を望む




松本城と北アルプス
この日は格別の快晴で、年に数日しかないそうである。
城の東側の堀端にある市役所の駐車場に車を停めさせてもらった。昨年
まで見かけなかった管理人が配置されていて、市役所に用事があるか否か
をチェックしているようだったが咎められなかった。(その節はお世話に
なりました)

 東側にある太鼓門
  数年前に補修・再建。門の中に登ることができる(有料)


 松本城と北アルプス
  中央の特徴ある三角錘形の峰が常念岳



北アルプス常念岳
常念岳は松本のシンボル。松本市から犀川沿いに車を走らせて、豊科インター
方面に向かって犀川に掛かる「田沢橋」を渡るところで車の前方に常念岳が
現れ圧倒される。


大王わさび農場
 わさび田
 日よけのスクリーンで覆われている


 水車小屋とゴムボート遊覧
 黒澤映画のロケで使われた水車小屋が残されていて、湧水の流れ
 と一体になっている。


 木々の間から眺める北アルプス
 GWにはここから桜の花越しに見えるが、桜が散ったあとなので
 若葉越しとなる。


 有明山
 この山も特徴のある形をしていて一度見たら忘れられない
 近隣の池田町立美術館に行ったことがあるが、そこから見える
 北アルプスと有明のパノラマもまた良かった。



 白馬
 大町方面から望む白馬連峰


 白馬駅前


 白馬駅前から望む白馬連峰


 白馬青鬼地区
 白馬駅の北方に10kmほど山合いを登ったところにある青鬼(あおに)
 地区。昔、白馬から戸隠へ抜ける街道筋だったようだ。ここから見える
 白馬がまたいい。
 写生の人たち


 正面のこんもりとした樹木はコブシ。GWごろに全体が白い花で包まれ
 白馬連峰、水田と会わせて一見の価値がある。  



 水面に映る白馬
 地区の田植えはほとんどが済んでいたが、最上段の棚田だけ代掻きのまま
 残されていた。風がなく水面が鏡のように白馬を映す。


 地区の民家


 100人ほどの学童の一団が写生に来ていた。多分、白馬北小の学童達の
 遠足か何かの学校行事なのだろう。北小学校からだと距離にして5km余り
 だが、青鬼口からの標高差135m。しかも学校から青鬼口まで7、80m
 下っているので行き帰りで200mほども昇り降りすることになる。
 元気な子供たちを見かけると元気がもらえていい。



 白馬大出公園
 茅葺屋根の民家と吊り橋に白馬連峰が映える。
 白馬の観光パンフレットに”日本の原風景”とある。



 穂高神社
 ここの駐車場で昼寝をした



 伊那谷 道の駅「いいじま」から望む駒ヶ根




 東北旅行で3,300km、信州へ1,800km。一月の間に合計5,000kmも走ったこと
 になりさすがに疲れた。しかし信州は何度行っても飽きない独特の雰囲気
 を持っている。

象潟(きさかた)と国宝・羽黒山五重塔 (東北旅行No.5)

2013-05-30 | 旅行
  東北地方のドライブ旅行から帰って既に1月以上も経ってしまった。これほど間隔が空いたのは生来の筆不精に
  加えて、ここ9日間ほど信州に出かけて家を留守にしていたためである。この間に福島・三春町で満開だった桜
  前線ははや角館を通過しようやく稚内に達しているらしい。
  西日本は昨日梅雨に入った。やはり日本は広い。


 角館では残念ながら桜は蕾の状態で、来年の再訪を誓って角館を後にする。
 さらに北の弘前城の桜も見たかったのだが、角館よりさらに北の弘前は
 当然桜の開花はまだのはずなので、北上を断念して日本海側を戻ることにした。
 

 次の目的地は以前から一度行ってみたかった山形・羽黒山。
 羽黒山には国宝の五重塔がある。国内の屋外にある国宝五重塔が9基あり
 そのうちこの羽黒山五重塔だけは写真でしかお目にかかったことがない。


