2018年11月20日(火) 163日目

2018-11-20 22:17:45 | 日記
今日は遅番(11:30~20:00)。

今日はしんどいユニット担当だったが、
2人利用者が入院していてラッキーだった。
自分の身体の動きはいまひとつだったけど、
この人数ならまだ余裕が持てた。


☆ ☆ ☆

今日もしつこく「新自由主義(ネオ・リベラリズム)」の話題で。

小野塚知二氏の『経済史』(有斐閣)を先月読み終えた。

   

この本は経済史の教科書的な内容で(しかもお堅い有斐閣)、
テレビでの池上彰氏のように中立的で当たり障りのないことしか言わないのかと思いきや、
ネオ・リベラリズムについては意外に感じるほどコテンパンに批判しているんだよね。

例えば以下のような記述。

◆誰でも「働けば何とかなる」わけではないことは、働いても自立にほど遠いところにある者が無視できないほどいることが発見された19世紀末には、すでに確定した知であった。すでに決着がついたはずの議論の蒸し返しというのは、しばしば見られる現象だが、研究者がそれを見過ごすなら、単に知的頽廃というだけでなく、政策の進化も損なわれてしまうだろう。

◆ネオ・リベラリズムは「強く逞しい個人」を前提にしている点では古典的自由主義の再版であって、介入的自由主義の色を帯びた現代への批判であると解釈することができる。しかし、政策思想として見た場合、ネオ・リベラリズムは古典的自由主義のきわめて不完全な再版にすぎない。

◆古典的自由主義が自らを成立させる条件として到達した集団的自助と工場法については、ネオ・リベラリズムは明らかに否定的・消極的な態度を示しており、古典的な社会設計を放棄している。

◆古典的自由主義が動態としては社会設計を完成させる方向に進化しようとし、また介入的自由主義は初発から「弱く劣った個人」を定まった「幸福」へ誘導するという完結した社会設計を示していたのに対して、ネオ・リベラリズムは社会設計としては完成の何歩も手前で進化を拒否した硬直的な政策思想に留まっている。

◆ネオ・リベラリズムは政策思想として社会を観念的に再構成できないだけでなく、個々の政策領域においても、目的合理性という近代市民社会に不可欠の評価基準を喪失している。



今の日本の政権は、経済にある意味積極的に「介入」していると思うけど、
その「介入」の仕方が、強者をますます強くするような介入の仕方なんだよね。
普通の介入的自由主義であれば、強者から弱者へ所得移転(再分配)させるのが常道だと思うけど、
まったく日本はおかしな国だよ。ネオリベ以上にひどいんじゃない?

「自己責任」という言葉は個人的に嫌いな言葉だけど、
「貧困は自己責任だ」と一概に言ってしまうのは、その人がいかに無知かを曝け出しているようなもんだろう。
(日本では「貧困は自己責任」と考えている人の割合が世界でも異常に高いらしい)
だいたい「自己責任」云々と言うのなら、
金融危機が起こった際に公的資金で金融機関を救済するのは止めてもらいたい。

結局ネオ・リベラリズムのなれの果ては、
強者が金の力で政治やメディアを籠絡して、自らに有利な政策ばかり実行させることなんじゃないか?
こんなバカバカしい状況は早く終わらせないとダメだよ!!