2018年11月19日(月) オフの日

2018-11-19 19:24:31 | 日記
今日はオフ。

月に一度の母親の検診のため、車で病院に連れて行った。
もうそろそろ11月も下旬。
また慌ただしい時期になるなぁ。


☆ ☆ ☆

昨日「日本人は新自由主義(ネオリベラリズム)に汚染され過ぎで思想を改めるべき」
と書いたけど、今日病院の待ち時間に新聞をまとめ読みしていて、
「おー、これいいなー」と感銘を受けた記事に巡り合ったのでそれをご紹介。

思想や哲学は直近の金儲けには何の役にも立たないかも知れないが、
この先の社会をどう構想するかには大いに役立つものだと思う。
いやむしろ思想や哲学なくして将来の社会を構想することなど不可能なのではないか?

朝日新聞11月17日(土)のオピニオン欄、豊永郁子氏の「政治季評」より。

日本がもし依然として欧米型の近代国家を志向しようとするのなら、
ホッブスとかロックとかルソーとか、
その辺の「社会契約論」からもう一度真面目に考え直した方がいいのではないか?
いくら「日本は議会制民主主義の国だ」なんて言っても、内実が伴っていないにも程がある。
「仏作って魂入れず」とでも言うのか、形だけマネても精神が伴わなければ意味ないでしょう。

それにしても、この豊永氏(早稲田大学の政治学教授らしい)の記事には個人的に大いに感銘を受けた。
複雑で分かりにくい部分もあるが、要はこういうことだろう。
「弱者をなめるな」(by ホッブス)
「価値がないと思われる生を生きる行為こそ尊い」(by カント)


気に入ったので、頑張って全文書き起こし。


弱者が生きづらい時こそ ホッブスとカントのメッセージ

   

 弱者は生きづらい。何らかの困難を抱えているから弱者である上に、弱者であることによる困難を負う。
 一つに、尊厳を保つのが難しい。何しろ世には広く「弱肉強食」が言われている。弱者は常に脅されているようなものであり、萎縮し、卑屈になる。弱者への支援や配慮も、強者からの施しと解され、強者の一存でいつでも改廃され得る(先月行われた、唐突で根拠の乏しい、生活保護費の切り下げなどは好例である)。弱者は強者に負い目を感じ、翻弄されることに慣らされる。
 この弱者の尊厳が困難である状況に一石を投じてくれるのが、17世紀英国の哲学者ホッブスだ。注目すべきはその「万人の万人に対する闘争」の議論である。近代以降、我々の政治観・社会観を規定してきた有名な議論だが、時に「弱肉強食」の状態に言及していると誤解される。
 ホッブスはこう論じた。社会のない自然状態は「万人の万人に対する闘争」の状態であり、人々はこの状態から脱するべく、多数で契約を結び、社会を形成する。この契約で、彼らは平和と相互援助を約束し合い、さらにこれらの目的のために行動する絶対的権力を持つ主権者を設け、その意志に服従することを誓い合う。ここに単一の意志によって一つの生き物のように動く大勢の人間の集合体が生まれる。ホッブスはこれを人工の人間と言い、旧約聖書が伝える巨大な怪物の名をとって「リヴァイアサン」と呼んだ。ホッブスの時代にはまだ生まれたばかりの、近代的な国家のことである。

 このように社会と国家に先行し、社会契約を生む「万人の万人に対する闘争」を、ホッブスは一貫して強者を諌める観点から、つまり強者に恐れを抱かせ、生存のために社会契約を受け入れさせるものとして論じている。自然状態では強者の支配はすぐに覆され、強者は天寿を全うできず、強者が常に勝つとも限らない。つまり、それは「弱肉強食」の状態ではないのである。
 むしろ人間が平等だから、そして人間同士の欲求が競合するから、「万人の万人に対する闘争」は起こる。平等だから決着もつかず、「闘争」は永遠に続く。ここでホッブスが言う平等は、人間の総合的な能力の平等である。つまり、人間の間には大した能力の差はないということだ。
 これには驚かされる。規範として、希望として、平等を論じる思想は多数あっても、事実としての平等を告げる思想は稀だ。さらにホッブスは「最も弱い者が最も強い者を殺すことができる」ことを、人間のそうした平等の根拠とする。ギョッとするが、そうかもしれない。ホッブスが好んで引く旧約聖書では、少年が大男を倒し、か弱い女性が英雄を滅ぼす。これらは勇気や奸智の物語である以前に、人間の平等を伝える物語であったのだろう。
 要するに、ホッブスはこう言っているようである。「弱者と強者は平等であり、強者は弱者をなめてはいけない」。これは「弱肉強食」の主張を封じ、弱者に尊厳を取り戻す論に他ならない。

 さて、弱者に生じるもう一つの困難は、しばしばその人生や生命の価値が問われる局面に置かれることだ。弱者に限らないが、ある人が生きていることの価値が、その人自身によって、または他の誰かによって、否定されることがある。これは最悪の場合、自殺や殺人につながる。ここで「待った」をかけるのが、18世紀ドイツの哲学者カントだ。カントの論理によれば、むしろこうなる。価値がないと思われる生を生きる行為こそ尊い。その行為が、生きるという義務に従うことの道徳的価値を持つからだ。
 カントの議論では、義務にもとづく(従う)行為には格別の意味がある。それは単に義務に適うだけの行為とは違い、他の何のためでもなく、ただその義務のためだけに行われる行為であり、人間に純粋な「善い意志」が存在することを示す。生きるという義務にもとづく行為は、従って、生きることの意味や目的が見出せない場合にこそ、行われ得ることになる。老いや病気や障害や大きな不幸によって、生きることが苦痛である、あるいは人生に希望を持つのが難しい、そう思っていたり見えたりする人たちの生きる姿が、我々に深い感動を与えることがあるのは、このためだ。生きるという義務を敢然と果たす彼らの姿は、道徳的価値に輝くのである。
 このように二人の大哲学者は弱者への敬意を説く。ホッブスは「平等」を主張して「弱者をなめるな」と言い、カントは「『価値のない生』の価値」を論じて弱者に「生きよ」と言う。国家・社会・個人の弱者への態度は、彼らの議論を踏まえたものでなければならない。ことあるごとに唱えられる「弱者の人権」や「いのちの尊さ」も、彼らの議論に照らすことで、その意味や根拠が明確になるだろう。
 何より二人の声が、弱者に届いてほしいと思う。先頃、厳しい入院生活を送った際には、弱者の身を卑下し始めるとホッブスが、生きるのが辛いと思うとカントが、その声を脳裏に甦らせた。効き目は確かにあったと思う。