 それと、都合のいいことに羽黒山への途中で、鳥海山、象潟(きさかた)を
 通る。松尾芭蕉が奥の細道で訪れたところであり、ここも一度行ってみたい
 ところであった。


 
 <角館から象潟へ>
  角館を出て、秋田自動車道の協和ICから高速道に入る。一旦秋田市方向へ
  北上して次の河辺JCTで日本海東北自動車道へ入る。日本海東北自動車道は
  通行車両が少なくほとんど借り切り状態である。全通していないせいか秋田
  空港(正確には岩城IC)から金浦まで約60kmほどが無料らしい。
  金浦で一般道路に出るとすぐに象潟となる。
  象潟は芭蕉が「奥の細道」で訪れた当時は海で、九十九島とよばれる多くの
  小島が浮かんでいて松島と並ぶ景勝地だったという。
  芭蕉が訪れたのは1689年。それから120年ほど後の1804年に起こ
  った象潟地震により2mほど隆起して今は陸地になっている。
  地理好きな身には非常に興味が惹かれる場所である。
  国道沿いに道の駅「象潟ねむの丘」という6階建ての建物があり、最上階が
  無料の展望台になっていてエレベーターで昇ることができる。

  展望台から象潟を望むとかつて多島海だったという地形が良く判る。
  かつての小島は松が残り、海だったところは今は水田になっている。
  遠くに鳥海山が見えるが残念ながら頂上は雲の中であった。山容の大きな
  ゆったりした山である。

  
   左側(北)方面
  

  説明板に芭蕉との謂れが明記されていた。
  
  

  飽きずに眺めていたかったが家人が先を進むよう急かせる。  

  

 <羽黒山>
  吹浦というところで国道7号線を別れ、国道345号線に入る。
  謂れはわからないがここは飛鳥バイパスというらしい。
  しばらくして最上川沿いを走る。ナビを見ていると川向こうに
  余目という地名が目につく。確か10年くらい前、JR特急が橋を通過した
  直後に突風に煽られて脱線し、線路脇の畜舎に突っ込んだ大きな事故
  があったところである。この地帯は季節風が激しいところらしく、国道
  沿いの各所に暴風壁が設置されていた。折りたたみ式の所もあり収納作業
  やっていた。また、遠く海岸沿いに延々と松林の防風林が続いている。
  事故現場も見てみたかったが先を急ぐのでパスすることにする。
  
   五月雨を 集めて速し 最上川

  「奥の細道」で余りに有名な最上川も川幅は意外と狭い。
  最上川にかかる橋を渡り、狩川というところで出羽三山神社方面に
  向かう。田舎道なので迷いやすいところだが、ナビがあるので心強い。
  ほどなくして出羽三山神社に到着。
  
  出羽三山神社
  

  石段を下り、さらに踏み固められた雪道を進むと杉林の中に五重塔が現れた。
  
  
  高さ29.0m、東北地方で最古の塔という。
  杉木立の中に凛として建つ姿がまた美しい。
  国宝の五重塔は屋外のもの9基のほか屋内の小塔が2基、合計11塔あり、
  そのうちまだ見ていないのは奈良・海龍王寺の小塔残すのみとなった。

  参道の大鳥居
  


 <鶴岡>
  羽黒山から高速道へ戻る途中で鶴岡市を通過。鶴岡といえば時代小説で
  有名な藤沢周平の出身地。海坂藩という架空の藩がよく出てくるが、鶴岡城
  がモデルなんだろうと思いながら車を走らせていると、偶然、今は鶴岡公園
  となっている鶴岡城跡そばを通り、丁度鶴岡桜祭りの開催中であった。
  先を急ぐがUターンして立ち寄ってみた。
  
