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ディクスン・カー試論 準備稿 その1

2022年08月31日 | JDカー
ジョン・ディクスン・カーの作品について、気づいたことを述べていこうと思います。

1937年のライン

まず1937年にラインを引き、37年を含むそれ以前A群と以降B群に作品を分けます。
1937年を境にして、フェル博士もの作品の舞台設定が変化を見せます。
デビュー作の『魔女の隠れ家』を除いて、A群の作品舞台はすべて公共の場が選ばれています。
これは具体的に公の場所という意味だけでなく、そこに居合わせる容疑者たちは烏合の衆に近い人たち、という意味も含んでいます。
それと37年にはフェル博士ものを発表していません。
本名で発表していた「フェル博士もの」が書かれていないということは、
カーの心中になんらかの逡巡があったからだと思われます。

ところで37年発表の『火刑法廷』は、おそらく怪奇小説分野に執筆マーケットを拡大しようとして生まれた作と思われますが、
怪奇小説マーケット側からすると探偵小説的な謎解きは受け入れられなかったのでしょう。
また36年発表『エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件』は歴史の中にミステリを発見した意欲作ですが、
歴史研究者側からの評価はどうだったのでしょうか。
この2作からは「ただの探偵小説作家では終わらない」という気概が伝わってきます。

さて、1930年のデビュー作から37年の作品までを プロットの特徴でマーク分けしてみました。
まずは「▲」のマークを付けた作品は、殺人現場を目撃する、という趣向のものです。
目撃者のある殺人、あるいは目撃されたと想定される殺人、ということです。
23作中、11作品があり、ほぼ5割を占めることになります。
エラリー・クイーン作品で同じく1937年までの作品(『ローマ帽子の謎』から『ニッポン樫鳥の謎』までの11作)で見ると、
殺人現場を目撃する、という趣向の作品は『アメリカ銃の謎』、『オランダ靴の謎』の2作になり、約2割となります。
アガサ・クリスティ作品で1937年までの22作品の中で同じ趣向を探すと、
『邪悪の家』『ひらいたトランプ』『ナイルに死す』の3作かと思われ、約2割弱となります。
するとカーの5割、というのは探偵作家の中でも非常に多い方になり、
『殺人を目撃する』という趣向がカーの特徴と言えそうです。

『殺人を目撃する』ことの意味は何でしょうか。
『殺人を目撃する』という趣向を『殺人現場の舞台化』と名付けたいと思います。
舞台化ですからそこには観客、すなわち目撃者がいます。
そして目撃者が複数になればなるほど複数の証言が相矛盾することになり、事件が不可能犯罪の様相を帯びてきます。
さらにこのA群で特徴的な点は、 メインプロットへ読者の注意が向かないように、
レッドへリング的にサブプロットを配した、サブプロットの『並行輻輳化』です。
例をあげるならば『一角獣の殺人』で言及される、怪盗、覆面の探偵、公園で死んでいた男、謎の凶器、
それらが同時並行して話がすすみます。
『殺人現場の舞台化』と『並行輻輳化』の二つが、この時期のカーの手法だと思います。
この二つを使い、とくにフェル博士ものの「◎」の付いた作品は、犯人の動機を隠すことに腐心しているように見受けられます。
しかし矛盾している証言を破綻しないよう、かつ輻輳するプロットを最後に収束させるためには、
相当に強引なストーリー牽引力と長い謎解きパート(探偵の言いわけ)が必要となって、不自然感がぬぐえなくなってしまいます。
探偵による延々とした謎解きを読まねばならない読者としては辛いところです。

『殺人現場の舞台化』『プロットの並行輻輳化 』を駆使してカーは初期の作品を書いていくわけですが、
そのピークが『三つの棺』と『赤後家の殺人』を書いた1935年であることは間違いないと思います。


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