  
  正直なところ桜は3、4分咲きというところだったが、それでも盛大な人出で
  あった。短い春が待ちきれないのだろう。
  桜前線は山形まで来ていた。

  
  帰りは、新潟から関越道に入り、川崎、横浜の次男、三男のところを経て、更に名古屋の長男のところにも
  寄ってきた。その後、京都、岡山と中継しながら無事に帰りついた。
  総走行距離は3,300km。旅の途中でエンジンオイルを交換する予定だったがとうとう変えずじまいとなり交換
  なしで8,000kmも走ってしまった。

  この旅で感じたことは、当たり前のことではあるが”日本中、どこを走っても道は同じ”ということ。それと
  改めて振り返ってみると、この旅では18都府県を通過したことになるが、不思議なことに府や県境を一気に
  走り抜ける高速道でさえ県境を越えるとその県のナンバープレートの車が急に多くなる。人の移動は意外と狭
  いことに気付かされる。
  また、ガソリン単価が県によって大きく差があった。原油先物価格変動の影響が大きいのだろう。

  車で旅行すると地元の人たちと話しをする機会が少ないものの、道の駅での買い物などのちょっとした会話で
  北国の人たちの純朴さが伝わってきて心がほのぼのとする。

  この3300kmを一人で運転したのも凄いと思うが、助手席に乗って大人し<(?)付いてきた家人の方も凄い。/font>




  
  
  


田沢湖を経て角館へ (東北旅行No.4)

2013-05-16 | 旅行
    4月末に行った東北旅行を行き先ごとに分けて書き始めたがなかなか筆が進ま
   ない。キーボード入力なのでタッチが進まないと言った方が妥当かもしれないが
   兎も角、5/2に起稿して既に2週間にもなる。
   遅れるのに従って道中の記憶や現地で感じた事柄などもだんだん不確かになって
   きた。



 4/19盛岡で石割桜と啄木新婚の家を見物したあと、国道46号線を西走し角館に
向かう。盛岡から県境を超えて角館まで65km、岩手から秋田へと県が変わるが
車で1時間半ほどの距離でしかない。意外と近い。

盛岡中心部から国道46号をしばらく西に走って山間部に入ると雫石町の表示がある。
雫石といえば約40年ほど前に全日空機と航空自衛隊の戦闘機が空中衝突して多数
の死者が出たところだ。確か航空自衛隊側はパラシュートで脱出したものの全日空
機は高度8000mの上空であっという間に空中分解して100人以上の乗員、乗客全員
が死亡したはず。
8000mの上空で突然空中に投げ出された人たちの恐怖は如何ばかりだっただろうか。
当時、映像ニュースがあまり流されなかったのか、あるいは忙しくてニュースを見る
暇がなかったのか映像での記憶はまったくないが”雫(しずく)”という文字が余り
に印象的で事故の記憶が鮮明に残っている。
落葉樹の林に雪がうっすらと積もっていていっそう寒々しい。

さらに奥羽山脈を登るにつれて雨がみぞれ模様に変わってきた。峠の下を貫く仙岩
トンネルというトンネルの入口付近では完全に雪になった。

このトンネルが完成するまでは標高が900mもあるつづら折りの峠を超えていたよう
だが今は標高600mほどのトンネルを一気に抜けることができ、あっという間に秋田
県である。

秋田県側はもう仙北市。角館は合併により仙北市角館町となったらしい。もうゴール
の角館まですぐだがここで一旦田沢湖に立ち寄ることにする。山や湖の自然風景が
大好き人間としてはぜひ見ておかなくてはならない。

田沢湖は日本一水深が深いことで有名であり、最深部の標高は海面下になるらしい。
また最近は酸性化で絶滅した田沢湖固有のマスの一種クニマスが以前放流したことが
ある富士五湖の西湖で生き残っていたことがわかったということで話題にもなった。

仙北市役所付近で国道から右手に折れて田沢湖方面に向かう。
田沢湖は思いのほか広い。周囲の山々は雲に隠れているものの対岸はくっきりと
見えた。
日本一深い湖なので真っ青な湖面を想像していたが、意外にもまるで海辺かと
見まがう広い砂浜もある。多分湖水浴場でその先は深淵になっているのだろう、
砂浜から先の湖水の色は急に青みが増している。

湖岸沿いの道路をゆっくりと時計回りに半周すると湖岸に金色の「たつこ像」が
建っているのが見える。十和田湖の「乙女の像」はたびたび目にするがこちらは
当地にきて初めて知った。「たつこ」は田沢湖誕生を神話化した伝説の人のよう
だが余りに現実的な像ではあった。


ここで急にしぐれて一時的に吹雪のようになった。「たつこ像」前の土産店には
中国人と思われる一団が観光バスを仕立ててやって来ていた。多分レッドチャイナ
ではなく台湾系のグループだろうが心なしか寒そうに見えた。

たつこ像が建つ湖岸から田沢湖を離れ旧羽州街道を南に下る。しばらく車を走らせる
とすぐに角館。

桜並木で有名な武家屋敷をそのまま車で通り抜け、角館駅前の観光案内所に。
家人は観光地では必ずと言っていいほど真っ先に観光案内所を探す。観光情報を手に
入れるためだが、今回は”観光パスポート”なるものをくれた。観光スポットでスタ
ンプを貰うとなにやら特典があるらしい。

角館の桜は残念ながらまだ蕾み。東北は南北に長い。どうもこの寒さで桜前線は
宮城、山形で足踏みしている。

昼食は武家屋敷にまた戻り近くの蕎麦屋へ入る。なかなかの有名店であるらしい。
メニューの筆頭に武家蕎麦とありお勧め品のようであるが中味が判らない。
そこで若い女性店員を呼んで確認したら、前掛けのポケットから小冊子のメモ帳
のようなものを取り出してそれを見ながら説明してくれた。聞くと、勤め始めたばかり
で今日が初日だという。初々しさがまたいい。おまけに色白の秋田美人。
あまりに可愛いので顔ばかり見て肝心の説明は頭に入らなかった。でも蕎麦は蕎麦
、やはり武家蕎麦を注文した。


ちょっと早いがホテルにチェックインするとフロントで「樺細工伝承館」と「新潮社
記念文学館」の共通入館券をくれた。ホテルに車を置いて、武家屋敷を散策すること
にする。武家屋敷は南北に1km余り。散策には丁度いい。
両サイドの桜並木は開花0%


まず、樺細工伝承館。桜の樹皮を材料の表面に貼って装飾するもので、細やかな細工
に驚く。

次は武家屋敷のうちの「石黒家住宅」。
財務関係を取り仕切った上級武士ということだが、主家の佐竹北家本体が3000石
というので豪商の大邸宅などと比べるとやはり見劣りする。
亀の彫り物のある欄間


母屋と庭の大木


桜の開花にはまだ程遠く人通りも少ない。早々にホテルに戻る。
徒歩5分ほどのところに角館温泉がありゆっくり足を伸ばした。久しぶりに浴槽に浸
かった。

最後に角館の観光ポスターから

今年はダメだったが、来年の桜のシーズンにもう一度チャレンジしたい。







石割桜 & 啄木新婚の家 @盛岡

2013-05-01 | 旅行
4/18は三春町の滝桜、中尊寺を訪ねた後、再び東北道で一路盛岡へ。

盛岡に入って、カーナビは盛岡ICを出るように示しているが広域MAPで見ると一つ前の盛岡南IC
の方が近そうに見える。盛岡南ICを出たあとのルートをチェックしてみようと盛岡南ICの出口付近
で本線との分岐スペースに車を止めてカーナビを操作していると、突然、運転席のウインドガラス
をノックする人が・・・。

何事かと窓を開けると合羽を着た警官がそこに立っている。停車場所は白線の縞々模様で駐停車
禁止の箇所。こちらが何事かと驚く場合ではなく、警官の方が何事かと驚いたに違いない。

ルートを確認していることを告げると南で出てもすぐ行けると教えてくれた。あとはカーナビが
示すとおりに行けばいいとのこと。すぐICから出るようにと告げた後、パトカーの方に無線で
「応援は居らない」と連絡して立ち去った。

分岐部分にある緩衝バッグに近寄りすぎていたのでこれにぶつかったと見えたのかもしれない。
小雨ではあったが雨の中、この警官にはたいへん迷惑をかけた。

4/18は盛岡泊まり。


翌4/19はホテル最上階の展望レストランで盛岡市街を眺望しながらビュッフェスタイルの朝食を摂る。
これがなかなか豪華で美味であった。ツインの朝食付きで7,600円足らず、シーズン直前の格安価格
かも知れないが本当に頭が下がる。

朝食のあと、有名な石割桜と啄木新婚の家を回ることにする。
石割桜は残念ながらまだ開花が始まったばかりで殆ど蕾みの状態であったが、石割りの名前どおり
花崗岩の割れ目に生える姿が猛々しい。



グリーンのベレー帽とネッカチーフをしたボランティアガイドさんの懇切親切な説明を聞きながら一周
する。朴訥とした岩手訛りが柔らかく響く。

続いて700mほど車で移動して啄木新婚の家を訪ねる。
今は住宅街となった一角にひっそりと建っている。我々のほかに観光客はいない。
ここに、渋民村の住職を追われた両親と間借りして住んだとのこと。家人はどうも啄木は自尊心が強く
被害者意識が出すぎて余り好きではないようだが、当方は小学校時代に教科書で読んだいく編かの短歌が
頭をよぎる。
ーその昔 小学校の柾屋根に 我が投げし鞠 いかにかなりけむ
ー石をもて追はるるごとく ふるさとを出でしかなしみ 消ゆる時なし
ーやはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに
ーかにかくに渋民村は恋しかり おもひでの山 おもひでの川
ーふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな
ーそのかみの 神童の名のかなしさよ ふるさとに来て泣くはそのこと    
  ーたはむれに母を背負ひて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず
ーふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく
ーはたらけど はたらけど猶わが暮らし楽にならざり じっと手をみる
ー東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたわむる
等々・・・・

赤貧の中、不遇のまま夭逝した啄木が偲ばれる。それにしてもこの時代の生活の貧しさに
胸が痛む。それに比べて、今は生活程度は上がったがなんと心の貧しいことか。
ふるさとの山、川を振り返る余裕さえないように見える。世の中不満、要求だらけである。


正面玄関の裏側のこちら側が石川家の玄関。こちらは締め切りとなっている。


そんなことを思い馳せながら、次の目的地の田沢湖、角館へ向かう。

中尊寺金色堂と義経堂 (岩手県平泉)

2013-04-29 | 旅行
4/18三春の滝桜を堪能したあと、東北道をさらに北上して一関ICで高速を降り平泉に入る。

中尊寺金色堂は以前から一度行ってみたいと思っていた。
藤原三代の栄華を誇る金色堂、義経が兄の頼朝に攻められて従者の弁慶とともに滅んだ衣川古戦場は憧れは
あっても山口からははるか遠く今までなかなか行けなかった。


 国道から中尊寺方面に折れたすぐのところにある駐車場に入らずにさらに上の駐車場を目指す。あとから
判ったことだが、この駐車場に車を止めると参道を相当歩いて登ることになっていた。
家人は学生時代に友人と一度来ている。今から数十年前のこと、JRおよびバスを乗り継いで来ており、その時
は当然のことバス停から相当歩いたと言っている。

 参道入口のこの駐車場入口に「この先700mで坂の上駐車場」の案内板がある。
上ってみると、バス旋回場のような広場で駐車場らしきものがあるものの入口にはチェーンが掛けられていて
中に入れない。

引き返そうとしてUターンしたところに運よくバスガイドさんのような制服の女性が通りかかったので聞いて
みたところもう少し奥に行くと駐車場があると教えてくれた。
おかげで往復1.4kmの道のりを歩かなくて済んだ。

金色堂はコンクリート造りの覆堂にすっぽりと収められている。全体が金箔で覆われた金色堂はもちろん壮観
だが、金色堂内に阿弥陀仏があってその須弥壇の細やかな螺鈿細工等々の装飾が何よりすばらしい。

 内部は残念ながら写真撮影が禁止されているので納堂の外観からカメラに収める。



 次は義経堂。一旦国道に出てすぐに左側の側道へ抜けると500mほどで行き着く。
義経堂は石段を10m位登ったところにあるが、登ってみると眼下に北上川の雄大な流れが一気に広がって
おり思わず息を飲む。正直なところ、金色堂より迫力がある。
【左手方向】

【右手方向】


義経が討たれた衣川は北上川の支流であり、義経堂から見ると左手前方にある。
(左手前方の鉄橋付近)
これはまさに一見の価値があった。

この日は更に北上して盛岡で宿をとる。


三春の滝桜

2013-04-23 | 旅行
4/16大阪造幣局の桜の通り抜けで夜桜を楽しみ、大阪で一泊後、一気に福島三春町まで車を飛ばした。

大阪から 三春町まで高速道路の深夜割引が利用できると思っていたが事は簡単ではなかった。東京の首都高速で東名と東北道が繋がっているものの通しでは深夜割引が効かないらしい。首都高速は旧道路公団系のNEXCOと別料金なので、深夜割引を利用するには23時から4時の間に東名出口のICを通過して東北道入口のICに入る必要があるとの由。途中のSAのインフォメーションコーナーで家人が首都高速の連絡方法を問い合わせてくれたのでわかった。

しかも、常磐道なら首都高速で東名と直に繋がっているが、東名と東北道は連絡が悪いということも教えてくれた。家人はこの点ではなぜか嗅覚が鋭い。 深夜割引の時間帯になる23時以降に東名を出るには時間が早い。そこで出口IC前のPAかSAで仮眠しを兼ねて休憩することにする。ここでも家人の機転が活躍する。出口ICの直前の港北PAでは時間調整で満杯になる可能性があるのでその前の海老名SAで休憩しようと言う。

海老名で休憩し23時の約10分前に出発すると、やはり港北PAは満杯らしい。

御殿場付近から見えた富士



東京ICで東名を降り、環状8号線(環八)経由で川口ICから一路東北道へ入る。

郡山JCTで船引三春ICで一般道へ。

4/17、三春の滝桜はまさに満開。樹齢1000年という枝垂れの桜でさすが中央の幹だけでも太さが1mほどもある。土を踏み固めて根を痛めないように周りに柵がしてあり幹に触れることは適わないので歩道から届く枝垂れの枝先から樹齢1000年のパワーを授かることにする。大木や御神木をみると幹に触れパワーをいただくことにしている。





ネットで調べてみると昨日現在、見ごろから散り始めとある。桜は満開もいいがそよ風で花びらがはらはらと散る桜吹雪もまたいい。








三重塔巡り 重文(1)  前山寺(長野・上田市)

2013-03-24 | 旅行
 前山寺は、先に国宝の三重塔で紹介した安楽寺(上田市別所温泉)、大法寺(青木村)にほど近い。3つの古刹は安楽寺を中心に半径5km以内にある。以前にも書いたが国宝および重文の三重塔がこれほど密集しているところはここをおいて他にはないだろうと思う。

更に上田市郊外にも信濃国分寺の三重塔がある。こちらも重文に指定されているが、残念ながらまだ行ったことがない。少なくとも三度はそばの国道を車で走っているにもかかわらず素通りしてしまった。国分寺、国分寺跡があると判ればだいたい立ち寄ることにしているので非常に残念である。しかしこれは余談。


前山寺付近には遠く鎌倉につながる鎌倉街道が残っている。鎌倉幕府に事変があるとすぐ馳せ参じることができるようにと設けられたという。あの「すわ、鎌倉!」の鎌倉街道である。


前山寺全景



本堂



三重塔